そのたとおなじ
JUNK.O
そのたとおなじ
ひとをころしてはいけません。もりをやいてはいけません。
ペケペケペケペケ、音を立てて本分を読み上げる。
ペケペケペケ、『そのたとおなじ』という題の音声絵本。
ペケペケ、太陽電池で駆動する『そのたとおなじ』は、
今日も忠実に本文を読み上げる。
暖かいなぁ。木漏れ日を浴びて知恵猫のアルは伸びをした。
ひとって奴らを見なくなってずいぶん経つけど、
それからなんだか空気がおいしくなった気がするなあ。
アルはあくびをしながら一本の大樹に寄り添っていた。
この木といると落ち着くし、『そのたとおなじ』は何度聞いてもあきない。
アルは大樹で爪を研ぐ。木の肌にパリパリと音を立てて。
それから、大樹の陰から飛び出してきたトカゲを追って木の周りをウロチョロした。
今日も主人の木に異常はなし。
なぜならみんな、その他とおなじなのですから。ペケペケペケ。
『そのたとおなじ』は短い絵本で、
これと主人の残した音声レコーダーを聞くのがアルの日課だ。
最近、この辺りにも猫が増えた。そろそろ彼らにも聞かせてあげたいな。
アルは後ろ脚で耳を掻き終えると、器用な前脚を使って
主人の残した音声レコーダーのスイッチを入れた。
やはり太陽電池で動く半永久型の音声レコーダーだ。
この木の周りは娯楽で溢れている。
『そのたとおなじ』、音声レコーダー、ときどき出てくる小動物。
みんなにも教えてあげなきゃな。アルは丸くなると、
懐かしむように主人の声へと耳を立てる。
◆
拝啓、お母様。あなたが亡くなられて七年経ちました。
私はまじめだけが取り柄に生きてきました。晴れて統合情報管轄局員になりました。
世間には全く表沙汰になることのない、しかし重要な国の仕事です。
母さんは知らなかった事だと思いますし、
これは国民の中でもごく限られた人間しか知らないお話です。
数年前に我が国が事実上の鎖国状態になってからずっと、
世相はインターネットが支配しています。
母さんもインターネットは毎日欠かさず確認してましたね。
実は、あれこそがこの国の中枢だったのです。
この国の重要な事項は、報道で流されている事に限って言えば
全てがまるでいい加減なでたらめなのです。
報道が語る真実は、バラエティと教育と、一握りの事くらいだけでした。
敢えて誤った情報を流し、報道に対する反感を抱かせて、
インターネットで世相を操るのです。
匿名、非匿名に関わらずウェブサイト上には、我々局員が監視を行っています。
鎖国状態にあって他国との文化交流が認められたこのインターネット上も、
実のところは嘘まみれです。
我々、局員は政府の指示に従ってインターネット利用者を扇動します。
そして国は政府の思ったとおりに機能する、
こういうからくりとなっているので御座います。
実にお粗末極まりないですが、我が国は実は一人の男が操っているので、
仕方のないことです。
それではまた、この件については次の機会にお話します。
◆
拝啓、お母様。あなたが亡くなられて十余年経ちましたっけ。
本日付けで私は統合情報局長の地位に就かせていただきました。
昔、我が国の中枢部が、空気を読まない一国の『ミサイル演習』で消滅しましたね。
私が生まれる前の事なので詳しい事は知りませんが、
あれ以来、奇抜なファッションが流行ってます。
最初は放射能避けのマスクだったはずなのですが、
いつか全頭を覆うものに変わってました。
母さんの花柄のマスクはかわいかったと思います。
私らの世代は生まれながらにしてマスクを被っているけれど、
どうにも馴染めません。
表情が伝わってこないというのは、なんとも気味が悪いものです。
他人が何を考え、何を感じているのか、私にはいまいちピンときません。
