第4話

 アシダカグモが口にしている綿雪は一枚の和紙のように見えた。触肢で支えられた綿雪は、アシダカグモの軀の下へ敷物のように延びていた。それは鋏角きょうかくの下で少しめくれ口に運ばれていた。蜘蛛の咀嚼そしゃくは牛が草を食むようなもぐもぐと反芻する動きだった。その口は鋏角きょうかくの奥に隠れていて、その見えない蜘蛛の歯はなにやら静謐で精巧なシュレッダーを私に想い浮かばせた。綿雪の上にはところどころ何かシュメール文字のような楔くさび形の紋様があった。私はおそるおそるアシダカグモの鋏角きょうかくの前に右手を伸ばした。椅子と机が私の体に馴染んでいることに気付いた。知らぬ間に私の体が小学生のように小さくなったのか、それとも椅子と机が私の身体に合わせて大きくなったのか分からなかった。机と椅子に一瞬気を取られると、アシダカグモの口に私の手が十分にはまる事に気付いた。その気になれば私の手を捕獲し蜘蛛の「体外消化」を行うことが出来た。「体外消化」とは蜘蛛が獲物を捕獲した際、噛口から消化液を注入し、獲物の体内の体液を溶かしジュースにし後で吸うことだった。体液を吸われた獲物は体躯が干からびることなく空っぽになった。少しだけ背筋が寒くなるのを感じ、私は伸ばした手を引き戻そうか考えた。それでも私はその綿雪に描かれた楔形の紋様に引き寄せられていた。目の前のアシダカグモは「体外消化」を丁寧に私に説明し、少し威嚇したにも関わらず、私の差し出した手には脇目も触れず、その紋様を解読するようにむしゃむしゃと食べ続けていた。私の親指と人差し指がその綿雪に触れるとさくりと分離した。私は綿雪を掌にのせた。それを私は豆大福だと思った。そしてためらいなく口に運んだ。その豆大福は見渡す限りの平原に孤立して立つ断崖絶壁で急峻な丘の上に私を立たせた。大地は怒りに満ち天はいまにも崩落し塵寰じんかんに帰する容相だった。私の知覚では一生切り取ることのできない世界が一瞬にして胸に広がった。この綿雪はこの教室にいるマリという生徒の独白だった。過ぎ去った強度ある時というものは、常に新鮮な詳細と新しい輪郭を開示しながらその密度を高めた。マリの持つ時は過去に支配されていた。過去は巨大な渦を巻く台風のようで、その渦の中心には空漠な眼を持った現在があった。激しい風雨を伴う過去は現在よりも妖美に輝き、現在はいくぶん輪郭が歪められ空洞を作っていた。その拒絶と犠牲の輝きを放つ永久運動の夢を作り出していたのは父親の自死だった。父親は死してもなお、マリの命によって生かされていた。その暴風雨の中心から漏斗状の雲が垂れ下がり、そしてそれは細長く遥か彼方まで延びていた。その姿はあたかも龍のようで、その尾はしなりながら揺れその尖端のある極点に向け少しずつ移動していた。この嵐がどこに導かれているのか、マリの独白にこのまま耽りたかった。その渦に身を投じることが、それを可能にさせるかもしれないと思えた。しかしそれは叶わなかった。誰かがマリの走馬燈の明かりをふっと消したように、その竜巻に似た嵐は唐突にも消失し私は落胆した。私は私の椅子と机にいた。その椅子と机は再び私の体には小くなっていた。私は落胆の霞が晴れるのを待った。机の上にいたアシダカグモも姿を消していた。他の生徒達の気配も捕らえることが出来なかった。しかしそこには見慣れぬ光景が映り込んでいた。教師は黒板に背もたれながら煙草をくゆらせていた。他の生徒達は進路指導を終え下校したと教室の静寂が私に教えた。それは突然の排斥と孤立を私に迫り、この教室の時も永遠には続かないことを予感させた。教師は私を待っている風にも見えたが、ひとときの喫煙を楽しんでいるようにも見えた。教師の視線はこの教室ではないどこか遠くに向けられていた。


