§3-1-3・日本は『信頼』の国〜そして国家の信頼を取り戻すための決断=『超緊縮策』

 敗戦直後の日本の状況は、圧倒的に絶望的だった。

 1946年の段階、つまり終戦直後の新生『日本国』の状況は、極めて絶望的だった。

 国家予算の70倍を超える債務が残った。その債務を返済するための産業基盤が全くないことが致命的だった。国家を支える予算の捻出のメドが無くなっていたからだった。

 当時の大蔵省の計算によれば、歳入は100-120億円程度とされた反面、歳出は170億円を越え、しかもその半分近くは国債の利払になるという試算だった。この時、日本はGHQからの命令など全くない状態で、自分たちで未来を切り開く決断をする。

 彼等はこう考えたようである。


1.国債の負債分は国民に返さねばならない。っていうか、返す!

 なぜなら苦しい戦時中、日本国のために国債を買ってくれた人達への信義があり裏切るべきでは絶対ないからだ。この信用こそが新生日本の最重要項目であって、信頼なくして国家は成りゆかない。そのためにはなにがあっても国債の償還と利払いは行う。


2.なので、途方もない増税を行う。その方法はタブー中のタブー・『預金税』とする。


3.外債も時間をかけてでも返す。国民のカネで。



・・・つまり、ウルトラ緊縮財政と気違い沙汰のハイパー増税という手段だ。理由があったようである。


  ※     ※     ※


 彼等には一つの疑念がよぎったはずである。第一次世界大戦で敗北したドイツの事例だ。

 前回述べたように、ドイツでは戦後、物価が1兆倍もの、とんでもないハイパーインフレに陥った。この時の状況はこうだ。1918年次のドイツのGNPは525億マルク、国家予算は70億マルクの時に、戦時負債が(第二次大戦時のアメリカと同じ比率の)対GDP比で350%程度。これにヴェルサイユ条約による賠償金が1320億マルク乗っかったということだから、トータルでの最終負債は対GDP比で5.5倍程度だ。


 しかしこれは日本の敗戦時の8-8.5倍よりも実は『少ない』のである。

 逆の言い方をすれば、ドイツと同じような手をうてば、戦後日本も物価が一兆倍を遥かに超えるハイパーインフレになるということを意味していた(現実には300倍程度)。戦後の日本はドイツよりも、さらに圧倒的にひどかったのである。


 では第一次大戦後のドイツでなぜ1兆倍もの物価上昇が起こったのだろうか? これは金融面での失敗だと考えるべきだ。単純に「足りないんなら、足りるだけ輪転機をまわせばいい」とドイツ中央銀行が考えたからのようだった。大量にドイツマルクを刷りまくったのである。なんの財政・金融的裏打ちもなく、である。筆者が言うところの『悪性のインフレを招く』悪手だと述べた『引き受け』という紙幣乱造政策である。


 どうしてこんな無責任な手を打ったのかは、実はよく判らない。ハイパーインフレが起きることは誰にも予想できた。なので、がった見方をすれば、ハイパーインフレにフランスも一緒に巻き込んでやろう・・・くらいの気持ちだったのかもしれない。死なばもろとも、である。


 結果はある意味、逆であり、外貨フランと金が急激に上昇した。ドイツマルクから資本が逃げ出した。特に為替は真っ先に反応する流動性の高い資産だ。インフレ懸念の時には、外貨購入が吉ということだ。逆に株価の上昇は鈍い。ドイツ国内産業は衰退する。このギャップがこれまたハイパーインフレに拍車をかけた。

 とはいえ、途轍もないインフレは国家債務の激減をももたらす。債務がマルク建てであれば、何度も述べたように『通貨=国債』なのだから自国通貨の暴落=国家債務の激減となる。国債の価値が大暴落するからだ。


 この実に荒っぽいやり方で国家債務を激減させたことで資産と負債との間で均衡が取れるようになった。ドイツのハイパーインフレはおよそ五年ほど続き、1923年に土地を担保としたレンテンマルクの導入で収束した。

 ただし庶民生活は木端微塵になった。特に貧乏人は悲惨この上ないことだったろう。

 この時、よく言われたのが「ドイツのハイパーインフレはヴェルサイユ条約の過酷な賠償金のせいだ」と言うセリフだ。確かにそうかもしれない。しかし英国とて第一次大戦後の戦時負債はGDP比で400%にもなっていた。敗戦国ドイツ以上の負担を強いられたのである。そう考えると、実はヴェルサイユ条約の賠償金はそんなに酷いものでは無かったのかもしれない・・・。