だからこそ、インターネットでの関わり合いを求めたのかもしれません。
さて、本日はこの国を裏から支配する一人の男、
豊田大輔について語らせていただきます。
これは本当にこの国の中枢と、一握りの人間しか知らない事実ですが、
例の『学会』の会長であるあの男は、
圧倒的なカリスマ性でもって我が国を裏から操っています。
あなたの夫であり、私の父であるアレも、
あの男のカリスマ性に操られた哀れな人形と言えるでしょう。
仏教の教えをベースに独自の道徳観を用いた『学会』の思想は、
百年近くこの国の裏で暗躍しています。
健全な考え方なのだろうとは思いますが、やっぱり私は嫌いです。機械的です。
だから、私の父であるアレも、
機械的に労働を行うという事しかできない人間だったのでしょう。
母さんは知らずにお亡くなりになられたと思いますが、
実は父は、アレは、『学会』の会員です。
実はあなたが亡くなった後でかなり揉めました。
父は仏教系の、『学会』の管理する墓に入れると言いました。
私は、母さんの願ったとおりに、遺灰は海に撒くと断固反対致しました。
結局、いまも母さんは、
あの気味が悪い『学会』の管理する墓地に埋葬されているのですが。
苦しいでしょう、気色悪いことでしょう。あの何を考えているかわからない、
善心しか持ち合わせない機械たちとおなじ土の下に埋まっているのは。
今、進めている計画が無事に成就した暁には、僕が母さんを掘り出して、
願いどおり海に撒くから、それまで待っててね。
絶対、成功させるから。
それでは、今日はこんなところにしておきましょうか。
◆
知恵猫のアルは音声レコーダーを停止させた。
見渡すと数十匹の猫。猫。猫。あくびをしたり寝ていたり。
うーん、やっぱり彼らにはまだ早かったか。
近場の猫は普通の猫だ。聞いても主人の思想を理解はできないだろう。
それでも彼は、知恵猫として生を受けたアルは、
凡猫たちの集会を自分の大樹で開き、
このレコーダーを聞かせて凡猫たちにお情け程度の知恵を与えてあげたかった。
それから、凡猫たちに『そのたとおなじ』を聞かせてあげた。
ペケペケペケペケ……ひとをころしてはいけません。
ひとはもういない。みんな知ってる。だからこんな教えは意味がないんだけど、
猫同士が殺し合ってはいけない。縄張り争いはそりゃ仕方ないけどもさ。
だけど、知恵猫が増えて、ひとたちが起こした過ちを繰り返さないためにも、
アルは『そのたとおなじ』をたくさんの猫に聞かせた。ペケペケペケ。
主人のレコーダーはそのあとでまた聞かせよう。
◆
拝啓、お母様。局長になって数日経ちました。
異例の大出世なんですって、三十代で局長になれるってのは。馬鹿みたい。
仕事は順調です。今日も裏からインターネットを見張って、
我が国の裏側に気付いた人間はこっそり消してまわる。
なんとも楽なお役所仕事です。
でも、僕は、いまはとりあえず母さんに誓いますけれど、
自分の手で人を殺したことはただの一度もないんですからね。
小さい頃から『そのたとおなじ』は僕のバイブルです。
『そのたとおなじ』の教えがあるから、私は絶対に人は殺してません。
そう、殺してはいないんです。
最近どうも一人称が安定しないなあ。情緒不安定なのかしら。
今日は早く寝ます。またの機会に。
◆
えーと母さん。もうすぐ俺も統合情報局では三番目ぐらいの地位になれます。
二十代で異例の大出世とか言われてますし、
マスクの下は美形だとか女性局員からチヤホヤされてますが、
顔ぐらいしか取り柄がないんですホント。
艱難辛苦乗り越えずして、顔だけを取り柄にここまで育ってきちゃった俺ですよ。
本日も新橋の飲み屋で局員同士の飲み会でマスク外したら美形だ美形だって、
まあそりゃ顔を褒められて悪い気はしないけどさあ。
