第6話
木造校舎の中央玄関を通り抜け、旗のない国旗掲揚台を過ぎると、私は立ち止まった。10メートル程先の運動場でアシダカグモが私を出迎えていた。そのアシダカグモは私の三倍程の高さのアシダカグモだった。八本の脚は均等に八方向に伸び、その横幅は私が両手を広げた幅の軽く数十倍はあった。その六つ眼は相も変わらず、それぞれが違う方向に向けられ、私を捕らえた眼は一つも無かった。しかし不思議に全てが私に向けられているようにも思えるのだった。その触肢と鋏角きょうかくに綿雪はなく、物静かに運動場に佇んでいた。身体全体を覆う体毛は、まるですすき野のようで、ところどころ溶岩のような黒い固まりから蒸気のような白い煙が立ち上っていた。六つ眼には漆喰の鏡のような艶があり、同時にそれらはどこか遠くへ繋がる洞窟にも思えた。しばらくその一つを凝視しようものなら、暗示に掛かったように私の心はいとも簡単に吸いこまれるようだった。本能からか恐怖からか、私はアシダカグモから目を逸らした。違たがえた視線にとまったのは、蜘蛛の背後、運動場の中央左手にある高さ15メートルほどの
蜘蛛の腹部下に大きな白い糸の絡まりが見えた。注視するとそれは大きなバスケットの形をした半透明なドームだった。私の腕ほどの幼虫が、その中を無数に蠢うごめいていた。幼虫の透明な脚には、茶色い腕章をつけたような縞模様があった。母蜘蛛の脚の上には鉾ほこのような二本の棘とげが天を指し、計十六本の棘とげは子を守ろうとする繁殖期の母蜘蛛の強い霊力を吹き出していた。この運動場に満ちた母蜘蛛のマナに抗わないよう、更に心を落ち着けた。
アシダカグモの周りは200メートルほどの白い周回線が引かれていた。それは小学生の運動会で良く見られるトラックだった。裏門の白い石灰の線に良く似ていた。しかしよく見るとそれは線ではなかった。それはアシダカグモの下腹部から出た長い蜘蛛のしおり糸だった。それはまるで消防車に接続された白いホースのようで、これから水が通されるのを待っているようだった。あたかも蜘蛛自身が結界を作るように、そのしおり糸は大きな楕円を描いていた。私はその周回線を迂回し、正門の方へゆっくりと移動した方が良いと結論づけた。気味悪さや親しみが複雑に入り交じった母蜘蛛の結界は、周回線上に密度の異なる空気の断面を作り出しているようだった。私は観察しながら知らぬ間に爪を噛んでいた。そこに微かな違和感を見出したのは少ししてからだった。裏門で触れた白い石灰の粉が指にはまだ付着し、石灰には似つかわしくない風味にはっと息をのんだ。この風味が何なのか思い出そうとしたが、なかなかはっきりしなかった。それは山羊のチーズのような酸味のある匂いを連想させたし、またユーカリの葉を精油したアロマオイルを思わせる清涼な匂いも喚起させた。しかし同時にいずれの二つにもあてはまらなかった。ひょっとすると周回線の内側にある栴檀せんだんの木の果実が放つ匂いかも知れないと、その憶測にたどり着くとなぜだか気分が少し軽くなった。その匂いには少なくとも心を落ち着かせる薬効が含まれていた。ビーコンが放たれたように周回線が小さく波打った。その小山の波は静かに一周し、一定の間隔で同じ動きを繰り返した。目の前をその波が通り過ぎた後、私はゆっくりとかがみ線に触れた。裏門にあった白い石灰の線と同じ感触だった。再び指についた白い粉を軽く舐めた。この粉も裏門のものと同じだった。裏門に引かれた白線もアシダカグモから切り離されたしおり糸だった。この芳醇な風味を持ってそのしおり糸と母蜘蛛を眺めると、私の心にはそれまでと違う印象が生まれていた。アシダカグモの下腹部に大事に抱かれている幼虫たちが愛おしく思えた。それら一つ一つの命は母蜘蛛の命から少しずつ切り分け与えられ、そこへ間もなく微かな光が初めて灯されようとしているようだった。アシダカグモの結界から放射されていた威嚇の気配がふっと消失した。私は吸い寄せられるように波打つ白い線の内側へ一歩踏み出していた。
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