§8-4-7・フリードマンの唯一の間違い「子供にチケットクーポンを配るんだよ、ハゲ!」と、子どもたちに課せられた唯一の義務「ガキのうちは必ず勉強しろ!」について…m(_ _)m

○教育バウチャー制度とフリードマンの過ちについて

→学校にチケットクーポンを撒いても、子どもたちの救いにはならない



教育バウチャー制度は今述べたような秀逸なシステムだった。要点を整理する。

この制度は子供を「顧客」と考え、顧客の満足度をMAXにすることだけを考えている。よって「教育」を資本主義的なサービス財として捉え直した。子供に教育という「商品」を届け、彼らの財産とすることが全てで、そのプロセスは問われなかった。このため国家主義的で市場原理が及びにくい公的な教育制度だった義務教育を辞め、学校を民間の私塾や予備校、サポート学校と同じレベルとすることで市場原理の効用である「(教育)資源の最適化」を図った。この結果、民間で教育を受けても正式の公教育機関と看做みなされ、子供に選択の幅が広がった。受講プロセスも全く問われなかったので、子供個々人が自分の意思と能力と対人関係とを勘案して、何処で誰から受業を受けるか?…を選択できただけでなく、親兄弟もしくは自分一人で学習を進めてもOKとされた。これは集団生活に馴染めない子どもたちへの配慮となった。同時にこの制度は身体障害者や移民・難民の子供たちに対しても門戸が開かれていた。


チケットクーポン制度は「個々人の能力に合わせて」学習を進めることを可能にし、カリキュラムありきではなく「個人ありき」に回帰した。これが平等と個人主義をもたらした。よって仮に生まれながらに健常者に「劣る」とされた子供であっても「特に問題もない」とされた。難民となって流れてきた無国籍の子どもたちもそうだった。異国の言語たるゼムリア語が判らなくても、「わかるところから徐々に自分のペースで」学習することができた。

肝心な点は、子供の学習意欲を高めること・子供一人ひとりの能力の向上にのみ特化し、国家や集団・民族や宗教・性別などの「非個人的な集団という概念」は極力排除することだった。強い個人の集まりこそが、強い集団・強い国家のもといとなると信じていたからである。ひるがえって、「義務教育をやめる」という決断が再検証された。


政府(=国)の役割とは「個人のために必要なサービスを提供する」…みんなの税金を使い、マスの効果を最大限に活かす共有サービスの提供ということだと再確認された。国家は個人が税金というカネを出し合って運営する「サービス事業者」に過ぎないという考え方だった。

この後で義務教育が崩壊したプロセスを検証した。本来ならば、義務教育は「個人のために必要な」すぐれたサービスのはずだった。しかし社会進化論的な「国家を支えるエリート層育成のため」という国家主義に変容したことが問題とされた。そこで義務教育を廃止し、民間の手に戻す事によって国の関与を最低限に抑え込んだ。これは軍国主義や共産主義の撲滅および時々の政府による独裁の影響を防止することに寄与した。


他方、義務教育の根本理念でもあった「貧困による国民皆学の機会喪失」の補填としては、「じゃ、カネだけは政府が面倒をみるよ」…という新規軸を打ち出した。政府による過干渉によって人間一人ひとりの人格が支配されることを拒絶しつつ、全員が知性を会得するための最低限のサービス=カネの面倒を見る…という結論に至ったのである。教育にはカネが必要だった。このカネを税金で賄うだけの話だ。と、同時に税金は有限であることも判っていた。よって税金の使われ方に力点が置かれ、常に監査し無駄金が使われないようにすべきと考えた。


この要請にはチケットクーポン制度が応えた。子供が学ぶべき内容を「履修内容」とし、この内容一つづつにチケットクーポンを設定した。クーポンにはポイントが一定額付与されており、同時に1ポイントごとに金額が設定されていた。またこのポイントは「子供」に与えられていた。そして子供が「履修内容を教えてくれた相手」に支払い、講師はポイントを給与として換金できた。そのカネが税金で賄われたのである。貧乏人の子であっても、これならば学習環境が保証されていた。貧しい移民の子であっても、働きながらでも自分の勉強を進めることができた。国のカネで、だ。



