§8-4-5・教育バウチャー制度による子供の利得について〜その2 ←「目的と意義が分れば、子供は自主的に学ぶ」という性善説による「子供への信頼」の回復

○学校や教育機関に通う必要もない

 必要な履修内容を理解していればよいだけの制度


教育バウチャー制度が「子供が必要な履修内容を理解していればよい」というだけのシステムである以上、家庭内だけで教育を受けてもOKなのは当然だった。そもそも学校に通わなくても「特に問題はない」とされたのである。家庭教師を呼んだり、親兄弟から教育を受ける子供たちも増えた。彼らから教わり、結果、クーポン相当額のカネを彼らに国が支払った。これが「家庭内教育」というパターンだった。


付け加えれば、家庭教師など呼ばなくて「子供が自分一人で勉強した」でも特に問題にはならなかった。自分で学習教材を購入し、これで一人で勉強する。そして履修判定小テストを受け合格判定がでれば「履修終了」で、次のステップに勉強を進めればよいだけだからである。履修内容を履修していること…社会で必要とされる学識・知識を獲得していればよいだけだからだ。


これは集団生活にどうしてもなじめない個性の強い子供たちの、個性と才能を伸ばすための解決法でもあった。子供の中には、他人とあまり交わらず自分一人で勉強したい…という子供だっている。そういう子供の事を「協調性のない落伍者」とののしる者には「んじゃ、ナッシュ均衡(=非協力的ゲーム解の一つ。敵対し合うもの同士の均衡点に関する研究)におけるを研究を始め数学・生物学・経済学に巨大な足蹠を残したジョン・ナッシュはどうなんですか?」という話になる。

ナッシュは子供の時から他人と和せず、孤独を好んで大成している。巨大な知性は幼少期から「天才」と称されるほどの変人であったが、彼のテロン人への貢献は義務教育を受けた凡百ぼんぴゃくの小市民が束になってかかっても決して到達できないほどの偉業ばかりだ。個性とはこういうことだ。生まれながらの天才も存在するのだ。よって、ある子供が「自分一人で勉強したい。心ゆくまで自分でやりたい」と思ったならば、そんな子供一人ひとりの個性に合わせて柔軟に最適化された環境を提供するのが「教育」の本質なのである。


では「教育チケットクーポン」はどうなるのか?


カネに関する話になるが、もし「学校なんてのは時間の無駄で邪魔!」と感じた子供が、参考書だけを頼りに自分一人で勉強しきってしまった場合、チケットクーポンのポイント(つまりカネの支払い)はどうなるか?…だが、チケットクーポン制の本質は「子供が誰にポイント(カネ)を提供するか?」を選ぶことが出来る制度だった。

よって子供が参考書だけで勉強した場合、子供は「参考書」か「自分」かを選択することになる。優秀な参考書のおかげ…と子供が判断したのならば参考書にポイントが付与される。つまり書籍の名前を子供が教育省に申請する。その結果、参考書の著者と出版社にポイント分のカネが給付され、その後は著者と出版社の出版契約に基づいて利益は配分される。

もし通信教育だけで勉強し切ってしまったら、通信教育会社がその子のポイントの総取りとなるだけだ。子どもたちが小テストの時、答えが一気に頭に浮かんできた挙句、「手がっ…脳に追いつかねぇ…!!」ほど好成績を残せたら、それは全て進研ゼミのおかげであり、進研ゼミが正規の学校教育になっただけである(←これ重要)。


他方、いくつかの参考書を使って勉強したのだが、どれもピンとこなかった。しかし結果として小テストでは合格点を出した…という場合、それは「子供本人の努力」だったのだから「子供が自分にポイントを付与」すればよい。子供が参考書を買うのにはカネをつかったはずだ。お小遣いから出したのかもしれない。その意味では子供は「対価(=金銭的負担)を払っている」のだ。ならば負担分の利益供与を受けても「全く問題はない」。子供の努力がカネで報われた…と考えればよいのだ。


自分が勉強したことで利益ベネフィットが得られる…この成功体験が喜びとなれば良い。勉強することが楽しくなればよいのだ。倫理的にも何の問題もない。他人を蹴落とし、自分だけが勝ち残るためだけの受験戦争という「人殺し」に比べれば遥かにマシだ。子供は「自分のために」勉強しているだけで誰かを傷つけているわけではない。他人は最初から関係なく、他人の人生にも(悪)影響は与えない。自分の人生のため…に集中できる。あとは子供がポイント(カネ)を「万引き」しないようにすればよいというだけなのだ。これが「リスク」である。子供が「嘘や詐欺・万引きを働けば、罰せられる」というリスクを子供に叩き込む機会になった。

