第5話
教師の後を追いかけるべく私は席を離れた。教室を出ると急に罪悪感に囚われ、私を硬直させた。私は席を離れるべきではなかったともろみのような教室の安堵感は私を少し不安にさせた。しかし私の身体はそれまでにない軽快な動力を身に付けていた。大胆にも身体を動かせたことが不思議に感じられた。教師の姿は既に廊下にはなかった。私はこの建物をくまなく歩き回った。二階建ての校舎は歩く度に床板がぎしぎしと音を立て、私の身体を柔らかく跳ねた。全ての階段には踊り場が設けられ、そこで踵きびすを返すように階段は折り返されていた。踊り場で身体の向きをそのように変えられることがとても新鮮で楽しかった。階段の踏み面の先端部分、段鼻は両脇から中央に行くほど丸みを帯び、手すりも全て角が落ちていた。耳を澄ますと生徒の忙しい足音が響いてくるようだった。「皆どこへ消えたのか」私は戸惑った。教室、職員室、保健室、音楽室、美術室、用務員室、どこにも人の姿はなかった。それは下校時間をとうに過ぎた学舎まなびやだった。ただひっそりと静まり返ってはいるのだったが、かえってそこに潜む未知なる存在を際立たせた。繰り返される午後四時の不文律は、その存在の顕現を持って解かれようとしていた。夜はそこまで歩を近づけていた。「時が動く」私の鼓動は高鳴った。私は中央玄関を抜け校舎裏へ出た。裏門近くにある飼育小屋には藁が敷かれていた。そこには小鳥やウサギの姿はなかった。学校は低い石垣で囲まれ、裏には竹藪があった。私は門前に移動し校外を眺めた。裏門は土手路に面し、その下には小川が流れていた。川向こうは稲刈りの終わった晩秋の田畑が広がり、更に先には幾重にも連なった山々が霞んで見えた。人家はなく、動物や鳥の姿もなかった。学校から眺めたその景色は、なんだか映画セットの背景画のようで自然の息吹が感じられなかった。足下には白い石灰の線が引かれていた。その白い石灰の線はつい先ほど引かれたように端整で、二つの門柱を端から端まで結んでいた。人差し指と中指でその線に触れると、浅い凹みができ指を放すと膨らんだ。弾力のある石灰の線は初めてだった。指に付いた石灰の粉を怪訝な面持ちで眺めていると、石垣裏の竹藪が揺れた。何かが近づいて来るようだった。それは大きな帆船が埠頭に身を寄せるように静かに竹藪を揺らし、石垣の裏まで近づくとふっと立ち止まった。私は虎ではないかと一瞬ひるんだ。こちらに気付き、私を伺っているらしい気配が伝わった。動揺していた私は知らぬ間に愚かな思いつきをその気配に差し向けていた。「虎の尾を踏む男達」。返礼は一瞬だった。「無知の知」。足下の白線が波打つように跳ねた。刃物のような羞恥心が身を刺した。「生徒達が消えたのではなく私が望んで消えた・・・のではないか」、「君の映画に足りないのは」、石垣に飛び乗る影が、思考の放浪を引き留めた。それは茶トラの猫だった。その猫は毛艶のよい橙色の体毛に覆われ、虎のように頭と尾を結ぶ軸に直交する濃い茶の縦縞を持っていた。猫は通い慣れた足取りで石垣の上を歩き、門柱に着くと臈ろう長たけた姿勢で着座した。猫は眼前に広がる風景を前に望楼から眺めるように目を細めた。毛並み良いふさふさとした胸元から前脚はまっすぐに伸び、そこへ濃い斑紋混じる尾が襟巻きの様に添えられた。長く深い呼吸に呼応するようにその尾は時より小さく安寧に跳ねた。体毛の一本一本にまで浸潤した冷徹な観想を湛えるその姿は、なぜか果たし合いを受け入れるアレクサンドル・セルゲーヴィッチ・プーシキンを思い出させた。彼の詩「カフカスの虜」の一節が喉奥まで出掛けた。だが私はそれらの言葉をもどかしくも全く思い出すことが出来なかった。石灰のついた手を再び見つめ、そこに向かって吐息を漏らした。この門から退出するべきか考えあぐねた。投げやりな感情の小槌こづちでくだかれた生半可な思索の残骸が散乱していた。正門から登校した記憶はなかった。つながりを喪失した無力感と、後悔という名の老廃物が交互に捨て荷のように押し寄せた。足下の白い石灰の線は波打っていた。なぜ白線が波打つのか私には理解出来なかった。しかしそれはモールス信号のように時々小さく跳ねては、私に何かを伝えているようだった。猫の尾はその信号と呼応しているように思えたが、それでも私はその信号を読み解けなかった。いくら定点観測に心を差し向けても答は同じだった。猫は相変わらず目の前の風景を見つめていた。あらゆる想念から自由になり一点をみつめているようだった。そのトラ猫を前に私はいつしか祈り始めていた。投げやりの小槌を懐にしまい、私が私として命の役割を全うできる場所を見つけられるようひたすら祈った。黄昏時の淡い光の下、地面には輪郭のおぼつかない影が貞淑に足下に寄り添い続けていた。巡り合わせの悪い一蓮托生の身の影を不憫に思うと、影はそれでも歩を続けようと想いを伝えた。そして山陰に音もなく陽が沈むように、影は明暗を失い透き通った空気に姿を変えた。私はその想いを徐おもむろに受け入れた。裏門に背を向け踵きびすを返した。
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