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2023年1月23日 17:18
>この「現実」が「情報」として広く開示され…採用側の企業は、受験の最低条件としてこれを提示する事はあると思いますが、基準を達成しているからと言って、採用するとは限りません。どこの企業も主要取引先に対する採用枠を設けているのが普通で、試験の点数だけで採用する訳ではありません。公務員とかならあり得ますが、民間では無理でしょう。それに優良な採用枠に対しては、応募数の方が多くなるのに決まっていますから、当然競争が発生します。それって、結局今と変わらない様な…。教育制度が変わっても、受験の厳しさはいつの時代も変わりません。それと学校は特定の【環境】を提供する事で、同世代の子供たちを競わせ、切磋琢磨するという要素も持っています。進学校なんかが良い例ですね。箱物不要論は極論に過ぎると思います。
作者からの返信
白虎様…m(_ _)mいつもありがとうございます。>情報の開示これが重要なのは、現在の受験制度を考えると見えてきます。現在、子供たちが大学受験等で志願書を出し、受験した後で「採点結果が分からない」ということが「問題の一因」ということです。この後の本編でも語ることなのですが東京医大のように、女子だからということで差別されて入学できないのならば始めから「女子は差別します」等の情報を出せばよいのです。たとえば黒人が嫌いな人種差別的な白人中心主義の大学が、有色人種の我らを「白人でないから」と叩き出した時、それは倫理的な問題を除けば(てか、これを除くことはありえないにしても)「その大学の基準」ということであり、始めから判ってるのならば有色人種は「その学校にいかない」という行動を採るべき…という事です。これは単に箱物の話ではありません。教育バウチャー制度というのは「義務教育は国家による統制」でありファシズムを誘引するのだから「必ず潰す」べきという教育哲学の話なのです…m(_ _)m江戸時代の日本には全土に共通したテキストや義務教育はありませんでした。しかし1840年代のアヘン戦争以後の世界情勢をすばやく理解し、国の近代化へと邁進する知性を持っていました。これは寺子屋始め日本人の民間教育が成し得たことであり、江戸幕府が全土で国民皆兵的な教育制度をひいていたわけではないのです。他方、その後を受けた明治政府における義務教育は常に愛国心の高揚があり、日の丸・君が代・天皇陛下万歳があり、その結果、国家が他国に占領されるという結果を招いています。日本が現在、植民地にならず母国語が日本語であるのは単に「運が良かっただけ」であり、20世紀でなければ日本は植民地です。こんな危機を迎える必要はなく、「もっと利口な方法はなかったのか?」という知恵が無かったことが敗戦の一因となったのであれば、そのため(敗戦の回避)に必要な知恵を育てていなかったことは問題であり、これは義務教育が大日本帝国の国家主義のために存在していたからということです。結局、戦後民主化されたものの、その本質が変わっていないというのならば、大日本帝国陸海軍でよく見られたいじめなどの問題が現在の民主教育でも見られていることの理由も「所詮、同じ教育メカニズムだから」…と問い直す必要があります。ワイは左翼ではありませんが、戦前の日本の教育制度を必ずしも褒めることは出来ません。結果が悪すぎるからで、これは「もっと知恵のある教育環境があれば民族滅亡への間違えた選択肢をひかなくて済んだのではないか?」という根本疑念からさかのぼって考えるべき問題と捉えています。もし日本が民主国家であり、戦前の軍国主義の否定が必要ということならば、軍国主義へと導いた教育システムもまた否定されるべきであり、このための努力の結果、現行の義務教育に限界があるのならば「辞める」という選択をすることは単に「入れ物を変える」ことではなく、教育に対する哲学観そのものの変更を意味する超重大時…ということだったのです。これは義務教育以前の教育システム=貴族および一部の人たちの手の中にしかなかった「教育」というツールが「やっぱりおかしい。教育はみんなに開放されるべきだ」というところから義務教育を考え出したのと同じ黎明期に、現在差し掛かっているのだ…というパラダイムシフトの問題だとお考えください。教育バウチャー制度は単なる民営化ではないのです。まずはじめに「全体主義を排除する」ということから始めるべきであり、アングロサクソン系によく見られる「家族・宗教・コモンロー」的な権威主義の拒絶という深い哲学観から生じた教育システムです。