「正直は美徳。勤勉は有徳。そして悪事は必ず報いを受けるべき」という信賞必罰のルールが個人主義にも適用され、子供の時に倫理観として備わった。「自分の行動に責任を負う。よって熟慮と決然たる意思が必要」…これこそが新自由主義的な「自己責任論」なのである。YouTubeやTikTokでバカ動画をノリだけでUPして世界中に自分の醜態を晒した挙句に警察に捕まって人生棒にするバカなテロン人の脳無しとは違うのである…(大人になってまでヤッてるんだから、本当に呆れるわな…)。




○3つの課題とその解決について・その1

 もし「やりたくない勉強を、やらないまま大人になったらどうなるのか?」←市場の需給問題で解決

 

子供が社会に必要とされる学力がつけば何でもよく、プロセスは特に重要視しない…これが教育バウチャー制度の根管で、この時に必要とさせた教育対価は国が税金で充当するというシステムだった。しかし課題がないわけではなかった。主に3つあった。「やりたくない勉強をやらないまま大人になったらどうするのか?」「どのくらい勉強する必要があるのか?」「体育や音楽、美術などの実技はどうするのか?」…これらの問題はどうやって解決したのかを見てみる。



まず第一に「履修内容の項目について、もし延々と合格しなかったらどうするか?」という問題だった。

これは後述する「入学試験に変わる学校・企業側の生徒選び」にも関わる重要なことだが、基本的には「子供の裁量」に任されることになった。


「勉強、全然わからん…(  ̄ー ̄)y-~~」

自分の子供のころを振り返ると「何いってんのか理解できない」というような項目は誰にでもあったと思う。例えば数学の行列とかサイン・コサイン・タンジェントとか…


そういう場合、これまでの義務教育では二つのパターンに陥っていた。一つは「出来なくても放置」というスタイルだった。中学校二年生で学ぶべき事柄が理解できなくても三年生にはなれた。出来なくても進級には特に差し障りはなく、そのまま義務教育は終えられる(←日本がそう)か、さもなければ卒業認定試験によってふるい落とされるか(←ヨーロッパは大抵こっち)…というやり方だった。もう一つは「進級できない」というスタイルで、いわゆる「赤点落第」という方式だ。これは日本でも高校などでよく見られる。「留年」ということだ。


しかし教育バウチャー制度の場合は、学習者である子供の意思と能力と選択の自由を尊重するために「出来なくても放置で、特に赤点落第もしない」のである。出来る所から先に進んだら良い…ということでもある。


そう考えると、例えば算数や数学が苦手という人の場合、子供の時に一切、勉強しないで「逃げ回る」という事も可能になる。それでは逆に「子供に社会で必要な教育を施す」という趣旨に反し、また子供本人が社会に出て苦しむことになりはしないか?…と疑念が出てくる。確かに「その通り」だった。誰だってイヤなことからは逃げたいし、逃げるほうがたやすい。嫌いな勉強からは、学ぶことが好きな子供でも逃げたがるものだ。その結果、子供は本当に勉強しなくなるし、獲得した知識は偏ったものになるだろう。これでは社会に出ても「役立たず」になってしまうだけではないか?…と。


しかし、そうはならないのだ。

教育バウチャー制度の場合、「最適化」に基づく市場形成により「自律的に学習する」という意欲と意義が自ずと生まれ、実践されるようになるからである。「見えざる手」が教育でも働くということだ。考えてみる…m(_ _)m


子供の「履修内容」は細かく設定され、誰がどの程度履修したかはシステムとして一目瞭然だった。そのため、例えば学校や企業が人材を選ぶ場合、必要とされる「履修内容」で人材の選択をすることになる。たとえば大手ゼネコンであれば算数・数学の高い水準が必要であり、同時に資材・環境に対する物理的特性に関する見識学識も必要だった。環境保護も求められた。よって数学・物理化学関係の履修内容のほぼ全てを会得している必要があり、この履修内容が未達の子供はゼネコンには就職できない…たったそれだけの事になった。英語の履修能力が低い子供は、そのままでは多国籍企業や外資系企業では採用されないのと同じであった。