どうも酒が入ってるといけねえな。
女どもはさ、わざと美人に見えるようなマスク被ってるけどさ、
本当はどうしようもない平凡な顔してるんだぜ。
俺は女の顔でどうこう言うつもりはないけど、
「透明マスクを被ったほうがいい」なんて言われちゃあ、
こりゃ怒りのやり場も収まらないってもんですよ。
透明マスクなんか被っちゃったら、
本当に顔しか取り柄がない男になっちゃうじゃあないの。
だから俺さ、わざと怪物みたいなマスク被ってんだ。母さんが死んでからだよ。
母さんだって「透明マスク被れ」って言ってたから、
そりゃ透明マスクにしてたけど、
大学のときはこれが苦痛で仕方なかったもん。
女からはチヤホヤされて、男からは貶されて。
顔だけなんだ、結局。女が求めてたのは。
いつの時代だって変わらないんだよそんなん。
俺だって普通の友達を作って、
この国の裏側なんか知らずにノホホンと生きてたかったよ。
親父だってあんなんじゃなきゃさ……
いかん、本当に愚痴っぽくなってきちゃったな。
酒はダメだ、酒は。俺がダメになる。じゃ、また音声残すからさ。
◆
拝啓、お母様。
酔ってた時のデータが変な順番で入ってしまいましたことをお詫びいたします。
あれってもうだいぶ昔の事になりますかねえ。
あれ以来ほとんど酒は付き合いでしか飲んでません。
感慨にふけるような良い記録とは思えないけどね。
音声データは一片も消さないって決めたからさ。
これは、私自身の野望の記録になるんだから。
そういえば、母さんの懸念してた植物の減少は無事に解決しました。
母さんが亡くなってから発見された、とあるウイルスによって。
その話はまた次回にします。今日は、こんなところで。
◆
知恵猫のアルは、主人の時折見せる人間味が好きだった。
人間味っていうのがどんな味なのかは知らないよ。
でも、アルが知っていたひとという種族は、どうも生き物っぽくなかった。
その点、主人のレコーダーから聞こえる音は、どうにも生き物らしくて好きだった。
それがたぶん、人間味っていうやつなんだろうな。アルは目を閉じて頷いていた。
この動きもたぶん、人間味っていうやつなんだろうな。
周りの猫たちはまだ人間味はないけれど、野性味には溢れてる。
みんなも知恵猫になるといいよ。知恵があるっていいことだからね。
音声レコーダーは、言葉を紡ぎ出していった。
◆
拝啓、お母様。
今日は例の森林減少の解決についてお話したいと思います。
非核三原則と憲法が作られて二百年とちょっと経つっけ。
母さんが亡くなって一年ちょいで、北極から変わったウイルスが見つかりました。
特定の動物の細胞に葉緑体を作り出し、
やがてその動物は植物に変わってしまうっていう、
少しおっかないウイルス。これは日本の学者が発見しました。
恐竜絶滅の原因もわかってみればなんてことない、
草食恐竜の大半が全部植物になっちゃったから、
肉食恐竜が食べ物なくなっちゃって自然に消えていったっていうことらしいです。
恐竜はみんな主に杉に近い植物に変わってったそうです。
件の国の『ミサイル演習』で、我が国は戦争は行わないとはいえ、
実際には冷戦っていうのかな、ああいう感じの状態になってたのは、
母さんも記憶してたと思うけど、緊迫状態が長続きしてました。
もちろん我が国は自衛権を行使したけど、核の類は全面否定していたから。
作っちゃったんです。
人間を植物に変える弾頭を。
エコロ自衛なんてスローガン掲げちゃって、我が国は湧きました。
そんで、『ミサイル演習』のお返しにと、件の国に撃っちゃいました。
いまでも我が国には数百発の『緑化弾頭』が眠っています。
それから世界各国恐れをなして、我が国は村八分。事実上の鎖国です。
当然、件の国と我が国は海を挟んで隣接してるわけですから、
