§8-4-6・教育バウチャー制度による子供の利得について〜その3 ←学ぶ量に限界はないが、限界まで学ぶ必要はない

○3つの課題とその解決について・その2

 学ぶ量に限界はない〜子供の能力に合わせて上限をあえて設けないかわりに、全てを履修する必要もない

 

では子供はどのくらい学習しなければならないのか? …だが、「できるところまででよい」というのも教育バウチャー制度のポイントだった。義務教育の場合、学習内容は国が決めていた。教育バウチャー制度でもたしかにそうだが、履修内容に関しては子ども一人ひとりの能力に合わせて「できるところまででよい」とされ、その履修内容を見た上で各大学や企業が入学を許可したり、採用したりする…という市場主義が採用されていたから、子供は「何処の大学に行きたいか?」もしくは「自分が社会に出た時に必要なレベルはどのくらいか?」を自分で判断し、自分で判断・調整して勉強することになった。


勿論、勉強はいくらでも・幾つになってもやり直せたから、21世紀のドイツのように子供のときから職業を選別するための教育機関に成り下がるような硬直性はなかったし、所得格差が学歴によって発生しているのならば「学力の硬直性を排除する」ための制度が必要で、これが教育バウチャー制度という判断をしていた。このため「履修内容」〜子どもたちが学ぶ勉強の総量は、理論上は「限度はない」とされた。


これは「全然勉強ができない」子供から「天才的な才能」もしくは「小さいときから大学教授以上の能力を持つ」子供まで幅広く存在していたからで、才能・能力・努力がマチマチである子どもたち全員に全ての内容を学習させることは無理があることや、またレベルの全く違う子供たち一人ひとりを満足させる必要があること。加えて最低レベルに合わせても、最高レベルに合わせても不平不満や問題が出てくることは義務教育や「ゆとり教育」で判っていただけでなく、そもそも教育バウチャー制度は教育に「需給の最適化」を導入する制度だったから、「さしあたり最難易度まで履修内容を設定し、どのくらい到達できたかは子どもたちに任せる」ことにした。


大人の側も、自分たちの社会(企業や研究機関・大学など)がどのくらいの水準を要求するかを自由に決めればよいし、全知全能の子供を求めているわけでもなかったから(求めても応募できる子供はほぼいない)、まさに労働需給の問題として、ある一定の水準で均衡点バランスが自然と成立するだろう…と考えられたからである。


勿論、実際には履修内容の設定には限度はあったが、それでも算数などでは全履修内容は実に六万項目以上にもなった。「足し算」「引き算」などの基本的な項目から始まり、「多次元宇宙項の解析」「複素数論」「代数学・環と加群」「現象数理・非線型現象」などにまで及び、これは文系学生にまで全てを学習させるのは無理だった。逆に理数系エリート大学などを狙う子どもたちにとっては必須でもあった。

理科ではかつての小学校一年生が最初に学ぶ「花の名前」から物理・化学・生物学遺伝学や量子力学にまで及んだし、社会でも「自国の歴史(つまりゼムリア人の文明史)」・「他国の歴史(世界史にあたるもの)」に始まって六法諸法、経済学、社会学など幅広かった。「国語」や「外国語」なども当然そうで、各教科で必然、数万項目以上に及ぶのが常だった。子どもたちはこの中で自分の能力に合わせて勉強した。


学ぶ順番なども特に指定はないものの、いきなり線型微分方程式をやろうとしてもできるわけもなかった。そのため子どもたちが学習するにあたっては「何をどの順番で学ぶのがよいのか?」に関するガイダンスが必要となった。特に、子供がまだ幼い時には判断はつかない。そのため「一応のガイドライン」は作られ、年齢別に「学習しておいたほうがよいと思われる」という項目はちゃんと提示されていた。やる・やらない、できる・できないはまた別の問題なだけである。


それだけでなく子どもたち(や親など)の不安や疑問に答えるために、学校の先生だけでなく先輩や卒業生、もしくは民間の教育相談や心のケアにあたる企業・ボランティアによるチューター制度が発達した。子供の悩みを解決する仕事であり、彼らに対してもチケットクーポンがあてがわれた。子供の心の問題解決は、学業とは別に大変重要な仕事であり、大人が責任をもって解決すべき事柄だったからだが、彼らの支援を得て子どもたちは自分で自分の生き方を考える習慣を身に着けていった。


