編集済
どの様な教育システムを取ろうが、最終的な出口で求められる基準が、【学力】一択であれば、何も変わらない気がします。良いポジションというのは、どこの世界でも多くありませんから、激しい競争は無くなりません。その競争の基準を公平性を担保しつつ、どう運用するかだと思います。日本の公的教育にも色々問題があるのは確かですが、それは他の国でも同じ事だし、日本はまだ上手くやっている部類だと思います。日本の社会に欠けているのは、失敗に対する柔軟性の不足です。日本は失敗に厳しい。失敗する事で得られる知見もあるはずなのに、マイナスとしか見ない。日本では一度会社を潰した奴はもう一回潰すと言われるそうですが、古代ローマなんかは、失敗した司令官を再度登用するのが常でした。一度失敗すれば、次はしないだろう…と考えたからです。この辺りの寛容さが日本には決定的に欠けている気がします。
作者からの返信
白狐様…m(_ _)m
いつもありがとうございます(^^)/
>競争
失くならないと思います。てか、競争の本質は「需給のバランスの不釣り合い」ということです。どちらがアンバランスだとその時に発生する事象です。なので「資源の最適化」が必要ということです。このためには「マルチな能力をもつ」ことも重要で、このことから幅広い知識と人格形成が必要と考えます…m(_ _)m
と同時に社会には完全な資源の最適化は「ありえない」だろうと思われるため、かならず競争は発生するでしょう。これが大人の世界です。しかし子供の世界は「大人の世界にある競争で『敗北して死ぬしかない』絶望的な状況に追い込まれないようするためのツールを滋養する期間」なのであり、大人の世界のような競争する社会である必要はないのです。大人の世界に巣立つために必要な知識・見識を育てるトレーニング期です。戦争で例えるならば、実戦に参加するまえの基礎訓練期間であり、この時に「仲間同士で殺し合って、勝ち残ったものだけが次の実戦に参加する」というのは「無駄な人員の損耗」ということにほかなりません。実際、1930年代のナチス政権化のドイツではこのようなことが行われていて、軍事訓練を強要された子どもたちのなかで肉体的・運動能力的に劣った子どもたちが自殺して淘汰されていた…という話はよく聞きます。特にヒトラーユーゲントなどの生き残りの老人からはそんな話をよく聞きます(テレビで見た)。
しかし、ナチスは負けているのです…(๑¯ω¯๑)
全く使い物になりません。敗者の論理です
ナチスが勝っていて、欧州が現在も第三帝国であるのならともかく、負けたものの方法論は基本的には「不必要」です。個別には見るべきところもあるのかもしれませんが、基本的には全廃棄です。仲間同士で競い合い、勝ち残ったもの同士が硬い絆で結ばれても、戦場で負ければそれで終わり。「強いものが遺伝子を残せるではないか?」については、死んだら終わり。しかも戦勝国のクズ兵士どもに自国民の女たちがレイプされてソイツらの子供ばかりになるので「論拠にならない」という話です。子供のときの勝ち残り競争・生き残り競争など「意味がない」です。よって「やめます」…m(_ _)m
教育は国家のためにあり、国家隆盛と敗北の回避・植民地化、奴隷化の回避が目的ならば、「祖国が負けなければよい」だけの話であって、「じゃ、子供のうちから競争社会で…」というのは単純すぎる突拍子も無いタワゴトです。十分な訓練期間を与え、充実した教育環境によって子供一人ひとりが自己の中に「確実に勝てる」と確信させること…「個人の強さ」が基本となり、強い個人が知能を発揮して有機的に連携する術を学んだ時に始めて「国家」という総体が柔軟で強靭になると考えるべきです。個の強さが全てで、その個人の強さをよりたくさん引き出すことのできた国家が戦勝国になれるのです。
よって子供の時に必要なのは基礎となる「学力」であり「体力」です。この滋養のために衣食住の環境の整備および「弱い心を理解し、救済して『個人の力と尊厳』を回復させるためのケア能力」が国家社会に求められるのです。強い個人・賢い個人を作り出すことが究極、集団を強化することにつながるのです。それは競争で生まれるものではありません。競争は結果であり、市場における需給バランスの不釣り合いというだけの現象で、この「最適化に失敗している」状況を意図的に子どもたちの世界で作り出す意味はないのです。