ウイルスの飛散っていう恐れはありました。
でも、疑似冷戦ってのは本当に恐ろしいもので、
なるべく飛散しないよう少量のウイルスで作っちゃったんです。
そうして件の国の人民の八割が緑化して、
残った国民は隣の国に泣きついて逃げてったそうです。
緑化された人たちのその後については、またの機会にお話しします。
◆
拝啓、お母様。
お約束したとおり、緑化された人間のその後についてお話致しましょう。
特定の動物の体内に葉緑体細胞を作り出すウイルスは、
人間を徐々に植物へ変えます。
その過程は見れたもんじゃないです。
最初は知能を持ったまま植物になっていく恐怖。
大抵の人間はそこで発狂してしまうとか聞きますが、
エゴが強いとしばらくは動いて喋るんですね。
植物が。口を効くんです。緑色の葉を蓄えて、木がですよ。
気味が悪いったらない。
それで、脳が強くても自我が強くても、
やがては頭の中まで緑に侵されていくんです。
もう、なんていうか、見れたもんじゃないよアレは。
「あー」とか「おひさまー」とか、「きもちいー」くらいしか言えなくなります。
なんでそんな緑化された人間の顛末まで知ってるかというと、
それはまた次の機会に。
◆
拝啓、お母様。
統合情報管轄局長なんていう地位になると忙しくてしょうがありません。
なんせ国の裏側では総理大臣の次の次くらいの地位ですから。
あくまで裏側ですけれど。
豊田大輔との謁見も許される地位なんですけど、
あれはもうなんていうか人間じゃない。
機械です。なんせ齢百二十八歳ですから、生命維持装置に繋がれてるんです。
緑化人間とほとんど同じですよ。
自然か、自然じゃないかぐらいの違いしかありません。
でも我が国の先進医療が発達しちゃってるのは、
豊田大輔へ施された延命の延長なんですね。
百二十八でも意識はあるみたいで、
ときどきわめくようにカリスマ性のある事を言うのだから恐ろしいです。
あれは怪物です。サイボーグ怪物ですよ、ハハハ。
あ、前置きが長くなってしまいましたね。
私がどうして緑化人間の末期まで知ってるか。
今日はそれについてお話しなくてはいけません。
あれは、僕がまだしがない局員だったころのことです。
局員は数十名で世界中のインターネットを見張ってなきゃいけないんだから、
この国のからくりに気付く人間も出てきます。
そうすると、あれこれ理由をくっつけて、
啓蒙家たちを定期的に呼び出すんですよ。
それでひとっところに集めて、緑化ウイルスで出来たガスを浴びせるんです。
あとは植物になっていく様を管理、見守って、
完全に植物になったら公園にでも植え込むんです。
僕も、緑化ガスを浴びせました。人間を植物に変えました。
でも、殺してはいません。
神も仏もいないと信じてるから『そのたとおなじ』に誓います。
人を殺してはいけません。
だから僕も人を殺してはいません。
ほんとずさんな管理ですよね。緑化は緑化で専門の部署を作ればいいのに。
でも、国のバレてはいけない部分だから、本当にごく少数で、極秘裏に行うのです。
本日お会いした豊田大輔については、またの機会にお話しします。
◆
拝啓、お母様。豊田大輔についてお話します。
生命維持装置に繋がれた、半分機械と化したあの男は、
朦朧とした中にときどきしっかりした意識を見せました。
かの男は人生の道しるべなんていう本を出版して、鮮やかな洗脳術をもって、
この国を何十年も陰から支配しております。
いまとなっては支配するだけの意識を持ち合わせていないがために、
彼の取り巻きだった男たちが裏から国を操っているという形になりますが、
僕の勤める統合情報管轄局も、その男たちのアイデアで作られた政策です。
豊田大輔も、情報を操作するという我々の政策は知ってますし、
