§8-4-4・教育バウチャー制度による子供の利得について〜その1 ←子供が教師を選ぶ

○基礎教育課程+大学・専門学校…というシンプルな学制への移行


では実際に「教育バウチャー制度」によって、どのように変わったのかを見てみる。

全てが大きく変わったのだが、まずは学制が変わった。

以前のゼムリア人の教育制度だと、六歳になった子供から順に学校に入学。小学校六年・中学校二年・高校四年の全12年間が義務教育期間とされていた。これは日本の小学校六年、中学校三年の九年間の義務教育に比べると三年ほど長いのだが、白色彗星帝国の方が日本よりも遥かに高度な文明を持っていたため必要とされる基礎学力が遥かに多かったことに由来する。その後、四年生の大学もしくは複数年の専門学校に入校するか、そのまま社会人となった。


謎なのは全12年間が義務教育期間だったのに何故か初等・中等・高等と三区分されていたことだが、これは履修内容が大きく異なっていたことと、そもそもは初等科だけが義務教育でその後、中等・高等と義務教育枠がダラダラと拡大していった事が理由だった。よって特に合理性はなかったので、やめることにした。


やめる代わりに全12年間を「基礎教育期間」として統一し、各年齢ごとに「履修するのが望ましい」とする勉強内容を設定した。そのため教育制度はシンプルな形に生まれ変わった。


基礎教育期間→大学 →大学院

      →専門学校

      →就職して社会人

      

…これだけになった。そして「基礎教育期間」が旧来の義務教育にあたる期間とし、此処に教育バウチャー制度に基づくチケットクーポン制を導入した。ただし大学および専門学校については「特別な研究機関」と考えられたために、また別の「大学」「専門学校」という特別枠が設定された。こちらに関しては後で詳細に述べるとして、いまはまず基礎教育期間について説明する。


まず子供が学ぶ領域全てを大きく大区分した。「国語」「算数」「理科」「社会」「図工」「音楽」「体育」「外国語」という具合に分け「教科」とした。内容の異なる分野を切り分けたのである。そして各教科の中身は子供の生物的な発育に合わせ、「一応、ある一定の年齢ごとに履修するのが望ましい」とされる内容が決定されていった。この年齢別区分を「科目」と定めた。


例えば六歳児(日本で言う小学校一年生)では「国語」なら「文字の読み書き」「基礎単語群の暗記」「短文の読解・作文」などであり、「算数」でいうのなら「四則計算」「時計の読み方〜60進法」などだった。年齢が上がると「算数」で「鶴亀算」「三角形の角度の算定」「立体の面積・体積」などとなり、更に年限が上がれば「連立方程式」「三角関数」、もっと上位年齢になれば「微積分」「行列」「確率」「金利計算」というのが「科目」となる。


「理科」であれば初年度は「動物と植物の基礎」、年度が上がれば「各惑星に生息する動物・植物の区分と特質」とか「二酸化炭素と酸素〜元素の性質その1」とかになり、もっと年齢が上がれば「量子力学の基礎・その1」とか「生体内の反応〜ホメオスタシス・その1」などという風に科目の難易度が上がっていった。


この科目の内容に沿って「履修内容」項目が細かく設定された。具体的な「学習内容」だった。


「算数(←教科)」なら「四則計算(←科目)」の具体的内容である「足し算」「引き算」「掛け算」「割り算」が「履修内容」となった。学習が進み「三角形(←科目)」なら「三角形の内角の和」が「履修科目」となるわけだし、「理科(←教科)」であれば「植物の基礎その1(←科目)」の具体的な内容である「花の種類・その1」が履修科目となる。生き物という科目であれば、その中の内容である「昆虫の分類その1」「蛛は昆虫か?」「クジラは魚か?哺乳類か?」という具体的な学習項目が実際の履修内容と設定された。


このように子供が学ぶ内容が非常に細かく設定され、この一つ一つの項目を具体的な「履修内容」として子どもたちが学習した。

学習の仕方は前述したように「教育チケットクーポン制」だった。


教育チケットクーポン制により「履修内容」一つ一つにポイントが(難易度などを勘案して)ある一定数、付与されていた。そして子どもたちはこの「履修内容」〜「足し算」とか「引き算」という具体的な項目を勉強し、この履修内容を学習し終えた後でその内容を確認する小テストを受けた。これで一定以上の結果が出たら「履修終了」となった。


履修終了後、子供は帝国教育省に学習し合格した履修内容を報告した。実際には各学校などの教育現場が子供たちの履修内容を査閲・確認し、子供(と親などの了承を得た上で)一定期間の後で学校がまとめて国に報告した。この時点で「履修内容」についていたポイントが「子供の所有物」になった。子供は勉強により知性とポイントを獲得したのである。努力が報われたのだ。