より正確に言うなら「競争は正義であり、絶対に必要」なだけでなく自由と平等と公平さを担保するメカニズムが競争です。よって優劣や勝ち負けは出てくるという事です。これは同時に資本主義のルールです。不正な寡占や独占というファシズムを打破するためには競争が必要なのです。しかし子供の受験競争には「市場原理が働いているのか?」という重大な疑問があるということです。市場原理には「参入の自由」があるのですが、教育において、大人がもう一度大学受験からやり直したり、中卒や高卒の子供たちが大卒と「社会」という市場で競争した時、「学歴とは単に持っている知識=ツールの違い」という事のはずなのに、実際にはそうではなく学閥や派閥、社会階層化という「新たなファシズム」という社会の障壁を作り出す負のメカニズムの弊害の方が大きくなってるのが現実なのではないか?…という事です。これは元来、競争による「社会」という市場の流動性を担保すべき学力が、階級格差とその固定化という流動性の危機を招いているという事なのです。教育メカニズムに市場原理が決定的に欠けているために、このような「社会の流動性の危機」という信用不安を惹起しているのです。「間違えた競争」の仕組みが現行の義務教育ということです。
そこで教育現場という子供の世界の需給バランスの最適化を極力図ることで、後の競争という環境淘汰圧に十分に抗し切れる全般的な強さ(個人の強さ)を育て、この個人の強さをもってして社会での競争に望む。この「社会」という「市場」の流動性の担保のために教育バウチャー制度はあるのです。勿論学力は基本です。しかし基本となる学力の滋養に「理不尽な競争」は必要ではないということです…m(_ _)m
よって受験競争を生み出すに至った現在の義務教育では、競争の基準の公平性を担保する方法がないばかりか、したところで「競争する事」そのものに力点をおいているために無意味化し、よってどう運用しても子供の能力向上や国力増強には寄与しないということになります。教育はもともと社会で活躍するためのツールの一つに過ぎないはずなのに、いつのまにか絶対基準に成り下がってしまったことから逆にイノベーティング力が経年劣化する事態を招いています。教育というのは単に「個人の能力を高めるためのツールの一つ」に過ぎないのです。無学でも「やっていけるのならば、それでよい」のです。やっていけない子に「競争社会に巣立った時に、役立つツール」を授けるのか教育です。よって「競争」を教育の中に組み込んでいる時点で将来性は乏しいのです。
一言で言えば「楽しく学んでもらう」…たったこれだけとお考えください(^^)/
それも税金で、です(爆
いつも楽しく読ませて頂いています。
教育クーポン制は破綻しそうだと思いました。
制度を悪用できる余地が有る様に感じます。
①子供が『ポイント』を付与する。
→実際の教育者ではなく、モラルの無い親に自分の名前を書けと言われたら、大人と比較して判断能力の低い子供は親の名前を書きそう。
→ポイントで得た金を現金で、幾らかキックバックするから、自分が教育者したという事にしてほしい、というモラルの無い教育者がでそう。
②教育の民間委託
→実際には理解できてなくても、現場猫先生「よし、理解できてるな」、子供「先生がそう言ってるなら、たぶん理解できた」となりそう。
(今でも、一定数は居そうですけど……。僕は其のパターンでした)
作者からの返信
Rainab様…m(_ _)m
はじめまして。(でも)いつもご来訪頂きましてありがとうございます(^^)/
>教育クーポン制は破綻しそうだ
実に良いところに目をつけましたね…(・∀・)
正にこの後で話をしなければならない内容ですから。「よく気づいたなぁ…」と感心するくらいです。むしろ本気で読んでいただいたということに感謝しております。ではまずこの件ですが…
>制度を悪用できる