例の緑化弾頭弾についてもある程度は理解してます。
それでいて、あの男は、それが人類のためだとか言って、
見て見ぬふりをしているのです。
強かな爺です。仏の国というものを信じて、その教えを広め、
何万という人間を緑化しても尚、
そこに道徳とか御仏の世界とかいうものが存在してると信じてます。
僕の父でありあなたの夫であったあの男も、
あの男の著書により熱心な信者となって、
機械的にただ働くという事をするだけの、
あとは取り繕われた善心に操られる、機械です。そう、機械なんです。
豊田大輔が生命維持装置に繋がれてから、この国は機械的になったんです。
僕には神も仏も信じられません。
死んでしまった人のために何かするなんて不毛だとわかってる。
だから母さんに向けてなんて形で音声データを残してるけれど、
実際これは僕の自己満足だ。誰かのためじゃなく、続けていきたい。
たんなる日記だ。そう、死んでしまえば、無になるんだ。
死後の世界なんてものはない。
それでも僕は、母さんを、生前の願いどおりに海に撒きたい。
母さん、こういう感慨にふけるようなやり方は今日で終わりにするよ。
これからは、自分のためにこの音声を残していきたいと思う。
◆
拝啓、お母様。結局この一文をつけないと日記をつけられない自分がいます。
まあ、僕自身のためにやってることだし、これはもう形式として取っておこう。
今日も局の仕事で、局長自ら反乱分子の緑化作業です。人手不足にもほどがある。
啓蒙活動家のリストの中に一名の女性を見つけました。
彼女は珍しいことに、常日頃から放射能防護マスクを被っていないのです。
今度、直接会って局員にならないかスカウトしてみようと思います。
局長っていうのはそんな権限も持ち合わせてるんですよ。へへへ。
美人でした。女を顔でどうこういうタイプじゃないけれど、
一目惚れってのはあると思います。
また美人かどうかよりも聡明であることのほうが僕にとっては重要です。
この国の裏側にある程度気付き、この国の裏に感付き、
啓蒙活動を行えるということは、知識人には違いありません。
これからまた局長自ら匿名掲示板の管理です。国民の意識を扇動する仕事です。
次の総理大臣は誰がいいかという話ですが、『学会』上層部の命令で、
楠健太郎という政治家を次の総理大臣にする方向で決定しました。
あとは楠健太郎を支持させるよう有権者の意識を扇動するだけです。
実に簡単ですよ。二十一世紀初頭にはすでに基盤があったっていう手法ですから。
きっとネットをやってる奴らは、
「俺たちが国を裏で操ってる」くらいにしか思ってないんだろうな。
それすらも『学会』の思惑の中にあるっていうのに。
じゃ、また。
◆
今日は忙しかった。午前は目を付けた啓蒙家のスカウト。午後は平常の職務。
まずはいま私が目をつけてる啓蒙家、南部沙希の話をせねばなるまい。
彼女は外を歩くときも放射能防護マスクの類は一切身につけず、
その表情といい、なんとも人間味に溢れている女性でした。
この機械的に機能している我が国にあって、彼女だけは人間と呼んでいいだろう。
単なるアナーキストではない。
「もう残留放射能の心配はないんだからマスクの必要はないと思うんです」
それが彼女の言い分だ。
そう、彼女の言うとおり、もう残留放射能を心配する必要なんてない。
それでもマスクは生活に溶け込み、もはやファッションの一部と化している。
僕は顔のことで特別扱いされたくないからマスクを被っているだけであるが、
彼女はすっきりした目鼻立ち、透き通るような白い肌を、見せつけるでもなく、
特別扱いされるのを苦とするでもなく、
「他人の表情が読み取れないこの社会は病んでいる」という理念に基づいて、
マスクを着用していないそうだ。