同時に自分たちが大きくなった時、「今度は自分が他人の役に立つ」という「奉仕」への意識が身についた。自分たちが他人から恩義を受けたので、その恩義を他者や社会に還元するというボランティアの心が醸成されることになった。他人を信じる事ができるという体験を実践として経験して育った彼らには、自然と弱者や他人に対する慈善の心が芽生えることになった。この意識は重要だった。たとえばこの意識は税制に反映されたからだ。


義務教育の頃の優勝劣敗に基づく競争社会では「なぜ累進課税制度によって(自分とは関係のない)貧乏人にカネくれてやらなければならないのか?」という楽天の三木谷のような傲慢で尊大な自民党支持者の成り上がりのタワゴトを抑止することは出来ない。しかし教育バウチャー制度は違う。「自分たちを育ててくれたのは大人の社会」という正しい認識と、その社会の中には自分をサポートしてくれた多くの人たちがいること。そして社会は時に残酷で自分の思い通りにならないばかりか、自分が零落おちぶれるとき・敗者になるときがあることも知るだろう。しかしその時に誰かが助けてくれれば「自分が助かる」ことも幼少期に学んだのだから、仮に自分が高所得者になったときにも「今度は自分が助けるべき」という意識を確信することができる雰囲気が帝国内に作られ、それは寄付や課税への献身の形で投影されることになるのである。「自分が落ちぶれたら、なんならフードバンクで助けてもらえば良い」そして「また頑張ってなり上がれば良い!」という超積極的な思考をもてるようにもなった。


これは思考構造における「資源の最適化」の一例と言われていた。利己主義の権化である資本主義において、利己的な行動を追求すると逆に(一見すると)利他的にみえる行動が発生するという「進化的に安定した戦略(ESS)」の成功例とみなされた。ゲームの理論の社会的適用による想定されていた結果がそのまま出てきたのである。この「社会ESS論」はこれまでの社会進化論を駆逐するのと同時に「全員平等・みんなで友愛」を掲げた共産主義を敗北させることにも貢献した。社会進化論や共産主義は生物学的なメカニズムの根拠に欠けることが、こうしたゼムリア人の社会行動によって導かれたからである。カネのことしか考えない連中にも奉仕の心が育ったのは、「互いに助けあう方が、競い合い奪い合うだけより多くの安楽と富を、より多くのヒトが手に入れることができる」という数理学上の推定の実現であり、彼らの文明の残滓を調査研究するテロンの遺伝学者だけでなく構造主義者などの文系哲学者にとっても深い興味と示唆を与える出来事だった…


この制度はまた、イジメや不登校に悩む親や子供に対しても活用された。評判のよいチューターは有名人となり、チケットクーポン制度によって収入も得られたから、児童相談の専門家になることも出来た。逆に問題のあるチューターは評判が悪くなり、その情報が広く開示されたから「廃業」することになった。勿論、悪質な場合は民事裁判や刑事告訴、時に逮捕されることもあった。全ては子どもたちが決めることだった。


民主主義は短期的には間違えた方向性に進むことは有っても、中長期的には中庸かつ最も正しい選択をする事ができると考えられていた。このバランスは高度な知性に由来し、そのためにも優れた教育制度が必要と考えられた。この目的を唯一、達成できるのが教育バウチャー制度と考えられたのである。よって幅広い学問領域と内容を提示し、その理解と実践のためのサポート環境をも整えて子どもたちに安心して不安なく、自分のペースで学習を進めてもらう…というのが白色彗星帝国の教育の基本コンセプトとなったのは自然な成りゆきといえた。




○3つの課題とその解決について・その3

 体育、美術などの実技科目はどうするのか? ←集団主義をやめ、個人の能力向上にのみ特化する

 

もう一つ、より些細な問題も残っていた。「体育・図画工作などの実習科目をどうするか?」だった。とはいえ、こちらも全く問題は発生しなかった。体育や図画工作などの実習科目に対してもチケットクーポン制で十分対処可能だった。