重要なことは子供本人(状況によっては親や親族、もしくは他の公的な資格をもった責任ある後見人など)が自分の履修内容と結果をちゃんと確認するということだった。これにより「教師と生徒」という上下関係はなくなった。教師の「言うとおりにしないと通信簿に丸をつけないぞ」などというファシストまがいの恐喝や権力の乱用が防止でき、同時に大人の社会は契約社会でありハンコやサインの重要性〜自分で自分の権利と義務を確認するという「自己責任とリスク」について幼少期から実地で学ぶことができただけでなく、子供が国家や社会の奴隷もしくは大人の所有物などではなく「幼いだけの一人の人格を持った人間」という事を広く認識させる事に成功した。



 ※     ※     ※



○だれが先生の資格があるのかは「子供が決める」

〜教育バウチャー制度は「誰から学んでもOK」という制度


もう一つの大きな変化は事実上「教員」がいなくなったことだった。なぜなら「教師」は「誰がやってもよい」からである。この教育制度は子供が勉強すべき(てか、してほしいとされた)内容を学習し、小テストで「理解した」と認定されることが全てだったからだ。なのでキーコンセプトは「誰がどこで教えても良い」ということだった。子供の結果が良ければ「それでよい」とされたからだ。子供中心主義なのだ。


よって学校で勉強したが、結局、小テストで合格点が出なかった=「理解した」とならなかった場合、例えば親、たとえば塾に通って勉強しなおし、その結果、確認小テストで合格判定をもらった場合、「親」や「塾の講師」が彼(彼女)を導いたのであって「学校は何の貢献もしなかった」のである。なので、各履修内容ごとに付与されていた「教育チケットクーポン(=ポイント)」は実際に子供を合格させるのに貢献した「親」「塾の講師」がゲットした。この場合、学校や学校の教師がもらうべきではないのだ。


そしてチケットクーポンはポイント数に合わせて「カネが支払われる」仕組みだった。このポイントを全額、国の教育費で補填することで「教育公費」としたのだから、この場合なら「親」「塾の講師」がポイント=国から現金をもらうことになるのである。学校や学校の教師はなんの貢献も出来なかったのだからカネはもらうべきではなく、実際、給与は支払われなかった。



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そこでアンタら日本人のために、より具体的に分かりやすいたとえをする。

今上天皇(第126代天皇・徳仁)の奥様でいらっしゃる皇后雅子様とご息女・愛子内親王様で考えてみる。愛子内親王は2022年末日において17名いらっしゃる皇室成員の最年少の女性皇族にして内廷皇族(←皇位継承権は現在のところないということ)である。ちな、お好きなスポーツは相撲だそうである。ただしご本人が嗜まれるかどうかは不明。

内親王殿下は学業成績が良好で英語に関しても堪能ということだった。そして殿下にご教育されたのは母君である皇后雅子様ということだった。では日本で教育バウチャー制度が採用されていたとしたら、どうなるだろう?


殿下は学生時、学習院において英語を学ばれたということだが、仮に「会話・その1〜仮定法過去」などの履修内容においては学校ではなく皇后雅子様から直接ご指導があったとする。そして殿下が学ばれた後、小テストにおいて履修内容の「会話・その1」に相当する小テストを御受験され、結果、合格=理解されたとする。その場合、殿下は英語の会話能力が一つ上達されたということになる。

と同時に、この時に殿下を指導されたのは皇后雅子様だった。よってその旨を国の日本の文部科学省に伝え、その結果、国の公的教育費(←国民の税金)から「会話・その1」に付与されていたポイント相当のカネ…例えば2ポイントなので2円だとしたら、この2円を皇后雅子様の銀行口座に文部科学省から入金するのである。

このカネは「先生の給料」に相当し、同時に生徒サイドの「教育費」になる。しかし「教育費」は全額、税金で賄われるのだから、全ての世帯にとって所得や年収、親がいるかどうかなどに関係なく「無料」だ! そして教える人物に関しても、特に教員資格などは必要とはされていない。誰が師となるかは子供〜教育の受益者が決めるだけの話だからだ。


よって、ここから先が教育バウチャー制度の真骨頂となる。

この結果を受け、皇后雅子様の英語授与能力=先生としての資質は高いと国民が評価判定したとする。そして皇室公務の一環として「皇后雅子様の英文解釈教室」というのをYouTubeでお始めになられるべきという世論が形成され、実際にYouTubeで授業を開始なされたとする。我々はそれを見て学習し、


「学校の授業よりずっと分かりやすい!」

「ワイ、連続して小テスト落ちてたけど、これなら判った!」


…連発の末、多くの子供たちの英会話能力がより上達し、履修内容「会話・その1」の小テストに合格しまくったとする。するとこうなる。

履修満了となった子どもたちが受講していたのは「皇后雅子様の英文解釈教室」であり、彼らが通っていた学校や授業、先生は全く貢献していない。よって子どもたちが「自分の学力向上に貢献してくれた先生」は皇后雅子様だ。そして教育チケットクーポンは「子どもたちが自ら選択した結果として」皇后雅子様に付与するはずだった。もし数百万人が受講して「履修満了=合格」出来たということだったら、そのポイント分〜この場合なら数百万のカネが、国から皇后雅子様の銀行口座に振り込まれるのである。そのカネをどう使うかは当然、皇后雅子様の自由裁量に任された。