 彼は1932年ヴォルガ川近くにある繊維の町に生まれ、1986年パリで客死した。私が彼の作品を知った時、彼はすでにサント・ジュヌヴィエーヴ・デ・ボワに永眠していた。彼は生前、決して多いとは言えない数の映像作品を残した。それらひとつひとつに彼の命の一部が分け与えられていた。照明が落とされ上映開始を待つ瞬間、世界は静止し沈黙した。張り詰めた緊張の中、最初の光と音が放たれると、胸の中で世界が爆縮した。私にはさきほどの落胆がまだ煙っていた。そこに高鳴る動悸が入り混じり、何が起きているのか理解できず硝煙の霞かすみに迷い込んでいた。目の前にいるのは師と仰ぐ映画人だったが、そう語ることによって胸に生じる自らの卑俗を恥じた。彼の作品が世界との向き合い方を私に吹き込んだように、面と向かって彼と会話することは深遠な叡智をもたらす機会と信じていた。それは本質的にほとんど宗教的であり盲目的な崇拝だった。彼の作品には高い精神的な義務に対する神聖な自覚をうながす奇跡が宿っていた。その奇跡がこの教室で再現されうるかのような錯覚を私は感じていた。しかし進路指導というのは一体どういうことだろうと私はいぶかしく思った。それは教師へ向けられたものではなく、私が劣等感として感じていた彼の世界観と半端な人間との現実との落差から生じていた。その落差を解消することを奇跡と呼んだのは私であり彼ではなかった。この奇跡を疑わしく思っているのも私だった。このことは私自身が奇跡を今もどこかでまだ捨てられずにいることも暗示していた。私はこの教室に来る以前、いつぞや与えられた奇跡をポケットにしまい込んだまま、その奇跡の雷管を自らの意志で押せば良いだけの祈りさえ忘れてしまっていた。もしくはその祈りさえも揶揄しかねない程、冷笑家になっていた。私はこの奇跡をもう一度信じてみようと思った。そして彼がこの教室で指し示す光を真摯に探し出そうと決意した。


 教師は厚手のオーバーコートを着ていた。ツイード生地で細かな杉綾模様があしらわれたグレイのコートだった。首の周りには黒いスカーフがかけられ、白いシャツの上に黒のシェットランドセーター、そして黒のスラックスを着ていた。それらの服は長年愛用しているらしく、少しくたびれた印象を与えた。足下の焦げ茶色の革靴もずいぶん年季の入ったもので、靴の機能性以外すべての装飾が落とされていた。ひとつひとつの品は大量生産のもので、個としての主張は控えめか、もしくは不在だった。遠くを見つめるような眼つき。深く通った鼻筋。その下に生えている鼻髭。教師が醸し出す求道者の品格が、それらの量産品を上質な服へと引き上げていた。おそらく彼は服を選ばずとも、常に彼自身でいられるのだろうと私は思った。それでも私がそれまで彼に抱いていた、天才だけが発散する畏れ多い霊気もどこかに息を潜めているようだった。教師の雰囲気はどちらかというとこの教室の壁に掛けられた深い藍色の黒板に似て、素朴で木訥な人柄に見えた。


 教師は煙草を吸い終えると、コートのポケットに手を入れた。そして一本の白いチョークを取り出した。教師のひとつひとつの動きに注視した。私から声をかけるべきなのか教師の指示を待つべきなのか分からなかった。私は彼の母国語を話せなかった。それでも思考を巡らし、教師に話しかける自身の言葉を探した。いくつもの問いや想いが次から次へと浮かび上がったが、それら一つ一つを簡潔な言葉に置き替えることも、優先順位を付ける事もできなかった。教師は考え事をしながら教卓でチョークをコツコツと小さくならしていた。それまで教師は一度も私に視線を向けなかった。そのことは私自身を不安にさせ、今度は私の椅子と机がとても大きく感じられるのだった。しかしこの居心地の悪い席で、じっと進路指導の行方を見守るしか私には出来なかった。しばらくすると教卓でコツコツと音を立てていたチョークの動きが止まった。教師は私に背を向け黒板にチョークをあてた。一呼吸置くとチョークのカッカッカッカッという小気味よい音が室内に響いた。そしてその音が唐突に止まると彼は黒板消しを手に、残響を優しく誘導するかのように右腰あたりにある線を軽く消し、薬指で入念に残された線を延ばした。残響は消え薄れ閑雅な静寂に姿を変えていた。彼は私の方を振り返った。それは30秒程の所作だった。教師の切れ長の瞳はとても暗く深かった。そこに光を私は感じ取れなかった。それでも教師は私をじっくり見つめた後、軽くうなずき手に持っていたチョークを教卓に置いた。そして引き戸の方へすたすたと退出した。引き戸に取り付けられたぺらぺらのガラスがシャンと音を立て、教卓に置かれたチョークが転げ落ちた。チョークは二つに割れ、細かい破片と粉を床の上に残した。それら一連の動作の余韻に浸りながら、私は胸の中に残された小さな包みを知らぬ間に見ていた。それは明るく照らし出され、柔らかい布でくるまれていた。私はそれをゆっくり開いた。教師の吐息がこぼれた。「君の映画に足りないもの」。透明な感想が包まれていた。私は顔を上げ黒板を見た。そこには猫の顔が描かれていた。その猫はお寺で見かけるような普通の猫だった。

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