たとえば体育に関してだ。子供はみんな長距離マラソンは嫌いだった。ウザいし疲れる。中学生の時、マラソン大会の時に限って何故か女子がやたらと「体育の受業、今日休み」になり、ワイら男子は「超羨ましい」「何故だ??」と首をひねったものであった(だからといって生理痛に悩まされたいとは思わないのだが…。女子の皆さん、ご苦労さまです)。しかもクラス対抗戦とかになった場合、運動の出来ない子供が常にみんなの足を引っ張り、結果としてイジメや差別などの問題を引き起こしたり、勝利絶対主義により、教師による体罰や理不尽な暴力・恫喝などが横行していたのが義務教育だった。


こうした問題は教育バウチャー制度では起こりえない。

なぜなら体育に関しても「子供の基礎体力の向上」だけが目的だったからだ。よって子供一人ひとりの成長・発育・特性に合わせた体力づくり、体作りが行われた。子供のための肉体強化プログラムを作成し、一人ひとりに合わせて走る・投げる・泳ぐ・跳ぶ目標が設定され、これをクリアすることで履修終了ということになった。そのため体育は極めて高度な理論と実践の場となり、器械なども積極的に取り入れて個々人の能力の向上を目指す場となった。


ここにはもはや無意味な集団主義や懲罰制度、他人との競争という概念はなく「己一人で強くなる」事を目的とした、生徒一人ひとりの肉体的・精神的・発育上の違いを踏まえた上での最適化され合理的で合目的な肉体強化プランとトレーニングメニューだけが残ることになった。「強い個人を作ることが、強い集団・強い国家を作ること」に気づいた結果だった。それも無理せず、しかし確実に強くなるための肉体鍛錬技術と方法論が次々と提案・実行されていった。学校の受業では専門のトレーナーが体育教師となりプロとアマ、プロ専属のトレーニングスタッフが子どもたちの体育学習現場へと赴いて指導するようになった。既存の体育教師も勉強し直し、多くの民間資格を学習するとともに高度な理論と器械トレーニング、運動力学について見識を深めていった。この結果は子どもたちの体力・運動能力の劇的な向上という形で結実する。「個人をシステマティックに強化していく」…この考え方が、全体主義の無意味さと脆弱さを確認させる結果にもなった。


さらに民間企業が参入する余地も生まれた。これまでの経営で高度な知識を溜め込んでいたスポーツ専門の研究機関や民間のフィットネスジムなどが教育現場に参入してきたのだ。ライザップやらエグザスやらの民間スポーツジムが「教室」となった。子どもたちも此処でトレーニングし、学校教育として履修し、合格判定をもらうのだ。もしも自分の通っているスポーツジムが気に入らないなら「やめたらいい」。そして別の人、別の場所で鍛えてもらったらいいのだ。


よって子供の体育現場であっても、様々なトレーニング器械を使った基礎体力づくりが若い時から実践されるとともに、各種スポーツを通じてバランスのとれた運動能力の発展も期待された。スポーツと言ってもあくまでもまずは個人の能力を高めることが主眼とされた。バレーボールだったら背の高い子が有利で、身体の弱い子は何をやっても不得意だ。よってレシーブやトス、シュートなどの練習を個々人の能力・技量に合わせて個別に実施することにし、仮に集団でチームとしてプレイする場合でも勝利よりも「これまでのトレーニングの結果確認」に力点が置かれた。まずは強い個人が存在しなければ強い組織たりえないからである。


よって常に理論と実践が合一とされ、集団として勝つことよりも個人の体力強化への貢献が重視された。棒高跳び、長距離・短距離走、水泳などがそうであり、基礎教育過程ではまずは柔道やボクシングなどの対決型競技は外された。これらは肉体がある程度、強くなった後で子どもたちが自分で選択して学ぶ「発展履修内容」として分類された。よって学校の運動部は能力のある子たちが、集団として勝利するための理論的なゲームプランニングの検討と実践の場となり、科学的な肉体強化策に加えてオペレーションズ・リサーチの研究センターとなった。草野球教室でもダルビッシュ有だらけになったのである。これはインテリジェンスの大変高い、そして効率のよい「集団戦」の戦い方の雛形となり、結果、対外戦争や対テロ戦闘などの時の基礎理論として活用されるほどにまで進化した。同時に怪我や事故などへの対処法も徹底的に研究され、肉体への理解の深化と緊急時や災害時のサバイバルテクニックの向上にも貢献出来た。