おそらく貴族制度の時、まだ教育が貴族だけのものだったとき「国民皆学」と言えば「農民や奴隷などの連中は『生まれながら劣等』なのだから、全員に教育を施すのは無理だし馬鹿げている」と言われたでしょう。実際、そうでした。18世紀の英国においてさえそうです。しかしその後、義務教育が展開した時、結局、国民の知性は上昇しました。これはこれで良いことでした。しかし21世紀になり、国民国家から個人主義の時代を迎え、もはや人種や性別など、あらゆる意味で「区別はよくても差別は駄目」という「多様化」の時代においては、国家主義をもたらし、実際、20世紀の戦争や全体主義・権威主義を支えるような教育システムは限界を迎えつつあるということなのです。貴族だけの教育から国民皆学の義務教育へ。そしてその後で教育バウチャー制度による「個性の尊重と個人の能力の育成」…という個人主義を幼いころから実践しない社会が、なぜ個人の自由と平等を達成する社会へと飛翔できると考えられるのか?…ということです。現在の義務教育の問題は世界でやはり普遍的に存在しています。日本で起きていることは世界で起きているのであり、なら構造主義的な視点から見ても「共通フォーマット」があるからということでしょう。義務教育です。逆にいえば教育バウチャー制度を完全かつ効果が出るまで徹底させた国は何処にもありません。よって義務教育は限界に近づきつつあり、いまだやったことのない教育バウチャー制度には「可能性」が存在しているということです。日本においては私塾・予備校というシステムが機能していて、現在、学校を補完する良好な環境にあります。「公教育の意義はなにか?」をまず脇においておくとすれば、「なぜ機能している予備校や私塾は公教育と同じ扱いにならないのか?」という深い疑念があります。もし必要がないのなら私塾や予備校は存在せず、存在し続けているのならば何故、公的教育機関と同じ能力を持ちながら公的教育機関と同じ「立場」にならないのか不思議です。なら私塾や予備校含めたあらゆる教育が「公教育」と認められ、ここでの学識と人格形成の結果が公立学校・学校法人と同一視され、ふさわしい尊敬を受けるべきと考えます。しかし現実には教育を動かすにはカネ(出費)が必要です。カネの無い世界だったら、カネの話はしません。しかし現実には(残念ですが)カネから始まるのです。よってこの「ふさわしい」教育はカネの理屈を通したメカニズムとして存在させねば、現実世界に存在できません。それが教育バウチャー制度です。この制度が完全かどうかはワイにもわかりません。しかし「やってみる価値が十分にある」システムであり、義務教育のなかった江戸時代などでも日本の文化には文字があり、庶民が(←貴族だけではない。重要)文字の読み書きをしたり算術を学んでおり、その結果、文化文政時代や元禄文化などの独自の文明をもってもいたことから「義務教育に執る理由はない」と判断しています。よりよいシステム…もしくは既存のシステムを大幅に変更する際に未知なるものへの恐怖は誰にでもあります。また深く検討したからといって成功する保証もありません。しかし長く続く良いシステムは「いきなりゼロ」から始めるときの構造が優れていることが必要です。「後で修正すればいいや」…で長く続くことはありません。始めからいきなり天才的なアイディアを具現化する必要があります。軒に母屋を重ねても倒壊しやすくなるだけです。この教育バウチャーシステムは基本コンセプトが「個人」に立脚しているという意味で「正しいコンセプト」であり、現代的です。あとはどこまで民営化できるか? …という問題だけです。ワイも全てを民営化するのは不可能と判断しています。これはフリードマンの頃から半世紀以上経った現在の我々だけがしる「後出しジャンケン」みたいなものです。しかし日本の教育は違います。寺子屋から始まり塾や予備校というのが街中に沢山あるということは「時代」という圧力に柔軟に対処して進化しつづける不滅のメカニズムです。2199年の地下都市にもきっと予備校はあったでしょう。無くても私塾はあったはずです。無くなっていることはありません。ならこの優れたメカニズムの活用を考えるのが日本人の21世紀の知恵です。カネでしか動かないのなら、カネで動かすしか無いこれも現実です。そのためにチケットクーポン制が必要でした。これはワイが言い出したことではなく、始めから言われていたことです。趣旨や方法論もワイのアイディアではありません。しかしこの制度は活用できると思われます。まず最初に「ドンガラ」…箱物から変える。民間の私塾や予備校などが子どもたちの知性の向上につながるのならば〜子どもたちが「ここなら勉強を続けられる」ということならば、正規の教育機関にすることが必須です。塾しかいかなくても良いのです。