この「現実」が「情報」として広く開示され、「市場」である全国民に対して「自明のこと」として告知されているならば、子供の選択肢は二つの方向性に絞られる。「算数や英語を履修する」か「履修せずに無職になるか」である。そして前者の場合、「誰にわかりやすく教えてもらうか?」という問題に収斂しゅうれんされ、後者ならば「算数や英語を履修していなくても出来る仕事」〜たとえば絵を書くのが好きだったら、たとえば同人誌作家を目指して頑張ってみる…という方向性に進めば良いのだ。もしくは「ワイ、音楽大好きなんだけど、数学とは相性悪いんだよね…」な子供ならば、取り合えすば算数・数学はスキップしておいて子供のときから音楽に打ち込んだら良いのだ。薄い本の分野や音楽の領域でズバ抜けた才能や貢献、もしくは「超売れる」作家になったのなら、それでよいではないか?


これは教育現場が、大人が作る社会という「市場」における「受給の問題」に組み込まれる事を意味していた。実に資本主義らしい白色彗星帝国っぽい考え方で、必要される人材を求める企業や学校などのサイドと、自分の能力を生かしたいという子供らのサイドとの「人的資源の最適化」問題とされたのである。


ここで重要なことは「社会で求められている資質がはっきりと判っている」という情報開示の完全性の方だ。成人して大人の社会に巣立つと言うこと=社会で必要なスキルを習得していることに他ならないのならば、社会が求めるスキルを始めから提示し、これが基準となることを社会が子供に予め提示し告知しておく義務が社会にはある。


「性別・学歴・人種・宗教・年齢不問」と求人欄に書いておきながら、「何故か?」六大学男子しか採用しない…といった差別を抑止できるようになる。アンタらが内々、「低学歴」と差別しているドカタであっても、家を建てたり大工作業する時にはサイン・コサイン・タンジェントが必要になる。知らなければ物置一つ作れないのだ。こういう現実を教育現場におろし、子どもたちに「将来、必要になるのはこういう学習内容」ということを知らせもせず、ただ「勉強しろ!」と理不尽に騒ぎ立てた挙句、子どもたちが意義とやる気を失っていったのが義務教育のひどい欠点の一つでもあった。


「目的と意味がわかれば、子供は自分が何をすべきか自分で判断・選択できる。なぜなら子供は大人と同じだけの理性と分別をもっているから」…この構造主義的性善説に立つのが教育バウチャー制度なのだ。人間を信じ、ヒトの理性をゲームの理論的な一般化された数学モデルとして捉えるのが新自由主義者の本来の考え方だ。子供を尊重するということは、人を信じて尊重することだ。


「本当にそんなンでうまく行くのかぇ…ಠ_ಠ;??」


そう疑いたくなる。そこで、もし仮に基礎的な算数力さえ欠けている子供が成人したらどうなるか? …を考えてみる。


たとえば某アイドルたちのように18歳以上の女の子なのに九九の掛け算も満足に覚えてなくて「おバカキャラ」を売りにしていたトンマがいたとする。笑いを採る才能とテレビで稼ぐ力があることは評価できるにしても、後に何処かの企業に就職するという場合になったら面接の時に落とされる可能性があった。この場合、教育バウチャー制度下にある国の場合、「大人の彼女」であっても選択肢は二つある。一つは「別の会社にいく」である。九九の掛け算を履修していなくても大丈夫という企業を探してアプローチするのだ。しかし、流石に九九の掛け算一つ出来ない人間を雇うのは、現実問題としてありえない…というのが普通なので、そういう場合、


「成人であっても、もう一度、九九の掛け算という履修内容を勉強してみる」


…という選択肢が出てくる。つまり、そういうことだった。

教育バウチャー制度は、必要とされる履修内容を個人が習得しているかどうかだけが重要だった。いつ何処で誰から教わったか?…は「どうでもいい事」だったはずだ。なのでたとえ成人になり、アイドルになった後でも、


「もう一度、九九の掛け算、やってみようかな…(๑¯ω¯๑)?」


…という「意欲」が出てきたら、その時にもう一度、チャレンジすればよいのだ!