さすがの慧眼。正に仰るとおりです。「できます」。というよりも「やるヤツが必ず出てくる」のは間違いないです。必ず詐欺が出てきます。ワイが想定していたのはヤクザや半グレのようなヤツらが始める貧困ビジネスです。つまり子どもたちを沢山集めた後、一応、受業らしいのをしたあとでチケットクーポンをまとめて教育省に送りつけて、そのカネをいただき、僅かな分け前を子供らにくれてやる…というヤツです。おそらくこのパターンの犯罪は後を絶たないでしょう。しかも絶対になくなりません。いたちごっこです。それどころか…
>モラルの無い親
これも「必ず」出てきます。子供のチケットを食い物にする毒親が、です。これも必ず出ます。鬼のような親ですが、しかしなくなることはありません。その意味では「教育バウチャー制度によって全てが解決し、天国のようなハッピーな世界が現出できるわけではない」のです。
…m(_ _)m
そしてこれらの問題ですが、「教育バウチャー制度では解決できない」と断言しておきます。なぜなら教育バウチャー制度は「教育制度」に過ぎないのであり、モラルのない親などが引き起こす犯罪は「人間のカネにまつわる所業」だからです。悪党相手にはどんな制度も無力です。それは教育バウチャー制度も同じことです。制度はヒトの犯罪を裁くことはできても「辞めさせることはできない」のです。所詮、制度ではなくヒトなのです。
だからこそ本分にもあるように「少年法」が確立される必要があるのです。カネは人の心を映し出す鏡のようなものです。そしてカネに汚いヤツに心がきれいなヤツは一人もいません。なによりカネはヒトを迷わせる厄介者であり、しかも親でさえ子供のカネにたかるというのがよくあることなのです。親は子供を可愛がるものですが、これも「ある程度のカネがあって始めて出来ること」であり、実際に毒親のなんと多いことか…ということでもあります。肉親であれ他人であれ、子供からカネを巻き上げようとするクズがいるということなのです。大変残念で腹立たしいことですが…。
なので逆に「子供を法的な根拠をもって親を含めた犯罪者から守る」事が必要になるのです。ヤー公や半グレ共、または実の畜生な親から子供を守る必要があり、それは子供たちの未来を守るという事です(そして子供の未来とは国家の未来ということです…)。こうしたことから一時保護施設(児童相談所)のような場所が極めて重要になるというだけでなく、こうした施設や「子供が親や悪い大人」から安心して逃げられる安全な場所(シェルター)を恒久的かつ強力に多数設置・保守しないとダメということです。この「大人から逃げる」〜それがたとえ親からであっても、子供が自分の事を利用しようとし搾取しようとしている大人から解放されるべきなのです。どれほど小さくても子供は一人の人間であり、大人(両親)の所有物ではなく「権利」があるということになるのです。親と子供の関係はこうです。子供には生まれながらに権利がある。しかし自分でカネを稼いで自立することができない。ということは「放置」すれば子供は親の所有物に成り下がってしまう。これは奴隷化と同じであって、新自由主義的には受け入れられないのだから国家が子供を守る=「公共サービスの受益者に(税金を払っていない)子供も対象者とする」…ということなのです。このために国は税金を投入して子供を『毒親』や『クズな大人』たちから守り、子供の人権を保証せねばならないのです。この目的のために制度・思想的なバックボーンに「少年法(←ちな「少年」には法的には少女も含まれる)」があるべきであり、この物理的延長上(執行機関)として児相や児童シェルター、そして本来は「学校」があるべきなのです。