美人だからというだけの理由で誹謗中傷を受ける事もあっただろうが、
彼女の芯の強さなら今までもはねのけてきたことだろう。
現在、大学の語学部に在籍しているらしいが、
卒業後は統合情報管轄局に来ないかと声をかけた。
「そういうことならばせめてマスクを脱いで誠意を見せてください」
これが彼女の言い分だった。つまり、拒否された。
僕は譲れなかった。マスクを外したら、やはり顔がどうこうの話になる。
確かに表情が見えないっていうのは気味が悪い。
だが、僕はそれ以上に素顔を晒す事で、
彼女の気高さを凡百の女のそれと同じ程度まで引き下げたくなかった。
俗っぽい、顔が優れてるからといって、それだけのことで
人を評価するようなレベルの人間まで彼女を貶めたくない。
局員になってくれなきゃ緑化しなくてはいけなくなるんだが、
彼女はそれでも頑として拒んだ。
どこまで知っているのかはいざ知らず、
漠然とインターネットが社会を操っている事は知っているようだ。
そして、彼女なりの教えを広めてまわっている。国としては見逃せない。
ある意味では情報テロリストに位置するからだ。
彼女なら直に『学会』の影響力の大きさにも気付く、
いや、もう気付いているのかもしれない。
実に残念でならない。でも僕は南部沙希を執拗にスカウトしようと思いました。
あの才能、埋もれさせておくには惜しい。
午後は「思い切って野党の『快晴党』を与党にしようかしら」なんて
『学会』幹部が言いだすもんだから、
「先日、与党の楠健太郎を総理に就任させたばかりではないですか」と、
ぼくは食ってかかりました。譲れません。
こちらとしては情報操作が忙しくて仕方ないので、
なるべく現状をせめて三年続けて維持したい。
明日は午後から豊田大輔の謁見です。謁見というより殆ど介護です。
◆
謁見っていうのも僕が勝手に謁見って呼んでるだけで、
単純に豊田大輔の個室で二人きりになるだけなんだけども。
なんせ年号が安成の時代から生きてますからね。安成、大和、と生きて、
まだまだ生きますよ、あの大和の怪物は。
父の話を豊田大輔に語りました。
僕だって白痴ではないので豊田大輔や父への憎しみもなるべく押し殺して、
「父は先生を甚く尊敬しております」という程度にしか話しませんでした。
豊田はにっこり笑って、僕に一匹の子猫を押しつけました。
なんでも『学会』の会員が、外出儘成らぬ先生の寂しさを紛らわすためにと、
話し相手に優れた知恵をもつ猫を作り出したそうなんです。
知恵猫。まだ名前はないらしいけれど、
豊田は自分が呆けてくると思われて嫌だったんでしょうね。
自分はまだ老人ではない、まだまだ現役だという意思の表れなんでしょう。
仕方なくその知恵猫を僕の家で飼育することになりました。
名前を考えなきゃいけません。知恵が「ある」から『アル』でいいや。
アル、おいで。お前はいま人間でいうと三歳ぐらいの年齢で、
七歳ぐらいの知恵があるっていったっけ。
僕の言うこと理解できるかな。ご飯はこのレバー押せば粒が出てくるから。
僕は仕事で家を空けることが多いけど、お前は知恵猫だから一人でも心配ないな。
そうだ、知恵猫のお前に本をやろう。『そのたとおなじ』っていうんだ。
僕にとっての聖書。猫の手でも音声は再生できるだろう。
識字できるかは疑わしいが、人の言うことは理解できるって話だしな。
お前なら文字も読めるようになるさ。これからよろしく。
◆
知恵猫のアルは主人と出会った当時を懐かしんだ。
そして、まあるい月に遠吠えした。これは野生猫のやることだ。
でも、知恵猫でも主人の事を思い出して鳴きたくなる事はあるよ。
アルが月に鳴くと、数十匹の猫も合わせるように長鳴きを始めた。
あおおーん、なううーん。猫の遠吠えが、月に照らされた新緑の中に響く。
