琴弾娘-弐-

神社の神主の次子だという友人がいて、そいつの家で酒でもどうだと招待された。二三日前のことだ。招待と言えど彼の部屋で一献酌み交わすだけの、気楽な酒飲みのことである。とはいえ手ぶらで参上するのは失礼だと思い、錦市場で手に入れた甘露煮でも持っていってやることにした。


 日が傾き、木々も家々も夕色に染まる時分に家を出た。左大文字は影に隠れて山全体が暗い色、しかして空の橙色とは見事な対比を為している。表通りに足を踏みだすと、ざぁと風が一吹き駆け抜ける。思わず身を竦めたが、冷たい空気に仄かな梅の香が混じっていた。嗚呼春が来ているのだと確かに感じた。天満宮の白梅は満開の頃だろう。


 夕陽のさして山の端いと近うなりたるに。その一説は秋を象徴する名文であったが、日暮の切なさは春秋分け無しと思った。傾いた太陽が山へ御身を隠しながらも暖かな光を煌々と天に放つ。生命最後の灯のように、厳かに陽は燃える。然して天空の頂点から夜の帳は下りてくる。日のいと聖なるを嘲笑うように空気までもが冷え冷えとしていく様は、何処か切ない。


 そう考えながら歩くうちに西大路を曲がりて今出川通りを進む。千本通りと交わる十字路を南下、入り組んだ細道を二、三というところ。友人の家はもう目前、三軒の家を過ぎた先に見えている。


 気の緩んだところを風がまた一吹き、どうと鳴った。慌てて目を瞑り砂埃をやり過ごすと、風音のなかから微かに、きんともきゃんともつかぬ音が一つ。辺りを見渡すと向かいの家の窓から灯りが恍々と漏れている。また一音、きゃん、と音が聞こえた。どうやらこの家で誰かが楽器を弾いているらしい。音の様子からおそらく琴だと思われる。


 琴の弦は繰り返し繰り返し、四つの音を奏でている。きゃん、きゃん、きゃん、きゃん…さ、み、し、い、さ、み、し、い………いや、かな、し、い。たった四音の連鎖なのに哀愁や悲恋を思わせる切ない響きだった。家から漏れる灯りのもとに近寄り、もっと良く聞こうと耳をそばだてる。か、な、し、い、か、な、し、い、か、な、しい、か、なしい、かなしいかなしい悲しい悲しい………


 ぎゃんっ、と不意に、強く大きい音が鳴り、同時に家の灯りがふつと消えた。驚きながらも窓から中を覗こうと試みたが、格子に阻まれ中が見えぬ。暫く家の周りをうろうろと歩き回って様子を見たが、この家からはそれっきり、何の音も、人の気配すらしなかった。さぁと唐突に吹いた風が先程よりも格段に冷たくなっている。ふる、と体が震える。どれ程長い事私は琴の音に聞き惚れていたのだろう。もう夕陽はすっかり沈みきったか、路地裏は仄暗く寒々しかった。兎に角この家の事が気がかりだが、友人を待たせているのだと我に返り、私はせかせかと三件先の友人宅へと向かったのだった。



 酒を飲みながら友人にあの家や琴の音の事を聞いてみた。友人はまずは私に琴の善し悪しを解する趣情があることをからかった後、急に真顔になり、その家は今は空き家の筈だとぼそりと言った。

 五年ほど前まで、小さいながらも成功している反物屋の一家が暮らしていたのだそうだ。首都が東京に移ってしまってからは商売もさっぱりになってしまい、あの家で無理心中だったということだ。

 末の娘は未だ六歳で、琴を習い始めたばかり、大層気に入っていたのか死んでも琴を手放さなかったそうである。

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