春一番-参-

 立春を迎えてから大分日が経つが、未だ冬の寒さは消えそうに無い。洗濯日和と言う可き快晴の今日は、空の蒼さを反映させて普段より一層冷え込み、着流しに羽織、さらに半纏と三枚重ねの着膨れた格好で縁側に出た。日曜の午後は此処で読書をして過ごすのが定番である。

 日当たりの良い場所を選んで座布団を敷き、胡坐をかくと、何時もの如くこの家の飼い猫が上に乗ってきた。名をきな子と言い、非常に気立ての良い猫だ。体全体が温かみある黄粉色をしている。

 大人しく眠るきな子を膝に乗せて草子を眺めながら、自分もうつらうつらと夢現つになっていると、突如近くの障子がすうと開けられ、誰かが何度と無く部屋を出入りする音が聞こえた。顔を上げると此の家に住み込みで働く家政婦、瑠璃子さんが見事な青磁の壺を抱えて中庭に降りている処だった。

--そんな壺を抱えて、何をしているのです

 声を掛けると瑠璃子さんはふと顔を上げてこちらを見、まぁ七弥さん、と声を上げた。

ーー今日は春一番が吹く日だそうですよ。ですからこうして、壺や花瓶を風に晒すべく外に出しているのです

--それはまた、どうして

--入り口の狭いものにはどうしても、淀みや邪気が蓄まるでしょう。それで無くても冬は邪気の蓄まりやすい時期ですのに。春一番の風にはそういった良くないものを吹き払う力があるのですよ

 そう言いながら瑠璃子さんは壺の口が南に向くように横倒しに置き、縁側へと戻ってきた。そのまま障子張りの一部屋を大きくがらりと開ける。

--濁り気は部屋にも蓄まりますから、いっそ先生の部屋も風に晒してしまったほうが良いのかもしれません。…七弥さんの部屋はどうしましょうか

--私の部屋は紙や本が多いから、風晒しにするのは少々…

 瑠璃子さんは承知しましたと頷き、どうかお時間があれば壺を出すのを手伝ってくださいまし、とも言った。家中の壺や瓶を中庭に出すつもりらしく、女手一つではそれは大変なことだろう、私は快く引き受けた。


 家にある壺類を全て出すには大層な時間を要した。何せ先生の家は収納している骨董の数が多い。壺を出し始めた頃には真上にあった太陽が、西日を差し始める頃に漸く全てを中庭に出し切った。ずらりと並べられた陶磁器や焼物の数々の姿は圧巻であったが、またこれを逐一元の場所に戻す事を考えると眩暈を覚える。暫くあの形をした焼物の類は見たく無いとすら思えた。

 瑠璃子さんはお陰で助かりましたわ、と言いながらまた屋内に上がってくる。次は夕食の準備に取り掛かるのだろう。厨へ通じる廊下に行ってしまう前に、七弥さん、と呼び止められた。

--このまま居ると風に当たってしまいます。春一番は晴れの風ですから体に障りは無いでしょうが、目にゴミなど入ってはいけませんから、どうか中へ

--いえ、私はまだ暫くここに。それよりこの壺達はいつ中へ入れるのです

--あぁ、それは…

 言い掛けて、しかし瑠璃子さんは口を噤み、其処にいればじき分かりますわ、と言い直してくすりと笑った。珍しいことだ、瑠璃子さんが笑うことは滅多に無い。

 暗くなる前には中にお入りくださいましね、と言い残して彼女は屋内へと消えていった。毎日家事に炊事に、大変なことだと思う。きな子が軽い足取りでするすると後を追ったのは、あれは料理のお溢れを貰うのだろう。

 気を取り直して私は草子を開く。休日午後はこの場で読書、この習慣は出来るだけ変えたくなかった。例え最早昼下がりとは言えない時間帯でも最低一章は読んでおきたい。こうして定期的に読書の時間を捻出しないと読みたい本が貯まってしまう性分なのだ。

 そう思って没頭しかけた読書だったが、1頁も読み進めることが叶わなかった。俄かに風が吹き始め、少しも経たないうちに本を開いていられない程の強風が吹き出したのだ。庭の枝下桜や楓がミシミシとしなり、椿の生け垣などは葉を散らしながら騒ぎだす。

―やぁやぁ、音に聞け、音に聞け

 突如辺りに大声が響き渡り、何事かと見渡せども近くに人など全くいない。そもそも不思議なことに声は上から降るように響いていた。

―我は風神が一の眷属、春一番なり。此度も我らが主上に捧げ奉る障気に妖気、貰い受けるぞ、貰い受けるぞ

 そう言うや否や、庭中を突風がごうっと駆け抜けた。あまりに強い風に目を開けていられず、思わず袂で顔を覆うように庇う。右手に持っていた草子が風に煽られて手を離れていくのを感じた。

―花鬼よ、今年も此家が妖の糧、確かに貰い受けたぞ、貰い受けたぞ

 より一層大きな声がわんわんと響き渡り、風は少しだけ弱くなる。恐る恐る目を開けると私の草子がくるくると回りながら上方に昇っているところだった。おい待て、誰だか知らぬがそれは俺の物だ。返せ、と咄嗟に声を張り上げる。

―何かと思えば人の子、愚か也。口を閉じ目を閉ざし、音に聞け、音に聞け

 また再び、どっと風が吹き荒れ、反射的に目を閉じる。容れ物は返す、草子は後に貴殿が友に。びゅうびゅう大きな音を立てる風に紛れてそんな声が響いた気がした。

 時間にしてみればあっという間かもしれぬが、しかし体感するには随分と長い間、風は吹き荒れていた。ようやっと強風が収まりだしたところで目を開けてみると、確かにそれまで庭にずらりと並んでいたはずの壺や一つも無くなってしまっている。ついでに矢張りと言うべきか、草子は何処にも見当たらない。

 何が起きたのか理解できず、混乱した頭でふらふら庭に降り立つと、壺を並べた始点の所で何かにこつんと足先が触れた。視線を下げてみればそこには小さな福寿草が一つ、可憐に黄色い花を咲かせていたのであった。

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怪訝徒然草紙 @82kojin

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