終章 後日

後日

 灰色の空からは雨が絶えずぱらついている。僕と霞の制服をしっとりと湿らせてくれる。本来ベタベタして気持ち悪いはずなのに、この水滴がたまらないぬくもりとなって僕たちを包み込んでくれた。

 涼しい空気。雨によって清められた圧倒的な世界。風はなく、アスファルトに雨が弾ける音が妙に心地よく響く。

 大通りには傘を持った人々が歩いていて、彼らは全て妄想の産物だというのに、確かな息吹を感じ取ることが出来る。わずかに往来する車はこの果てのない一本道の道路をどこまで突き進むのかわからないが、僕らにとってはどうでもいいことだ。

 右を見てもビルが建ち並ぶ。テナントは入っているのか、そもそも人はいるのかすらわからない、灰色のビル群。

 街路樹は全て満開の桜で覆い尽くされ、それが織りなすピンクは灰色の空とよく似合った。ほのかな霧が赤みがかっていて、どこまでも目を楽しませてくれる。

「ここが雨と桜と絶望の街なのね」

 中学生姿の霞が黄色いスカーフを整え、雨に打たれ肌にしみつくセーラー服を少しぱたぱたさせながら感慨深そうに口にした。

 僕はそっと霞の肩に右腕をかけ、果てしなく染まる灰色と桜色の楽園を見渡しながら、彼女の耳元に熱い吐息を吹きかける。

「そう、ここが雨と桜と絶望の街」

「いい世界じゃない」

 霞が僕に身を預けてくる。クリーム色と黒のセーラー服。暖かさが肌に伝わる。心が奇妙にスライドし、まるで壊れかけの椅子のようにぎい、と軋んだ音を立てる錯覚に囚われる。

 それは自然と頬を緩ませ、雨を頬いっぱいに浴びながら、じっと天を見上げる。

「当然だね。『俺』と有樹が暮らしてきた世界なんだから」

 霞が僕の腰に手を回してくる。静かな世界だった。僕は左手で規則的に霞の胸をつつく。

 とん・とん・とん。

「そしてこれからは――霞。君と僕が共に暮らすところになるんだよ」

「素敵。まさに楽園ね」

「ああ、楽園だよ。この楽園を守るために、僕は有樹を――電子レンジで殺したんだからね」

 どこか皮肉めいていたかもしれない。

 けれど事実だから。有樹は死んだのだ。一秒間に一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇回彼女の体内を構成する水分が強烈な振動を発し、熱を生み出し、沸騰した。

 眼球は白濁し、湯気が漂い、ふわんと肉の香りがしたあの瞬間を、僕は忘れないだろう。

 有樹は果たしてどんな思いで脳を、心臓を、肺を、腸を、肝臓を、腎臓を、血管を火傷させて死んだのだろう。とてもじゃないか想像出来ない。

 僕にわかることは有樹の死が僕を覚醒させ、そして霞を僕のものにすることでこの世界を守ったと言うことだ。

 そしてそれは――正義なのだ。


 僕たちは少しだけ歩いた。時速四キロで移動することで得られる景色はのんびりとして、ほんのりとして、行き交う人々やわずかに往来する車の音。そして、圧倒的な桜と天にまで届く摩天楼。その全てを雨が包み込んでいて、不思議な統一感をもたらしている。

 この世界を構成するのは僕と霞のただ二人。行き交う人々は全て妄想。

「ここは僕たち二人しか存在を許されない楽園」

 僕の声が素敵に響く。

「たった二人だけの楽園」

 霞の声も素敵に響く。

「絶望が支配する楽園」

 僕の声が素敵に響く。

「雨と桜が世界を包む楽園」

 霞の声も素敵に響く。

「霞、キスをしよう」

 僕は左腕も霞の艶やかな中学生ボディに侵攻し、そのまま力の赴くままぎゅっと強く抱き絞め、アコーディオン状に折り重なった熱気をまとう真夏のように、じっと見つめた。

 陳腐で、ありきたりで、アダムで、イブで。

 もはや神となった有樹と『俺』しか見守らない箱庭テーマパーク。あるいは牢獄。

 桜という名の花畑。僕は一ルックスも逃さず霞を見る。

 霞は頬を緩めるとゆっくり目を閉じ、受け入れてくれた。

「いいわね。濃厚なキスを頼むわ」

「僕のキスより熱いものはないよ」

 はは、と笑い返し、そっと唇を霞の可愛らしい小さな唇へと近づけ、そして――

「ん――」

 ぬくもりが口腔に広がっていった。お風呂のようなぬくもりだ。

 これからはずっと一緒。永遠にずっと一緒。

 この――雨と桜と絶望の街で。

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幼なじみを電子レンジで温めてみた。死んだ。 深田あり @hukadaari

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