第3話

 私の席は前から二番目の中央左側にあった。私の前に生徒はいない。私を含めここにいる五人を生徒と呼んで良いか正直わからなかった。私の机と椅子は私の身体からだには不釣り合いで、それはとても小さく小学校低学年用に思えた。私がこの教室の生徒であるという必然性は思いつかなかったけれど、生徒と呼ぶ事がこの状況では相応しいと思われた。そして前述のように他の四人の気配は感じるのだが、詳細とまでなると自信はなかった。その感覚は視覚に映り込む情報と言うよりも、五感を駆使して浮かび上がらせる知覚全体の計測値と言えた。その計測値はホログラムのようなイメージに似ていた。計測値が常に安定しないように、その立体像は揺らぎやすく、煙のように変化した。その知覚を通して私にははっきりと分かることがあった。この教室には教師の気配はなく、その教師がいつ現れるのか知らされていないことだった。


 ここでは互いに口をひらくことはなかった。自身に語りかけるだけが間接的に木霊こだました。この木霊がくぐもった言葉の響きなのか、それとも感傷や後悔に伴う吐息なのか、はっきりしなかった。私の独白もこの教室の見えない回路を通して変換され、くぐもった音の木霊に姿を変えた。明確なことはこの教室の木霊は、聴覚器官を通して伝わる音だけではないということだった。この木霊はこの教室のある「現象」に関与した。木霊も揺らぐホログラムだった。「文字情報というイメージが揺らぐのか」と問われれば、そうではなかった。それらの独白はゆっくりと漂う綿雪で、その一つを掌に取り込むと胸の奥が少し膨らむという感覚だった。そこには言語の情報はなかった。それ故、どの言語で放たれる独白も、綿雪が掌で溶けて水になるように変換された。それは胸で膨らみ景色と印象的な思いに変わった。その情景を理解するには、もちろん言語は必要なかった。それはとても便利な伝達ツールに思えるのだったが、一方、大きな疑問を残した。生徒や木霊は捉え所無いが、綿雪から解凍される情景は明瞭で簡潔に思えた。ここにはこの変換を誘導する見えない介入者の存在があるように思えるのだった。


 綿雪は私が独白を始めるとどこからともなく漂い始めた。その独白に夢中になればなるほど多くの綿雪が漂い玉雪となり、独白を止めてしまえば綿雪は灰雪になりそして次第に消えた。しかし私が独白を止めてしまっても、その降雪が止まないことも多くあった。それはおそらくこの教室の他の生徒が行っている独白に違いなかった。独白に夢中になり室内を漂う綿雪に気付かない時もあれば、独白に飽き虚空に漂う綿雪を見つめるだけの時もあった。他の生徒の独白が始まると、彼らの息づかいは綿雪になり、この雪景色は虚空を作った。それは私が独白するときには気付かなかった変化だった。綿雪はこの教室に光の濃淡を作った。時として綿雪は室内全体が白く大きく膨れあがる光の玉にまで変化することもあった。それが起きると厚いベルベットのカーテンと重い絨毯が同時に出現した。深遠な静寂が浮薄な木霊こだまを吸いこんだ。いつものどんよりした窓の外光は、室内の白い光の玉に、彩度、明度を吸いとられ暗さが凝縮した。そうなるとそれは立ち眩みに似て、抜け穴のような黒い玉になった。それは大きな白い玉の激しい吸引を避けるように教室中を逃げ惑った。そして次第に力尽き、一匹の蠅のように小さくなり終いには消えた。この教室に溢れ出した独白が白い大玉になり、そこに重力が生まれ、影と音を引き寄せ最後は冷たく励起れいきした。出現したのは全てが雪で覆われた白い部屋だった。それがこの教室の虚空の雪景だった。これら一連の光と音の戯れを、深海の水母くらげを観察するように私は眺めた。綿雪が作り出す光の放射、全てを吸いこむ静寂、立ち眩みに似た黒点、それら全ての変化に身を任せると、どんな微かな吐息さえ胸には残らなかった。この教室の空気には独自の蔵つき酵母が存在していたのかも知れない。それは生徒の独白を、もろみのように甘く溶かし、くまなく発酵させ、そして独白とは異なる姿に変える。この教室をたゆたう安堵感はそうやって喪失感を変質させた。嵐の後にはどことなく遠い南国のなまぬるい夜の匂いが漂った。私はどれだけこの光玉の嵐を経験したのだろうかと思い巡らしてみたが、やはりよくわからなかった。それは初めてのような気もしたし、以前経験したような気もした。