よって教育バウチャー制度における「公的な学校」の位置づけは「子供の避難場所」の意味合いが出てくるのかもしれません。現在の義務教育では子供は公的(=学校法人格をもつ)な勉強場所でしかないのですが、教育バウチャー制度では子供が糞親や養父・養母、親類縁者や、全くの赤の他人が子どもたちを支配し脅迫や恐喝する…これには子供を脅して犯罪教唆・実行や児童売春などが含まれる〜から逃げ出す場所へと進化するべきでしょう。なぜならこうした「保護施設」にはさすがに民間の場合、余程経営母体がしっかりしてない限り運営を維持するのが難しく、ならば公金を(教育チケットクーポン以外に)子供の衣食住の確保にツッコむべき〜それも十分な質と量を担保するためには「税金」という大きな予算が必要になってくるのです。この運営は教育チケットクーポンではなく、各地方政府の予算で決まるべき性質のものです。仮に地方政府が貧乏だというのなら国がやるべきことでしょう。全寮制の学校になるのかもしれません(親のない子たちのために…)。しかしこの全寮制寄宿学校(兼シェルター)においてさえなお「イジメ」や「不登校」になる可能性が十分にあり、当然「シェルターに逃げてきたけど、やっぱ学校でみんなといっしょにいるのは嫌だ」という子供の面倒も「みなければいけません」。当然です。このある意味「不登校児のワガママ」を適切に処理できるのは唯一、教育バウチャー制度ということです。「誰からいつどこで教わっても良い」のですから、この学校に入ったからと言っても「必ず教室にいかなければいけない」ということでは「絶対にない」のです。その場合、この公的な全寮制寄宿学校は「単なるシェルター」としての役割にのみ徹すればよいのです。要は「子供の安全なテリトリー」を確保するのが公共サービスの一環ということになります。
当然、児相などにいる子どもたち〜親と離れて一人、もしくは施設で大人になる子どもたちも「教育バウチャー制度によって、金持ちの子供と同じ学力を身に着け、社会でガチ勝負できる」だけの学力を身に着けさせねばならないのです。教育(=子供の期間)とは「大人という契約と競争の世界」に巣立つまでの大切な時間で、この時間に学力始め基礎力を身に着けておかねば社会に出て敗北死する可能性があるのだから、「全員が同じスタートラインに立って社会に送り出す」べきでしょう。この可能性は現行の義務教育では大変むずかしいものです。「教育支出」に関わる問題で、豊かな家庭の持ってる資本力(この場合は一人の子供に投資できる総額)の方が貧乏人や施設の子一人ひとりに投下できる資本力より優ることは現実から既に判ってることです。この場合、豊かでない子供の持つ能力や才能を「社会が無駄に捨ててしまう」ことになり、社会にとっても損失になります。
そこでこのような格差や立場によって子供という個人が不利益にならないようにする=社会のチャンスロスを無くすことが重要なのです。逆に言えば、このような立場に追い込まれた子供が、そうでない子供(両親に愛されて裕福に育つ子供)と全く同じ人生のチャンスをもたせることが出来る教育方法がバウチャー制度ということです。子供全員の教育費をワイら大人の税金で賄うことは「子供」という資産を活用するための方法論の一つです。
この他にも重要なのが「子供の権利を守る」です。むしろこの「少年法」の理屈は義務教育にはフィットしません。子供の権利とは本来、子供が自活できること…なのですが、実際には親に育ててもらうしか無いのです。このことからたとえば統一教会における献金によって家庭が経済的に困窮し、その子どもたちが悲惨極まりない状況に追い込まれる…というこの問題、「何処に問題があるのか?」を考えた時、実は統一教会は問題の本質ではなくて(でも統一教会はもはやこの世に残しておいていい組織ではないカルト)「子供が本来取得できたはずの生活費を取得できない」という「カネの問題」なのです。
この場合、こう考えることができます。子供が成人になるまでにかかる一切のカネは本来、子供が「稼ぐ必要がある」カネです。しかし実際には稼ぐことはできません。そこで「親が与える」という形にしている「だけ」という解釈論です。これは国が税制において扶養世帯に対しての減免措置を施していることから「国が認知し保証している」と考えることができます。子供が本来自活するだけのカネは、親に委託しているカネであり、全ての子供に基礎控除があると考えるわけです。なら親が子供に衣食住の環境を提供できない場合〜貧乏とか、家が統一教会の信者だったとかなど〜には、子供は本来取得できるはずの「資産」を「親に横取りされている」と考えるべきなのです。