ここで重要な事がある。教育バウチャー制度の認識についてだった。テロン人の場合、このシステムの現代的な開祖はミルトン・フリードマンとされている。しかしフリードマンですら「間違い」を犯していた。彼はチケットクーポンを「学校に配る」としていたのである。これは重大な間違いだった。彼の著書「資本主義と自由」の中において教育バウチャー制度は、米国の義務教育を担う公立学校が劣化していった1940年代頃の諸問題解決のために再定義された。教育水準において「公立 > 私立学校」の傾向が強い米国において、私立学校に生徒数に応じたチケットクーポン(現金)を配ることで事実上の公的補助とし、劣化した公立学校の教育水準を補完する私立学校へのインセンティブとしたのだ。現代風にいうならばサポート学校に、受け入れた生徒の数に合わせて公金を補助する…という程度の話である。学校に補助金を出せばドロップアウトした子どもたちの面倒を見やすく出来るだろうということのようだった。


しかし彼の問題は「学校にクーポンを配る」という、フリードマンらしくない「個人主義への不徹底さ」だった。公立学校をドロップアウトしたり、地方の生活環境が荒廃した公立学校の生徒たちに代わりに私立学校に通ってもらい、この学校にクーポンの形での政府補助金を入れたとしても、その私立学校でイジメや暴力・不登校などの問題が発生した場合、「子どもたちの救済にはならない」ことが理解できなかったようである。


例えば性同一性障害の男の子がいたとする。公立学校ではイジメられたため、「LGBTQに理解のある」私立学校へと「逃げた」とする。この新しい私立学校で「男の娘」としてデビューしたとしてもしかし、他のLGBTQの子どもたちと不仲になった場合はどうするつもりだったのか? たとえば勉強のレベルの違いとか、人間関係で揉めた…とか「別の理由」によって新しい環境でも不登校になったらどうしたらよいというのだろうか?? 

この場合、勉強の水準は低く、しかも皆が優しいはずの新しい「男の娘学校」に移転するという話になるのだろうが、「そんなものはない」としたら新規に学校を設立しなくてはならない。なにより「次の新しい私立学校」に移転したところで、今度こそ男の娘同士で仲良くなれる…などという保証もないのだ。


性同一性児童や同性愛者だけでなく、人間関係や勉学で悩んでいる子供たちはみな同じことが言える。特に2022年の日本のように未成年の自殺者が500人を超えるような深刻な国(=この国の若年層の死亡原因の最多)の場合、いくら学校を救済しても意味ないのである。「個人」を救済すべきなのだ。しかも次々と意味のない学校ばかりが乱立してクーポンをばら撒き続ければ、男の娘の助けにもならないばかりか税金の無駄使いで納税者の助けにもならない。これは「学校を整備すれば問題解決〜(^^)/」という短絡的な志向が「根本的な間違い」ということに気づかなかった証拠だ。


中興の祖たるフリードマンでさえこの為体ていたらくなのだから、他の者が唱える教育バウチャー制度など「クズ」以外の何者でもないことは自明だった。実際、米国やオランダなどで様々なバージョンの教育バウチャー制度が実施されたが、一度たりとも日本やシンガポールなどの「義務教育ゴリゴリ」の国に学習到達度調査(PISA)や国際数学理科教育動向調査(TIMSS)で勝ったことがなかった。だからこそ2199年にイスカンダルに行く船を作ったのは日本人だったのである。しかし同時に2200年のガミラス本星・帝都バレラス上空で古代進さんが最期まで判らずに「競争すること」「戦って勝ち残ること」にこだわって戦いまくっていた理由も此処にあった…


なぜ個人を尊重しないのか…ಠ_ಠ;?


