第5話 成就した恋は容易く醒めるだろう

 セリム王子の“配慮”によって、料理人を始めとする使用人が大きく入れ替わった後、カッファ県知事邸で食膳に毒が盛られた。それを食べたのは私だ。使用人が入れ替わってからずっと、私が膳を入れ替えていたからだ。


 宮廷小姓として長らく毒味をしていたので、毒で死ぬことはあるまいと思っていた。しかし、三日ほど生死の境を彷徨った。このままクリミアで死ぬのか。高官パシャになることもできず、このような異郷で。帰りたい。どこへ?故郷のパルガへ?いや違う。イスタンブルだ。愛するあの街をもう一度見ることもなく死ぬのか。


 しかし、また別の思いもあった。それでもいい。あの子が死ぬのなど、私は見たくないから。私があの子のために死んだら、あの子は一生私のことを忘れないだろうから。馬鹿らしいことだ。いくら不憫に思い愛おしく思っても、何故私が他人のために死なねばならぬのだ……と。


 そんなことを思い出しながら、涙を流し続ける少年を抱き寄せてその髪を撫でた。

 泣いてもいい。泣いてもいいだけの仕打ちを受けているのだから。

 何故昼間はあのように気丈に振る舞っているのか。

 強がっていてはいつか容易く折れる。


「イブラヒム……イブラヒム……」

 私の名を呼びながら、ますます苦しげにしがみつく。

 思わずたたき起こそうとしてしまった。

 私のために、泣くな。

 そんな風に私を縛るな。


 この不憫な少年とこのような関係になったのは、そもそも、この子への不可解な感情のせいだ。

 何故かこの子といると、あの大宰相の荒縄の痕を思い出す。

 こんなことを考えた。

 もし、大宰相を縛ったのが鉄の鎖だったらどうなのだろう。

 あれほどの傷が残るまで足掻いただろうか。

 断ち切ることを諦めて、大人しく従ったかもしれない。

 荒縄だからこそ、断ち切れると思った。だが実際には断ち切れなかった。

 そして深い傷が、手にも心にも残った。

 希望とは時に残酷なものだ。


 私はこの子に出会ってから、荒縄で縛られているように感じた。

 クリミアに左遷されたことだけでも不本意なのに、クリミア公の孫となど、本来関わり合いになりたくない。

 それでも惹かれてしまう。何故、このような子に。

 イスタンブルではもっと優れた才を持つ少年を見てきたはずなのに。

 強い力でこの子に結びつけられ、縛り付けられることが、不可解で恐ろしくすらあった。


 残酷な希望が見えた。

 私とこの子を結ぶのは、鎖ではなくて、縄に過ぎない。

 何とかすれば断ち切れるだろう。

 どのように断ち切ろうか。このように考えた。

 私のこの子への感情は、“恋情”に過ぎない。

 今まで様々な少年や大人の男との間にあった、一時的な情熱に過ぎない。

 この子は奇妙なまでに私を慕い、私もこの子を愛おしく思う。

 だが、“恋”は成就すれば、いずれ容易く醒める。

 成就せぬ恋の方が、想いが煮詰まり厄介なものだ。

 だから私は、この子を恋人と呼び愛する。

 時が経てば穏やかに、あるいは痛みを伴いながらも消えていく淡い絆となろう。


 そう思ったのに。

 この子は一層私に纏わり付くようになり、それを面倒に思っているはずの私が、この子のために毒まで食らい、危うく死にかけた。

 しかも、瀕死の状態でそれでもいいとまで思った。

 どこで何を間違えたのだろう。

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