そしてやり方はチケットクーポン制だった。誰かに教わってもよいし、自分一人で暗記してもよい。その結果、誰かにポイントを挙げてもよいし、自分一人で習得したなら自分のポイントとしてもよい。あとはポイント数に応じて政府からカネをもらうだけのことだ。そして「勉強しただけでカネ儲けできた!」とか「学ぶことは、大人になっても楽しい」という充実感やワクワク感が湧いてきて、「もっと算数の勉強がしたい」ということになったら、


サイコーではないか!…(๑¯ω¯๑)

何も悪い所がないではないか!…( •̀ᄇ• ́)ﻭ✧

これが、教育バウチャー制度が義務教育に対して圧倒的に優位に立つメリットでもあった。


義務教育の場合、超基礎的で「知らないとバカ」という事柄を、堂々と学び直すチャンスが失われていた。しかし教育バウチャー制度の場合、「やりたい時にやったらいい」のであるから、チャンスロスが理論上存在しない。子供の時はADHD(注意欠如・多動症)で、授業中にイスに座ってるのも困難だったという人が、大人になって(年をとったからかもしれないが)随分と落ち着いてきて、「そういや、あん時はオタオタして勉強できなかったな。いま、もう一度やってみようかな?」という気持ちになることだってある。だったら「恥ずかしげもなく」大人になって九九の計算や鶴亀算を「やったらいい」のだ。義務教育時代の「世間の目が恥ずかしくてできない」という引け目や負い目は、もうなくなった。社会全体が「やりたい時に学んだら良い」という雰囲気であり、これを醸成したのが教育バウチャー制度だからだ。


これはヒト科にありがちな生物的な問題も克服できた。いわゆる「早生まれ」の子供は、他の子に比べて学習能力・体力で劣る場合が確認されていた。これは当然で、4月1日に入学する学制の場合、4月3日に生まれた子供と2月27日に生まれた子供では、実質、一年分の成長の格差があった。特に発育・発達の早い幼少期では同じ学年でも大きな差が出た。この生物学的な現実を無視し、一律で教育を施すのはそもそも無理だった。しかし義務教育では無理を強引に押し通していた。これでは早生まれの子は損をする可能性や、差別やイジメの対象になるリスクさえあった。

しかし教育バウチャー制度では「ありえない話」だ。「自分の意思と能力にあわせ、あとはいつ何処で誰から学ぶか?」だけしかメカニズムが存在していないからだ。


ここにきて初めて「生涯学習」「リスキリング(学び直し)」の意味が出てきた。子供の時に、何かの理由で(しかもその理由などどうでもよい)勉強しなかった内容を、いくつになっても学習するのが我々、白色彗星帝国の社会…という認知が広まり、大人であっても「必要な知識を学習すべき」という社会的要請と雰囲気が生まれる。そして学び、「履修内容」が増えていく。このカネは政府が税金から支出する。義務教育だったら、企業や個人が負担していた学費を税金で負担するのだから、貧乏人や零細企業も助かる「良い制度」だった。つまり教育バウチャー制度は子供だけでなく大人にも使える制度であり、その柔軟性・発展性は社会の活力と公平さを生み出し、差別や偏見や優劣の問題をアッサリと克服することを可能にした。


子供の時、算数が苦手で「薄い本」作家や作曲家になった人が、大人になった後で「やっぱ鶴亀算、やろうかな…」という意欲が出てきたならば、30歳だろうが40歳だろうが「やったらいい」。子供の時、超不良でタバコ吹かしていただけで、何一つ勉強なんかしたことのないというヤンキーが大人になって子供が生まれた時に「子供と一緒に勉強してみようかな?」という気になったら、「子供と一緒に親子で仲良く勉強したらいい」。教育費は基本、税金から支払われるのだから「気楽に堂々とやったらいい」のであるし、「子供から教わった」っていいのだ。その時にはヤンキーのチケットクーポンのポイントは実の子供に付与されるだけだ。


これなら異次元の少子化対策とか教育無償化とか幼児教育への補助金支出などという、ヨーロッパなどで流行り始めているだけで詳細な検討や評価判定さえまだ出来ていないような「綺麗事のブーム」に乗っかった挙句、政治家の選挙対策みたいな全く分けのわからない下らない…しかも多額の税金が使われ、その不明瞭な会計から何処に我々の税金が流れて消えていったのかさえ分からないような、どうしようもない「異次元のクソ政策」からも解放される。相手が「教育」ならば何やっても良いという珍妙な世迷い言に変わって「資源の最適化」という市場原理が、大人と子供の社会両方に存在意義と自己の価値と公平な判断基準をコスト費用とのバランスを図りながら実現可能になったのが、白色彗星帝国のゼムリア人たちが実施した教育バウチャー制度だったのである。


このメリットがあったために、単にスケールメリット(=カネをケチる)だけに頼っていた義務教育を辞めたのだ。多数の子どもたち一人ひとりを相手にしても「大損」することは起こりえないシステムだったからである。




         【 この内容、さらに続く… 】

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