…この一点に尽きるのだ。なら教育チケットクーポン(カネ)は学校ではなく、個人(子供)に配られなければ意味がないのである。2200年のテロン人は最期まで「生徒一人ひとりにカネを補填する」が教育行政の正解であることに気づかなかった。そのために「死んだら終わり」という17万8000光年の長い航海の最期はてに一か八かの大勝負に打って出る…という異常な決断に迷いさえ生じないほどの知恵しか備わってなかったのである。

勝ったから良かったものの、負けたらどうするつもりだったのか…ಠ_ಠ;??


このテロンの野蛮人どもに輪をかけて酷いのはガミラスの方で、やらなくてもいいのに磁石マグネットフェライトでくるんで強引にBBY-01を引き寄せて本土決戦とし(←間違えた理科の知識の使い方)、全戦力をぶつけて返り討ちにあって国家ごと死にかけるのだから「オマエ、偏差値いくつだ??」と激しく突っ込まれても仕方がないFラン民族だった。ガミラスの想像を絶するこのバカさ加減こそが、連中の愛国的かつ国家主義的な義務教育の結果だったのである。全体主義的なバカ民族だったので、古代イスカンダル人に「ガルマンの人猿」の意味の「ガミラス」と名付けられ、奴隷としてガルマン星から強制的に現在のサレザー恒星系へ移住させられた挙句、テロンの男に寝取られた17歳の非処女アバズレを「女神」のように崇め奉るNTRマニアの僕が先に好きだったのにBSS系民族に成り下がったのである。


全く救いようのない知能水準だった…┌(_Д_┌ )┐

全部、義務教育のせいだった…(弩呆れ


コイツらバカども比べ、10世紀以上も前にアンドロメダ大星雲で栄耀栄華を極めたゼムリア人たちは違った。彼ら(前期)白色彗星帝国人は「アメリカの良い所を象徴する」ような国家だった。圧政や全体主義を否定し、個人が自由に生きる天賦の権利を信じていた。まさに新自由主義の精華といえた。偉大な彼らは教育にも「個人の天賦の権利」が顕現するように努めた。その結果が「子どもたち一人ひとりにカネを供給する」チケットクーポン制に裏打ちされた教育バウチャー制度だったのである。このために学校や社会環境を再構築しなおした。子ども一人ひとりに公金をツッコミ、彼らが好きに勉強してくれればよい。取りこぼしは大人になってからでもいい。そしてこの「教育」という子供の社会の変革によって大人の社会も「学び直し」「リトライ」を是とする社会に変革していったのである。


義務教育の時代には大人の社会にどう子どもたちを適応させるかに過ぎなかった。正解は逆だった。問題だらけの子供の世界の変革が、問題を生み出して硬直した大人の社会をも変えたのである。それも良い方向に、だった。

義務教育を辞めるということは、教育を辞めるということでは断じてない。公私の差別を失くし、みな同じ立場で一様に平等に「子供に教育を施す」ことだけを目的とした制度の導入の過程で生み出された教育バウチャー制度の施行につながっただけなのである。



  ※     ※     ※



国家主義的な色彩を帯びる「義務教育」を受けたもの同士の無意味で壮烈なつぶしあい。それが2200年3月27日木曜日の、帝都バレラスに広がる救いのない風景だった。生き残ったものも死んだものも、全ての者たちの葬列と言えた。全ての義務教育を受けたものが辿る、やり直しの効かない地獄への一本道だった。その道は税金と、各家庭が抱え込んだ巨額の教育費、そして「奨学金」という借金によって舗装された文明の集団墓地への道だったのである…






○教育バウチャー制度における子供の利得と唯一の禁則

「子供が学ばない自由だけはない」とする唯一の強制について…


新自由主義的な教育バウチャー制度は子供の学びに資本主義をとりいれた「自由」を売りとするシステムだった。よって子どもたちは何をどうやろうと「基本は自由」とされていた。ただしそれでも子供には唯一の義務があった。