この問題を解決する方法は一つで「親から切り離す」という事です。イジメで不登校をおこしている子供が「学校から逃げ出す」のと同じように「家から逃げ出す」必要があるということで、逃げ出すだけでなく「守る」社会的な環境構築も必要ということです。この環境整備を図る時、義務教育では「子供の立場」の不明瞭さから解決法の根拠となる考え方それ自体が出てきません。教育バウチャー制度は「子供の人格形成」という大義があるため「可能」となるのです。もちろん、このための「子供保護シェルター」でもイジメがあるでしょうから、究極は「子供が一人で自活する」ためのメカニズムが必要です。親兄弟や仲間に恵まれなくても、社会の構成要因の一人である事を担保する必要はあるからで、社会や集団に馴染めないのは「ソイツが悪い」では解決はしないからです。この「徹底して個人」という考え方を滋養するのが教育バウチャー制度です。
よって重要なことは教育バウチャー制度が「全ての問題を救済するバラ色ハッピーなシステム」ではないし「天国を作り出す」ことを目的としてるわけでもないという事です。要は子どもたち一人ひとり…集団ではなく「アンタ」という一人の人格をもった、たった一人の未成年を確実に救済して地獄のような状況を作り出さないことが目的なのです。
よって教育バウチャー制度でも問題は出てきます。しかし「皆で速やかに解決する方法論やツールも備えておく」ということが可能だから「推す」のです。義務教育のように学校が聖域化され、ブラックボックス化されたら、この中で発生しているイジメや暴力などの問題を見つけ出すことさえできません。これを「理不尽だ」と考えるのならば、義務教育よりも「少しはマシ」というだけでも教育バウチャー制度の方が「遥かによい」という風には思いませんか…(  ̄ー ̄)y-~~?
ちな、「子供らに税金投入しまくりで、マジでカネ足りるの…ಠ_ಠ;?」ですが「足りる」ための方法論はこの後の本分にて…m(_ _)m
面白い。
これこそ現代の維新にふさわしい内容だと思います。
正直日本の教育はラベルほど中身がないので。
ただ、先生の質を上げることも同時に必要ではないか?
現状の単なる教師や経営者や天下りの人々の為の金や知識の流れではなくご指摘のような対価を確実に子供たちが享受出来る体制にするのが肝要かと存じます。
作者からの返信
カクカイ様…m(_ _)m
いつもありがとうございます
この内容なのですが、実は70年ほど前から言われていたことでした。その意味では意外と古い内容です。蒸し返したのがフリードマンで、彼の言った内容がこの教育チケットクーポン制度です。しかしフリードマンの言動を見てみると(ヤツの著書『資本主義と自由』)結構ブレてると言えそうでした。
「教育現場に市場原理を導入する」と「チケットクーポン制度」は彼の提言です。正直、良くわからないのは「私的な学校に対しても補助金を出すための方法」という事のようで、詳細なメカニズムの検討があったとは(ワイは)思っていません。フリードマンは確かに公教育を全廃すべきと言っていて、それどころか医者になるための国家試験のような「極めて専門性の高い教育と国家資格が必要」とされることでさえ「国家資格不要」と言い切っています。薮医者だったらどうするか?…に関しては、「薮医者は裁判で訴えられて、いずれ消えてなくなる」「医者になるのに多額のカネがかかるので、結局、ボロ儲けしている医者の息子しか医者になれず、むしろ差別」「国家資格を持っていても、所詮、ヤブはヤブ」という事で、ワイもそうは思うものの「それでいいのか?」は正直、わかりません。
ワイが考えるフリードマンのチケットクーポン制度の問題は「学校にチケットを配る」という考え方の方です。1950年代の問題は公教育には税金が使われ、そうでない所はカネ持ってるやつが私学にいく…みたいな感じで、子供にかけるカネのバランスが著し不平等だった…という背景があったために「学校にカネを入れる」という考え方になったようです。