 厄介なことは、日本の敗戦時はこのハイパーインフレのドイツよりも更に状況が悪かったということだ。これだけ悪いと、仮にヴェルサイユ条約のような『天文学的な金額の賠償金』が課せられたとしても、実は『大した違いなどない』くらいの酷さだった。

 だから、よく言われているように「日本の復興の時には幸運だった。多額の賠償金を戦勝国に払わなくて済んだ」というのは『間違い』であることに気づく。払うことになっても、多分、同じだ。少々『上乗せ』させられても違いなど無いくらいに、分母がベラボーに大きかったのだ。


 なにしろ敗戦直後の日本は、第一次大戦時に敗北したドイツよりも圧倒的に悪い。国内産業は壊滅し、資源もなかった。輸入するにも船舶はなかった。軍民合わせた死者は240-300万人。家屋の1/4が消失し、生産機械の30-35%を失った。船舶に至っては80%が沈んだ。生産設備がなにもないのである。住む家もないほどだ。

 それに比べ、第一次大戦の時にはドイツ全土は焦土にはならなかった。ダイムラーは生きていた。ベルリンは戦禍に晒されなかった。主だった戦場はフランスだった。フランスの東側半分は丸焼けになっていた。ドロと塹壕と着弾痕だらけであり、月面のようなクレーターだらけだった。フランスは、この分の負債をドイツに請求したに過ぎないのだ。過払い金の可能性など、ない。


 もっと言えば「賠償を払わなかったから日本は復活した」のでも『ない』。

 自分たちの『血を吐く努力』で復活したのものだ。


 実際、日本でのインフレ率も酷いものだった。日銀調査によれば1934-1936年の消費者物価指数を1とした場合、1954年は301.8となった。つまり、18年間で物価が約300倍となったことになる 。経済学者の伊藤正直は、1934-36年卸売物価が、1949年までに約220倍になったとし、1945年の水準からみて1949年に約70倍というハイパー・インフレとなった、としている 。なお、この部分はwikiペディアの丸写しだ。ちなみに筆者が大学生のときに習った数字はもう少し控えめで、同時期の物価は180倍とされていた。ただし、ここではwikiに従ってみた。ちなみに伊東正直氏は有名な経済学者で近年、よく使われる。過去の歴史は現代史。最新の資料に従ってみた。


 日銀調査では戦後五年後の物価は戦前に比べて300倍もの上昇を見ていた。これは途轍もないインフレだった。しかし1兆倍ではない。我々の先人たちは、血を吐く努力で『この程度に』押さえ込んだのだ。


 その方法とは、第一次大戦でドイツがとった方法とは真逆の方法だった。紙幣の大量発行の逆だ。つまり、焼け出された国民の財産をぶったくって、そのカネを新生日本の予算的裏打ちとする・・・という、およそ普通なら考えられない決断だった。死体から剥ぎ取るようなものだからだ。通常の国家の状態だったら絶対に許容されないだろう。しかし、この時は非常事態だった。結果として、インフレ率は『わずか300倍で』終熄できた。また、戦後復興のための資本の蓄積が可能となった。


 つまり日本国国民が祖国のために、文字通り全財産を提供したので(正確には国民全財産の10%相当なのだが)日本は復活したのだ。大変な犠牲だった。

 しかしこれで日本国は『信頼』を取り戻すことが出来た。結局、国家債務は誰かが負担しなければならない。大抵は国民になる。残念だが。

 そしてこの厳しい政治決断を行い、債務返済を断行すればその国家への信頼が戻る。無責任に大量に紙幣を刷ってインフレを起こした国家よりも、『どんな時でも国家運営を投げ出さない』国家・国民の決意を信じるのは当然のことだ。

 それは現在、日本がGDP200%の債務を抱えてなお、危機にあっては円が上がる〜つまり円の価値を信じている人たちが世界中にいるということの担保にもなっているくらいだ。アルゼンチンには不可能な事だ。


  ※     ※     ※


 では次回から、その具体的な方法論について述べる。

 それは禁じ手中の禁じ手・『預金税』というやり方だ。一般に言われている『預金封鎖がヤバイ』という理屈にもなる。預金封鎖は時に、この預金税のための前段階として使われることがあるからだ。

 当時の日本のとった預金税・『財産税法』について詳しく見てみる・・・m(_ _)m

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