「塾しかいかない人生は不幸ではない」←この枠組みを作ることから始めなければ、この結論には到達しません。いじめや暴力を無くす努力の一つとして教育バウチャー制度が十分な可能性を秘めていて、「希望」となるシステムだということです。よって…>当然競争が発生しますこれは教育バウチャー制度でも「競争は発生します」。よって教育バウチャー制度でも競争を否定しているわけではないのです。教育バウチャー制度は「人間性の否定」を拒絶するシステムなだけです。そして民間であれ、入校審査であれなんであれ「なぜ自分は落ちて、あの人は受かったのか?」の完全な情報開示が必要で、これにより仮に「負けた」としても納得すべきだ…という制度なのです。女子だから落ちる…というのはあってはならず、多浪は年齢制限で受け入れないというのも問題はあると思います。しかし最大の問題は「情報を開示しないこと」です。分っていれば「行くのを辞める」か「バカな事を辞めさせる」かのどちらかの圧力が発生します。この「最適化」こそが必要なのです。現在の義務教育の延長上でこれが叶わない〜なぜ自分が大学に落ちたのか? じゃ、ワイは一体、何点採っていて合格最低ラインは何処なのか? 他になにか基準があったのか?…これらを開示することが「出来ない」システムと、可能になるシステムの違い…それは根本的な教育に対する哲学観の違いによるところが大きいのではないかということです。前者の出来ないシステムが結局は義務教育であり、なのでいまでも出来ないでいます。なら「出来るシステム」に乗り換えるべきです。「始めから、やるべきこと」と定義づけたシステムへの移管ということです。社会の変革が必要ならば、社会を変革しなくてはなりません。小手先で頑張ることはとても重要で、既存の資産を運用できるのですが、もし限界に達していたのならば「捨てるべき」です。我らは義務教育がそういうシステムだと見ています。こうしている間にも不登校の子どもたちは増えています。彼らが間違えているのではないのです。我ら大人が間違えているのです。子供は社会を作ることは出来ません。我らオッサンは社会を変えることが出来ます。変えるのならば良い方向に、そして夢想ではなく現実に立脚した構造にすべきです。我々の現実は(良し悪しはともかくとして)資本主義です。カネの世界です。なら「カネで良い方向に動かす」事だけを考えるべきと思うのですが…m(_ _)m
>この「現実」が「情報」として広く開示され…
採用側の企業は、受験の最低条件としてこれを提示する事はあると思いますが、基準を達成しているからと言って、採用するとは限りません。どこの企業も主要取引先に対する採用枠を設けているのが普通で、試験の点数だけで採用する訳ではありません。公務員とかならあり得ますが、民間では無理でしょう。それに優良な採用枠に対しては、応募数の方が多くなるのに決まっていますから、当然競争が発生します。それって、結局今と変わらない様な…。教育制度が変わっても、受験の厳しさはいつの時代も変わりません。それと学校は特定の【環境】を提供する事で、同世代の子供たちを競わせ、切磋琢磨するという要素も持っています。進学校なんかが良い例ですね。箱物不要論は極論に過ぎると思います。
作者からの返信
白虎様…m(_ _)m
いつもありがとうございます。
>情報の開示
これが重要なのは、現在の受験制度を考えると見えてきます。現在、子供たちが大学受験等で志願書を出し、受験した後で「採点結果が分からない」ということが「問題の一因」ということです。この後の本編でも語ることなのですが東京医大のように、女子だからということで差別されて入学できないのならば始めから「女子は差別します」等の情報を出せばよいのです。たとえば黒人が嫌いな人種差別的な白人中心主義の大学が、有色人種の我らを「白人でないから」と叩き出した時、それは倫理的な問題を除けば(てか、これを除くことはありえないにしても)「その大学の基準」ということであり、始めから判ってるのならば有色人種は「その学校にいかない」という行動を採るべき…という事です。
これは単に箱物の話ではありません。教育バウチャー制度というのは「義務教育は国家による統制」でありファシズムを誘引するのだから「必ず潰す」べきという教育哲学の話なのです…m(_ _)m
江戸時代の日本には全土に共通したテキストや義務教育はありませんでした。しかし1840年代のアヘン戦争以後の世界情勢をすばやく理解し、国の近代化へと邁進する知性を持っていました。これは寺子屋始め日本人の民間教育が成し得たことであり、江戸幕府が全土で国民皆兵的な教育制度をひいていたわけではないのです。他方、その後を受けた明治政府における義務教育は常に愛国心の高揚があり、日の丸・君が代・天皇陛下万歳があり、その結果、国家が他国に占領されるという結果を招いています。