しかし現在は「子供の貧困」がメインであり、それは日本を始め、国は豊かな先進国なのにその国の生徒たちはカネがなくて死にかけている+イジメや不登校という「個人の問題」が焦眉之急となってることで、この「個人」をどう救済すべきか?…という時に「学校にカネを入れれば解決」ということには「ならない」わけです。よって相手がフリードマンであろうとも「時代遅れで、間違い」と断ずるべきです。しかしそれでもフリードマンの言説を追うと「義務教育=公教育の廃止」とは述べてはいますけど…(^_^;)
ワイが調べた所、ほぼ全ての教育バウチャー制度が「大失敗」していますが、その失敗の根本原因が「学校に貧乏な子供を集め、この学校にクーポンを配る」というやり方にこだわっているからです。そうではなく個人にチケットクーポンを配る…から始めねばなりません。問題の本質は「生徒」という「個人」の単位であり、この単位の「自分が勉強するのに使えるカネの総量が足りない」ことが問題だからです。子供に直接教育給付金を出す…でなければ成功などしません。よって世界中の試みがほぼ潰滅しています。オランダが少しマシと言われていますが、それでもオランダの教育水準が世界最強という話もきいていません。つまり失敗です。
ワイ的には大阪府知事時代の橋下徹の教育バウチャー制度が唯一、「及第点」と考えていて、これは公的学校の他に塾などの私塾に通う場合、カネがないなら大阪府が資金援助する…という形でした。成功したかどうかはわかりませんが、「はじめの一歩。残りは999歩」という事では良かったと思っています。子供(家庭)に直接カネをツッコむという着眼点と、義務教育の廃止に先鞭を付けたかもしれないという意味からです。
実はワイが思うに「日本の教育の歴史と伝統」こそ正しいと思っていて、要するに日本は私塾や「公的学校」〜この場合は義務教育ですが、コレ以外の教育機関の水準の高さが日本を支えてきたのだと思っています。後の「寺子屋」とグルッと一まとめにされる民間のみの教育です。この寺子屋はそれこそ浪人やらなんやらが勝手に始めて、勝手に子どもたちが通ってその親がカネを払っていた…という「無資格教育」ですが、この「もぐり」の結果、どうなったか?…と言われれば元禄文化や文化文政時代の独自の華やかな文化を生み出す土壌になっていたわけで、「国に頼る必要など、日本人にはそもそもない」ということの良い証と思うのです。実際、ワイらも「政府に期待するものはない」と常に考えていて、これは戦前でさえそうでした。日本にはナチス・ドイツの頃のような強い「民衆からの(政治的な理想の追求の形での)突き上げ」がなく、大抵は物価高の時に激しく暴れる…というだけの国です。そもそもの政治思想がほぼ全て中国か欧米かの理屈であり、ワイらは始めから強い政府や統一した思想など「ない」のです。もちろん、雄藩による藩経営の学校はありますが、当然、全ての子どもたちを対象としたものではなかったわけであり、逆にいえば義務教育による「全ての貧乏人を含めて高度な教育を施す」という試み自体は「素晴らしい」ものであったことは否定しませんが、「もう限界」というだけのことです。
ブレイクスルーする必要があるのなら、「したらいい」というだけのことです(^^)/
何のことはないのです。教育バウチャー制度とは、別の言い方をすれば「全ての教育機関が、全て国から補助金のでる公的な教育機関となる」と事と考えても(間違えているけど、まずは)OKです。全部の学校・サポートシステムを公教育にする…みたいな感じです。しかし実際にはこの真逆で「全ての学校を民間として公教育を失くし、その代わりに全ての学校・サポートシステムに公金を払うようにする」という事です。鏡写しの関係です。ただし「虚像が義務教育」というだけのことですよ(^^)/
>先生の質を上げること
これは逆です。「勝手に教師の質が上がる」のです。まさに予備校で起こっていることです。人気のある先生はタワマンに住めます。よい受業をすることで子どもたちが「この先生、頭いいなぁ〜」から多数の生徒が集まれば、その教師は人気に合わせて給与が増えます。さらにテレビなんかに出て、知的なコメンテーターになることも可能です。これが公教育の先生もやれるようになる…ということです。ならいつ教育バウチャー制度をやるべきか?
