第6話 それは、復讐というものだろうか

 目を閉じるとイスタンブルが思い浮かぶ。

 大宰相と違って、あの街から逃げようなどと思ったことはない。

 もしかすれば、イスタンブルは私を鎖で縛っているのかもしれない。

 だが、それでいいのだ。私は門の奴隷カプ・クル、イスタンブルの門を守る奴隷なのだから、それが正しいことなのだ。


 それなのに、何故私はこの子から離れられないのだろう。

 もし、政情が変わり、イスタンブルに呼び戻されたら、私はどうするだろう。

 母が言ったようにイスタンブルで高官パシャとなり、門を守る奴隷カプ・クルとしての本分を全うする。

 それが私の望みで、今もそれは変わらない。


 しかしこの子はイスタンブルでは生きられまい。

 成人した王族がイスタンブルで生きるということは皇帝になるということだが、

 クリミア公の孫が、オスマン帝国で皇位につくことができるか?

 現実的に考えると難しいだろう。


 新帝が寛大な方で、この子を今のような地方官として生かしてくれたとしよう。

 それで、私は側にいることができるか?

 できないだろう。私は皇帝の直臣だから、任地を自由に選ぶことはできない。

 いやそれ以前に、この子とともにいれば、あの毒の時のようにこの地で死ぬかもしれない。

 そうまでして私はこの子とともにありたいのか?


 わからない。わからないことばかりだ。

 だが、わかっていることは一つ。

 縛られるように強く惹かれながらも、逃げられるかもしれないという、

 絶望的な希望を捨て切れていないということだ。


「イブラヒム…」

 ぼんやりと目を開け、少年が私を呼んだ。

「どうなさいましたか?」

「何やら怖い夢を見たような気がする」

「そのようですね。随分とうなされておられました」

 少年はますます私にしがみついて言った。

「ずっと、側にいてくれ」


 その言葉に、私は亡き大宰相に心の中で呼びかけた。

 ――閣下、私にとっての“奪う者”はこの子のようです。

 ――だから私はこの子を憐れみ、守り、私にできうるすべてを与えます。

 ――それは、復讐というものなのでしょうか。


 手にかけられた荒縄を断ち切ろうなどとしなければいい。

 逃げられないからといって復讐などしなければいい。

 閣下もわかっていたはずだ。

 逃げようとしたのも復讐しようとしたのも、そもそも奪われたと思ったのも、どうしようもなく惹かれていたからではないか。

 そう思っているのに、私も同じ道を歩むだろう。

 手にかけられた荒縄が、首にかけられようとも。


 そして少年を絡め取るように抱きしめて言った。


「ずっと、お側におります。あなたを愛し、あなたを守り、あなたにすべてを捧げます」


 それが、私からすべてを奪ったあなたへの復讐なのでしょう、スレイマン様。

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