日本が現在、植民地にならず母国語が日本語であるのは単に「運が良かっただけ」であり、20世紀でなければ日本は植民地です。こんな危機を迎える必要はなく、「もっと利口な方法はなかったのか?」という知恵が無かったことが敗戦の一因となったのであれば、そのため(敗戦の回避)に必要な知恵を育てていなかったことは問題であり、これは義務教育が大日本帝国の国家主義のために存在していたからということです。結局、戦後民主化されたものの、その本質が変わっていないというのならば、大日本帝国陸海軍でよく見られたいじめなどの問題が現在の民主教育でも見られていることの理由も「所詮、同じ教育メカニズムだから」…と問い直す必要があります。
ワイは左翼ではありませんが、戦前の日本の教育制度を必ずしも褒めることは出来ません。結果が悪すぎるからで、これは「もっと知恵のある教育環境があれば民族滅亡への間違えた選択肢をひかなくて済んだのではないか?」という根本疑念からさかのぼって考えるべき問題と捉えています。
もし日本が民主国家であり、戦前の軍国主義の否定が必要ということならば、軍国主義へと導いた教育システムもまた否定されるべきであり、このための努力の結果、現行の義務教育に限界があるのならば「辞める」という選択をすることは単に「入れ物を変える」ことではなく、教育に対する哲学観そのものの変更を意味する超重大時…ということだったのです。
これは義務教育以前の教育システム=貴族および一部の人たちの手の中にしかなかった「教育」というツールが「やっぱりおかしい。教育はみんなに開放されるべきだ」というところから義務教育を考え出したのと同じ黎明期に、現在差し掛かっているのだ…というパラダイムシフトの問題だとお考えください。教育バウチャー制度は単なる民営化ではないのです。まずはじめに「全体主義を排除する」ということから始めるべきであり、アングロサクソン系によく見られる「家族・宗教・コモンロー」的な権威主義の拒絶という深い哲学観から生じた教育システムです。
おそらく貴族制度の時、まだ教育が貴族だけのものだったとき「国民皆学」と言えば「農民や奴隷などの連中は『生まれながら劣等』なのだから、全員に教育を施すのは無理だし馬鹿げている」と言われたでしょう。実際、そうでした。18世紀の英国においてさえそうです。しかしその後、義務教育が展開した時、結局、国民の知性は上昇しました。これはこれで良いことでした。しかし21世紀になり、国民国家から個人主義の時代を迎え、もはや人種や性別など、あらゆる意味で「区別はよくても差別は駄目」という「多様化」の時代においては、国家主義をもたらし、実際、20世紀の戦争や全体主義・権威主義を支えるような教育システムは限界を迎えつつあるということなのです。貴族だけの教育から国民皆学の義務教育へ。そしてその後で教育バウチャー制度による「個性の尊重と個人の能力の育成」…という個人主義を幼いころから実践しない社会が、なぜ個人の自由と平等を達成する社会へと飛翔できると考えられるのか?…ということです。
現在の義務教育の問題は世界でやはり普遍的に存在しています。日本で起きていることは世界で起きているのであり、なら構造主義的な視点から見ても「共通フォーマット」があるからということでしょう。義務教育です。逆にいえば教育バウチャー制度を完全かつ効果が出るまで徹底させた国は何処にもありません。よって義務教育は限界に近づきつつあり、いまだやったことのない教育バウチャー制度には「可能性」が存在しているということです。
日本においては私塾・予備校というシステムが機能していて、現在、学校を補完する良好な環境にあります。「公教育の意義はなにか?」をまず脇においておくとすれば、「なぜ機能している予備校や私塾は公教育と同じ扱いにならないのか?」という深い疑念があります。もし必要がないのなら私塾や予備校は存在せず、存在し続けているのならば何故、公的教育機関と同じ能力を持ちながら公的教育機関と同じ「立場」にならないのか不思議です。なら私塾や予備校含めたあらゆる教育が「公教育」と認められ、ここでの学識と人格形成の結果が公立学校・学校法人と同一視され、ふさわしい尊敬を受けるべきと考えます。