「いまでしょ!」
この「日本ではおなじみ」のメカニズムを全ての学校教育に当てはめれば良いだけです。安くてよいのなら、規模が拡大するということです。そして次々と新規参入するのです。なので新規参入を阻むような「資格制度」は完全に辞めるべきです。予備校の先生になるのに特に何かの資格が必要とはされてないように…です。竹中平蔵の改革〜いわゆる労働の自由化というのがなぜ失敗したかと言うと、「資格制度」や「労働の流動性」の前に「カネのメカニズムへの考察」が足りてなかったからです。ある経済活動領域における、個々の事例の検証と資源の最適化を十分に検討せずに「投網をかけるように、大雑把に」労働環境の自由化などしても成功するわけはありません。多様性とは「個々バラバラ」ということであり、ならばその一つ一つのメカニズムを解析してからでないと対応策などないのです。専門性への検証不足は対処能力の欠如と間違いをもたらします。
そして教育現場に関しては「既に塾や予備校という、長く続いたメカニズム」があり、この検証結果が良いことのほうが遥かに多いことを考えれば「使うべき」ということです。予備校は戦争における「傭兵」のようなものですが、傭兵の戦略・戦術を正規軍に指導しろ…という事になるのかもしれません。とはいえワイは軍人ではなく、また軍事に関しては素人なので(自分で言っといてなんですが)この考え方には賛成できません(爆)。「全く逆」と考えていて、予備校のような民間学習環境こそ本筋ということです。この教育で最も大切なのは「国がなんとかしてくれる」もしくは「国が悪い」という考え方を「辞める」脳みそを作り出すこと…ただこれだけですね
編集済
とても興味深い提言ではあります。
ただ、教育の肝心な部分を忘れているのでは。
「国家の道具としての近代人に洗脳する」
兵士として、特に第一次大戦前半の、機関銃を向けてくる敵陣に横一列で行進する、有名な詩にあるようにいかなる疑問も持たず死ぬ兵士。
同様である、一切自分では思考しない、フォードラインの人間機械。
それを作り出すのが近代教育の目的であり、それこそ九九もできなくても行進だけでもいい…
学力が目的であれば、年齢だけによる進級卒業などという狂気の沙汰はないでしょう。それこそ公文式と達成テストだけでいいはず。
いじめや暴力も、機能を客観的に見れば、「上級国民に、人間を奴隷化する訓練をさせ、良心を捨てさせる」…スパルタ市民が奴隷を殺す通過儀礼と同様とも考えられます。
まあ現実は、人間がいらない時代になってる気がします。
徴兵歩兵もライン工もいらない。そして十数年前からは、天才もいらない…
その時代にふさわしいのはどんな教育なんでしょうね。犯罪が減っているから成功…
僕個人はとにかく天才を育てて科学技術水準上げることを優先してほしいです、今の科学技術だけで人類文明が永続するのは無理だと思っているので。
作者からの返信
ChicStone様…m(_ _)m
いつもありがとうございます(^^)/
>教育の肝心な部分を忘れているのでは
…いやいや(^m^)
ChicStone様も「既にご存知」ではないですか(^m^)。つまり…
>国家の道具としての近代人に洗脳する
…のが、現代人にとって「時代遅れでふさわしくない」ということを(爆)
そういうことです…m(_ _)m
今まで散々税金とって年金とって国保とって病気にもならなかった挙句、戦争に駆り出されて死んでしまったら「人生丸々大損」ということです。「なんでワイ、国のためにこんなに頑張ってあげたんだろ?」…くらいの感じです。なのでワイが全人類の王となるべきと、結構本気で思うくらいですね(爆
戦争なんかしたくないのはそういう事です。ワイは日本が嫌いなパヨクではありません。だから滅多打ちにしてるわけですが、ワイが言いたいのは「中国の習近平さんも、ワイと同じように考えろ!」ということの方です。戦争は相手あってのこと。こっちから仕掛けるつもりは「ない」のだから、向こうも「しかけんな!」という事です。そもそも1000万人も格安航空機で日本に来てる時代に、わざわざ揚陸艦使ってノコノコこっちくんな…というわけです。こんなのを生み出すのが義務教育なんですよ。アホらしいわけです(^m^)