なにより無理せずに自分の身体を鍛えるという習慣が身につき、国民体育教育の本来の目的である「個人の健康の向上」に寄与しただけでなく、楽しむことでスポーツ市場も広がった。これはカネを稼ぐチャンスが広がったということでもあった。大人も子供も楽しんで自分の身体を鍛え始めた。これらが趣味の場合にはチケットクーポンの対象外で自費でやらねばならなかったが、娯楽である以上、それは当然だったので特に問題にはならなかった。自分のペースで自分の思い通りに自分を鍛えることは、誰にとっても楽しいことだった。無論、やりたくなければ「やらなければよい」だけのことだ。


小さい時には肉体が十分に発達していないために出来なかった…もしくはやる気にならなかったスポーツも、成長するにしたがってやれるようになる・やりたくなる場合がある。子供の時、あれほど嫌がっていたマラソンなのに、大人になったら朝も早くから誰に頼まれたわけでもなく皇居の周りをグルグル勝手にジョギングしている人たちだって沢山いる。「子供の時からやれ」と言われそうだが、それは義務教育の場合においてのみ、だ。


教育バウチャー制度だったら、子供の時に「マラソン」という履修内容が未習だったとしても、大人になってジョギングしたら「はい、合格」という事になる。後は自分で教育省に申請すればいいだけのことだ。ただし一回限りことなので、あとはどれだけ犬のように走り回ろうとも「個人の趣味」となる。それだけ。靴底が減っても税金からは補填もされない。同じことは、水泳だろうとなんだろうと言えることだ。クロール・背泳ぎ・平泳ぎ…。出来るようになった時にはポイント=カネがゲットできるが、その後でクジラやイルカを一緒に泳いでいる時にはシュノーケルなどの装備費用は全て自分持ちだ。当然、イルカやクジラに政府の税金が付与されることもない。そうではない。「自分がやりたい」時に「思う存分やったらいい」をかなえるのが教育バウチャー制度なのだ。


同様の事は「音楽」「図画工作(美術)」「家庭科」などでも言えた。自分のペースで自分の好きな科目を選択し、学習を進めればよかった。学習したらその分だけ「履修内容」が増えた。やりたくない子はやらなかった。後は自分が大人になった時、自分が望む大学がどの程度「音楽」「図画工作」「家庭科」の履修内容を必要としているか? もし足りないのならば大人になって再び勉強して履修内容の合格を目指すか? それとも別の大学を狙うか?…というだけの違いであり、音楽大学・美術大学でなければ、これら科目での履修要請が少ないことは(良くも悪くも)事実だったので、「算数(数学)」や「理科(物理・化学)」の未履修に比べれば問題も少なかった。芸能界で声優になりたい…という子供も多かったが、音楽の履修内容が多ければ「それだけ声優事務所のスカウトやマネージャーの目に止まりやすい」のは事実だ。無論、だからといって合格が約束されるわけでもない。誰をどう選ぶかは事務所の専権事項だからだ。取得してなくても大丈夫な場合もあれば、必須の場合もある。それを声優になりたい子どもたちが「自分がいきたい事務所のHPを調べて確認して、自分の将来どうするかを決めればよい」だけのことなのだ…



 ※     ※     ※


自分の将来は自分で決める。そのための選択肢を豊富に準備することだけが大人がするべき仕事…そう考えたのである。これが教育バウチャー制度の本質でもあった。「子供に任せる」ということではあるのだが、その本質は「子供に責任ある自主性をもたせる」ことだった。

自分で柔軟に考え、自分で試してみて、失敗しても怒られない。間違いはもう一度やり直せばよい。そしてわからない時には誰かに助けてもらえば良い。こうして「自分と人との距離感」を育成し、助けてくれる他人のありがたさと感謝、自分で判断し行動した結果の報奨と責任、そして命令され与えられるだけでは絶対に身につかなかった「未来予想の検討・情報収集・分析・実行とその結果の検証」というプロセスを体験することの重要性を悟らせることこそ真の教育だったからだ。




        【 この内容、さらに続く 】

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