 周りの生徒の気配がなくなり、繽紛ひんぷんとたゆたう灰雪が収まると、一面の雪景色が現れた。手持ちぶさただと感じた事はなかった。この教室に夜が訪れないように眠気もおとずれる事はなかった。私の両手は重ねられ机の上にあった。私はそこにある沈黙と静止を見つめていた。十本の指には木炭を火鉢にくべたように木墨がついていた。手を広げてみるとその平には白い部分が残っていた。なぜそのように手が汚れているのかわからなかった。私は嵐が残した安堵感に身を浸したまま、左の掌の白い部分を、木墨の付いた親指で触れていた。深浅さまざまな溝がその掌にあり、木墨によってそれらが鮮明に浮かび上がった。指の腹は独自の意志を持った手つきで、木墨で濃彩を加えていた。木墨が足りなくなると足下にある抜け穴に指を差し入れ床裏をなぞった。すると黒光りする新鮮な木墨が手に入った。木墨にまみれた親指は左掌から何かを引きずり出そうとしているようだった。今では左手を机の上にかざし、机上の虚空で右手親指はデッサンを続けていた。私は私の両手が何を行っているのか分からなかった。その右手はただただ左手から何かを引きずり出そうとしているように見えた。虚空をなぞる木墨は独自の意思を持つ煙に姿を変えていた。さながら私の親指はその仄かな煙に心肺蘇生を行っているように見えた。


 胸が膨らんだ。鏡のような水面に一滴の水が落ちた。「強度のある時もあれば希薄な時もある。柔らかい時もあれば、弾力のある時もある。要は指の腹で正しい時の圧力を見つけること」私の目の前に現れたのは体長50センチほどのアシダカグモだった。机の中央に陣取りむしゃむしゃと机の上を覆った綿雪を食べていた。頭部の二列に並んだ六つ眼は半球形に飛び出し、それぞれが広角の視界を得られるようになっていた。上段の二つの眼は蜘蛛の背後にまで視界が届き、下段の四つの眼は私を見透かし、教室の壁の向こうさえも視界に収めているような眼光を放っていた。六つ眼の下には白い帯があり、その軀は斑点を伴った灰褐色で、ふっさりした綿毛に包まれていた。四組ある脚が全方位に均等に延び、蜘蛛の頭胸部と腹部は卓上20センチほどの高さに保たれていた。六つ眼の両脇には一対の触肢が垂れ下がり、触肢の内側には縁なし帽子をあご下で逆さに被ったような鋏角きょうかくがあった。その鋏角きょうかくの中に綿雪は運ばれていた。私は目の前のアシダカグモが油虫を食べていないことに少し安堵した。蜘蛛の六つ眼は高僧の様な面持ちで、棘のある長いしなやかな脚は近衛兵の風格を漂わせていた。私には目の前の生き物が清廉の士のように見え、親しみと敬意を抱く事が出来た。すると耳慣れない声が聞こえた。『「七人の侍」の百姓の爺様に似ているとよく言われる』一瞬この声が自分の独白なのか、目の前の蜘蛛のものなのか混乱した。爺様は清廉の士と呼ばれたことに、こそばゆさを覚えているようだった。「蜘蛛の肺は一対あり書肺とよばれる。肺の姿が本の頁に似ている為、その名が付けられたそうだ」。私はおそらく目の前のアシダカグモと会話しているのだろうと察した。微かに上下に動く腹部から蜘蛛の呼吸が伝わった。それでもアシダカグモには、直接私と会話しているような仕草は全く見られなかった。彼の六つ眼もどこに焦点を合わせているのか皆目見当も付かなかった。蜘蛛はただただもくもくと綿雪を食べているだけだった。「蜘蛛の命綱。しおり糸」。しばらくして再び声が降りてきた。蜘蛛の腹部の先、出糸突起部から白い糸が机の上に垂れ下がっていた。それは不動の八本の脚と異なり、オナガザルの尻尾のように長く器用で、指揮者のような繊細な動きを見せていた。

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