>公文式と達成テストだけでいいはず
だから、そうしましょうよ(^^)/
文科省だってそっちの方が楽なはず。仕事が減るわけですから。あとはノンビリ統一教会の宗教法人格付けでもやってたらよいのでは?(挑発…
>その時代にふさわしいのはどんな教育なんでしょうね
教育バウチャー制度です。これ一択です。他はないです。ただしおそらく、今以上に本気で勉強しなきゃならなくなるとは思います。しかし日本の子供に関して言えば、他の国の子よりも遥かに意欲的と思います。かなり真面目なんですよ。むしろ息苦しいんじゃないですかね? だったら真面目に勉強でがんばった分、よりよい成果が彼らの手元に転がってくるようにしてあげたいものです。
>僕個人はとにかく天才を育てて科学技術水準上げることを優先してほしいです
ワイも似たような感じではあるのですが、天才だけで社会が回ることはなかったので、ごく普通の才能のない一般人(我々)の「知性の底上げ」が一番重要と思います。野村監督が生きていた時に言ってたことなのですが「遠くに飛ばせる・速い球投げるは天性。ソイツらばかりだったら一番良いけど、実際には人材は集まらない。なら平凡な能力の選手をどれだけ底上げできるか?…が重要」と。多分、そういうことだと思います。それは教育バウチャー制度の方がよいということですよ。
そもそも入試試験がフェアなんてのは「寝言」だと思うんですけどね。なにしろ、合格・不合格の人間にテストが返却されるわけではないのですから。その点数があればまだ納得できるでしょ? この情報、ちゃんと大学は開示しないと(命令)
普通の学校の時、テスト、先生が還してくれるのだから。なぜ大学入試では殺らないんでしょうかね? 東京医科大学の皆さんに聞いてみたいものですね。ちなワイの意見は単純で「試験で選ぶのならば、上から順に採っていけ」…終了です。てか慶応大学みたいに分かりやすい大学もあるんですけどねぇ…(謎
とはいえ、この教育バウチャー制度はどうしても皆さんに理解してもらいたい話ではあるので、これからも討論を続けていきたいと思っています。どうぞ、よろしくお願いいたします(^^)/
これ評論としてではなく、二次創作としてでもなく、本気でハヤカワか創元の短編賞に送るべきだと思います。SFより先に現実をなんとかしろという問題はともかく。すべての物語にはテーマが必要ですが国家と世界が成長するためには未来を語る物語が必要です!マジすごい。
作者からの返信
師匠、ありがとうございます…m(_ _)m
そうはいっても、ワイは小説とか物語を書く才能は全くないものでして…(^_^;)
よかったら、使ってみませんか?(爆
小学生のいる友達が、かかりきりになって中学受験の勉強させてて、理由を聞いたら、公立の中学校が荒れてるから、ということらしいです。
ネグレクトみたいな子がたくさんいるらしく、常識が噛み合わない。だからそうじゃない子はみんな受験して他の中学に行き、ネグレクトのような子だけが公立に残る、ということになってるらしいです。
人間の手でどうにもならなければコンピューターに頼る、ということになるかもしれない。でもその先にあるのは何だろう。生きるために生きてる、的な。
作者からの返信
月森様…m(_ _)m
アメリカでのお話、非常に興味深く伺っております。物凄く勉強になっています。とはいえ、いまの米国の状況を鑑みれば「真実」を語ることさえ命がけ…というのは、なんというか、この…言論の自由の国だったのに左翼というヤツらは…(以下略
>荒れている
これ、日本の話ですかね…( ⚭-⚭)?
確かに「ありえる」話のような気もしています。北九州とか大阪とか川崎のあたりだったら、まだ有ってもおかしくないかな?とは思いますね。
外国だったら「そりゃ、そーでしょーよ」とは思います。月森様もそうなのですが、外国で子供を育てる時には「学校に苦労する」か「カネに苦労する」かのどちらかのような気がしています。アメリカ、大学に四年で3000万円って、どーいう世界なんだろ??と??