それどころか、次のような話もごく普通に発生する。

母君から学ばれた内親王愛子殿下が「まだ学生でいらした時」に学友クラスメートに英会話を教えたとする。その結果、教えてもらった「同じ年の学友クラスメート」の英会話能力が向上し、該当する履修内容の小テストに合格できたとする。

ならば学友の方にとって「英語の先生」は「愛子内親王」殿下だ。学校の先生は「全く結果にコミットしていない」。よって愛子様の銀行口座に、該当する履修内容に付与されたポイント相当のカネが国から振り込まれるのである。たとえ愛子様がまだ学習院に在籍する生徒のお一人であったとしても、だ。当然のことだが…


この効果だった。これこそが真の「教育の自由化」だった。


ある一人の子供が学ぶ時、誰にいつ何処で教わってもよいのである。子供にとっての「学び」とは、その子が学習する場と知識を提供することができれば良いだけなのだ。よって「先生」は学校の担任だけでなく、親・友人・先輩であっても「全く問題がない」。それどころか後輩や外国人、ガミラス星人であっても「全く問題がない」のである。身分や国籍・信条や性別、年齢は何も関係がないのである。ただ、受講する子供にとって「教えてくれた恩人」が先生となり、その正当な対価を得るだけのシステムなのであった。よって「教師」という職業はなくなり、大学などで「教育学部」は消滅した。必要ないからである。誰が教師になれるのかは「子ども」が決めるからである。




○学ぶ場所〜「学校」について

 教育に民間を活用するのではなく、公的教育機関が民間教育機関と同じとされた


教育バウチャー制度に移行しても、既存の学校はそのまま残された。「集団生活の方がよい」という子どもたちも多かったし、学校環境は劇的に改善されてもいた。なので子どもたちが「いままでの学校を残してほしい」「お友達と一緒が良い」という意見する子供も多かったのである。なので残した。

しかしそれでも不登校を起こす子供たちはいた。同じクラスの仲間たちからイジメられる子もいたのだ(残念ながら…)。

しかし教育バウチャー制度ならば、イジメられっ子は苦痛と屈辱にまみれて泣きながら学校に行く必要が「ない」。イヤなら行かなきゃ良い。それだけ。自宅で勉強すればよいのだし、家庭教師を呼んでもよい。自分にあった好きなスタイルで勉強し、必要とされる履修内容と受講。履修満了の結果を出せば良いのである。勿論、他の学校に行ってもよかった。好きな学校を選べばよい。それどころかサポート校や民間の私塾で学んでも「何も問題はない」のである。


民間の私塾や、学校に通えなくなった子どもたちのために準備されたサポート校・インターネット学校は「普通の学校」と全く同じ扱いとなった。貴方の子供がこれらの場所で勉強した結果、必要な履修内容を会得できたならば「それでよい」のであって、その結果、国家の税金で賄われる公的教育費用は民間の私塾・サポート校・インターネット校に給付されるだけだからだ。


これまでの公共学校の代わりにこれら私塾やサポート校が同じ特典を受けるだけであり、「(公的で正式な)学校に行ってないから」とか「サポート校あがりだから」…という、他人を差別する考え方自体が否定された。よって仮に子供が不登校おこして学校に行けなかったとしても引け目や負い目を感じる必要はなかったし、サポート校上がりであるかどうかは人格や人間性を劣化させるものでもなかった。ただ必要とされる「履修内容」を習得しているかどうかだけが重要だったからである。


もう一度いうが、民間の私塾やサポート校が公的教育機関に組み込まれたのでは「ない」。公的教育機関が「無くなった」のであって、これまでの学校制度の方が、塾やサポート校と同じ民間教育機関に「格下げ」されたのである。ただしこれら民間教育機関で子供の教育にかかるカネを国の税金で賄うということにしただけのことだった。


これが義務教育の廃止という意味であり、教育の民営化の真意であった。単にコストを下げるのが目的なのではなく、義務教育の時に「義務」とされていた子供への強制という恐怖と抑圧と体罰と理不尽を廃止するのが目的だったのである。よって義務教育の時のように学区制で区切られていて、「評判の良い、あの学校にいきたいなぁ〜」が叶わないという理不尽さもなければ、受験しなければ別の学校に移籍することもできないという不自由さも白色彗星帝国にはなくなった。


このため公立学校と私塾・予備校や通信教育・サポート校との区別は極めて曖昧になった。しかしそれでも残されたのは「子供の選択肢を広げるため」であった。私塾やサポート校などとの違いは経営主体が各地方政府管轄という程度だった。既存の学校は「子どもたちがそのまま残してほしい」という意見があったので「残した」だけであって、民間の教育現場と「制度上、なんの違いもない」。公的機関と民間教育機関は併置されただけで上下の差などないのだ。なお、この「学校」についてはいずれ別途で詳述する。いまはまず子供たちと教育バウチャー制度について引き続き申し述べたい。



           【 この内容、続く 】

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