「学ばない自由はない」…これだけは強制とされた。


子供は遊んでも良かった。学校にいかなくても良かった。また履修内容をこぼしても良かった。今年、学習すべき内容とされたことが履修できなくても「いずれ会得できればよい」とされたからだ。しかし「勉強しない」という自由だけは認められなかった。子供は必ず学習しなくてはいけない…これだけは強制された。


この概念はテロンでもフランスなどでいち早く導入された考え方だった。フランスでもイジメなどの深刻な問題があり、教育水準の経年劣化にも悩まされていた。同時にグラン・ゼコールという特別な高等教育機関が設置されていたため欧州の中でも特に厳しい学歴社会と受験競争があった。この意味ではヤマッテの国・日本に似ていた。このためフランスでは義務教育はガッチリ残されたものの、イジメや教育環境においてはかなり柔軟で、学校以外でも学んでもOKとされていたのだが、それでも「勉強しない」という自由だけは禁則タブーとされていたことに似ている。


ゼムリア人たちもフランス人と同じく子供には教育が与えられるべきであり、このために子供も「学ぶことを放棄する」権利だけはないとされたのである。

確かに「学ばない自由もある」と一時期、論争になっていたようである。しかし教育格差が階級格差・所得格差を生み固定化して国力そのものを衰退させ、文明そのものを破綻させるという経験則から「教育を平等に整える」ことで、「資本主義」という必然、競争を生み出す社会のスタートラインは平等かつ一律に整える必要があるとされたのである。スタートラインまでは同じ。あとは競争。ただし落伍し敗北したとしてもリトライが可能…これにより個人と社会の持続的な活性化を図ることにしたのである。新自由主義者はシンプルで、常に前向きなのだ。


もう一つ重要なこととして、教育年限の間は労働につかせないということもあった。(奴隷的)児童労働(これには児童売春も当然含む)を抑止し、子供に教育の機会を保証するという意味合いが強かった。全ての職業が平等であり、そこで働く労働者は「一個人」として尊厳と人格と正当な給与があってしかるべきだった。たとえば売春婦が悪いわけではないし、道徳的に劣った存在でもない。しかしなりたいのなら「教育によって分別がつくまで待て」ということだった。この間にホモサピエンスの生態的特性や遺伝学を学び、遭遇するであろう心と保健衛生(特に避妊に関する知識)の諸問題を知り、同時にカネの稼ぎ方・契約の仕方から社会のルール・法律だけでなく給与支払の計算や納税に必要な数学的知識を学べ…といっただけである。このための教育期間を六歳から十八歳までの合計12年間とし、この間を「基礎教育期間」として「学ばない自由はない」期間と定めた。よって基礎教育機関終了の18歳が成人年齢と再定義され、この年を境に自分で税金などの各種公的負担が始まることになった。勿論、これらの税制は「負の所得税」が適用された。


同じことは大人にも言えた。大人は子供に教育を与え、また自らも教育、学習を続ける事・推奨することが義務とされた。また子供に教育を与えることも義務とされた。国民の生涯学習制度はここから本格的に整備され始めた。その後、憲法にガッツリと書き加えられた。

帝国民の三大義務は「教育・納税・勤労」と変更された。教育は(子供をもっていようが、一生独身であろうが全く関係なく)全国民が全帝国内の全ての未成年に対して施さなくてはいけない「義務」となり、この時に必要な費用は国が出すことであったために「子供の教育費用負担のために納税が義務」となった。この税金捻出のために全国民には「勤労」が義務となったのである。子どもたちに「学ばねばならない」という義務が課せられたのと同じように、だ…。



 ※     ※     ※

 

 

ではこの後、義務教育における大学受験や実際の教育現場はどうなったか?…を彼らゼムリア人の廃墟の中から更に掘り出して検証を続けてみようと思う


まだまだつづく…m(_ _)m

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