しかし現実には教育を動かすにはカネ(出費)が必要です。カネの無い世界だったら、カネの話はしません。しかし現実には(残念ですが)カネから始まるのです。よってこの「ふさわしい」教育はカネの理屈を通したメカニズムとして存在させねば、現実世界に存在できません。それが教育バウチャー制度です。この制度が完全かどうかはワイにもわかりません。しかし「やってみる価値が十分にある」システムであり、義務教育のなかった江戸時代などでも日本の文化には文字があり、庶民が(←貴族だけではない。重要)文字の読み書きをしたり算術を学んでおり、その結果、文化文政時代や元禄文化などの独自の文明をもってもいたことから「義務教育に執る理由はない」と判断しています。
よりよいシステム…もしくは既存のシステムを大幅に変更する際に未知なるものへの恐怖は誰にでもあります。また深く検討したからといって成功する保証もありません。しかし長く続く良いシステムは「いきなりゼロ」から始めるときの構造が優れていることが必要です。「後で修正すればいいや」…で長く続くことはありません。始めからいきなり天才的なアイディアを具現化する必要があります。軒に母屋を重ねても倒壊しやすくなるだけです。この教育バウチャーシステムは基本コンセプトが「個人」に立脚しているという意味で「正しいコンセプト」であり、現代的です。あとはどこまで民営化できるか? …という問題だけです。
ワイも全てを民営化するのは不可能と判断しています。これはフリードマンの頃から半世紀以上経った現在の我々だけがしる「後出しジャンケン」みたいなものです。しかし日本の教育は違います。寺子屋から始まり塾や予備校というのが街中に沢山あるということは「時代」という圧力に柔軟に対処して進化しつづける不滅のメカニズムです。2199年の地下都市にもきっと予備校はあったでしょう。無くても私塾はあったはずです。無くなっていることはありません。ならこの優れたメカニズムの活用を考えるのが日本人の21世紀の知恵です。
カネでしか動かないのなら、カネで動かすしか無い
これも現実です。そのためにチケットクーポン制が必要でした。これはワイが言い出したことではなく、始めから言われていたことです。趣旨や方法論もワイのアイディアではありません。しかしこの制度は活用できると思われます。まず最初に「ドンガラ」…箱物から変える。民間の私塾や予備校などが子どもたちの知性の向上につながるのならば〜子どもたちが「ここなら勉強を続けられる」ということならば、正規の教育機関にすることが必須です。塾しかいかなくても良いのです。「塾しかいかない人生は不幸ではない」←この枠組みを作ることから始めなければ、この結論には到達しません。いじめや暴力を無くす努力の一つとして教育バウチャー制度が十分な可能性を秘めていて、「希望」となるシステムだということです。よって…
>当然競争が発生します
これは教育バウチャー制度でも「競争は発生します」。よって教育バウチャー制度でも競争を否定しているわけではないのです。教育バウチャー制度は「人間性の否定」を拒絶するシステムなだけです。そして民間であれ、入校審査であれなんであれ「なぜ自分は落ちて、あの人は受かったのか?」の完全な情報開示が必要で、これにより仮に「負けた」としても納得すべきだ…という制度なのです。女子だから落ちる…というのはあってはならず、多浪は年齢制限で受け入れないというのも問題はあると思います。しかし最大の問題は「情報を開示しないこと」です。分っていれば「行くのを辞める」か「バカな事を辞めさせる」かのどちらかの圧力が発生します。この「最適化」こそが必要なのです。現在の義務教育の延長上でこれが叶わない〜なぜ自分が大学に落ちたのか? じゃ、ワイは一体、何点採っていて合格最低ラインは何処なのか? 他になにか基準があったのか?…これらを開示することが「出来ない」システムと、可能になるシステムの違い…それは根本的な教育に対する哲学観の違いによるところが大きいのではないかということです。前者の出来ないシステムが結局は義務教育であり、なのでいまでも出来ないでいます。なら「出来るシステム」に乗り換えるべきです。「始めから、やるべきこと」と定義づけたシステムへの移管ということです。
社会の変革が必要ならば、社会を変革しなくてはなりません。小手先で頑張ることはとても重要で、既存の資産を運用できるのですが、もし限界に達していたのならば「捨てるべき」です。我らは義務教育がそういうシステムだと見ています。こうしている間にも不登校の子どもたちは増えています。彼らが間違えているのではないのです。我ら大人が間違えているのです。子供は社会を作ることは出来ません。我らオッサンは社会を変えることが出来ます。変えるのならば良い方向に、そして夢想ではなく現実に立脚した構造にすべきです。我々の現実は(良し悪しはともかくとして)資本主義です。カネの世界です。なら「カネで良い方向に動かす」事だけを考えるべきと思うのですが…m(_ _)m