主人、僕は寂しくはないぞ。猫の友達がたくさんできました。
それに、『そのたとおなじ』と主人の声が聞ける。これ以上なにを望むんだ。
アルは主人の声を聞きながら、月に鳴いた。これは知恵猫の為せる自己表現だ。
◆
先日の、南部沙希について。
今日はコーヒーをおごってまたスカウト。南部沙希、強い女性だ。
緑化されても構わないといったような強いまなざし。
僕はひょっとしたらひょっとすると、彼女に惚れてるのかもしれないなあ。
アル、君の意見を聞こう。「なうん」そうか、なうんか。
彼女が局員になってくれたら、
僕はもう僕自身の目的なんかどうでもよくなっちゃう。
ああそうか、惚れてるんだ。きっと。
局長職も暇じゃないけど、週に二回くらいはスカウトのチャンスがある。
細かい仕事は局員に任せて、僕には未来の局員を探して回るって職務もあるからな。
アル、お前にちょっと僕の昔の話を聞かせてあげよう。
鳴滝先生にスカウトされたのは、南部沙希みたく僕が在学中のことだったな。
あのとき、既に国の裏側の六十パーセントぐらいは見抜いていた。
啓蒙活動を行っていた僕に、鳴滝先生は……
いや、前局長は、厳しい眼差しで「局員になるか植物になるか選べ」と僕に迫った。
僕としてはまたとない機会だったよ。豊田大輔に近付く機会。
直接豊田と話せば、母さんを墓から掘り出す許可も得られるかもしれない。
鳴滝前局長は、毎回違うマスクを被ってくるお洒落な方だった。
局員としての心構えは全て前局長から教わったし、
僕が局長になれるよう手回ししてくれたのも、全部が鳴滝前局長。
いや、先生と呼ばせてもらいたい。鳴滝先生のおかげだ。
父に従って勉強しか出来なかった僕に、
国家を裏から操る権限を与えてくれたのは、鳴滝先生だ。
厳しい人だけど、自分の職務の正しさについて常に悩んでいた。
悩んでいたからこそ、僕をスカウトし、後釜に選んで、
そして残す悔いなく、自殺した。
僕は鳴滝先生の粗悪なコピー品に過ぎない。そこは自覚している。
鳴滝先生に教わったやり方を全て忠実に実行しているだけで、
心の裏にはこの国の裏側を世界に露呈する野望が煮えたぎってる。
アルにはまだちょっと理解しにくいかもしれないな。
もっと知恵を付けたら、そのうちにもっといろいろ教えてあげよう。
南部沙希については気がかりでしょうがない。
このごろ南部沙希のことばかり考えてる。
なにしろ彼女はとても頭がいい。知識人だ。緑化させるにはもったいなさすぎる。
◆
思い切って南部沙希に切り出した。結婚を前提とした交際を。
気が早かったとしか思えない。
僕も僕なりに焦ってた。野望と恋慕の間で焦ってたんだろ。
今日、始めて彼女の前でマスクを脱いだ。誠実さを見せたかった。
それでこう言ったんだ。
「局員になりたくないという君の意向はわかった。
従って、後日君を緑化しなくてはならない。
しかし、局員の肉親になり、秘匿義務を守れば君の緑化は避けられる。
肉親ってのはその、例えば、妻とか。義兄弟とかでもいいんだけども。
だからなんだ、その、結婚を前提としたお付き合いを、ですね」
彼女は返事は後日するとだけ言って、踵を返した。失敗したかな。
歳の差が十三あるからか。
違う違う、明らかにタイミングを間違った。あとこれじゃ脅迫だ。
アル、助けてくれ。「あおあお」そうか、あおあおか。
お前が人の言葉を喋れたらなあ!
ただ、去り際の彼女の一言は僕にとって救いだった。
「あなたはいつもマスクを脱がなかった。建物の中でも。
それを今日脱いでくれた、その誠実さは汲みたいと思います」
こればかりが今日の救いでした。
◆
今日も植物になっていく人間を見守りながら南部沙希のことばかり考えていた。
そしたら南部沙希から一通メールがありました。
「直接会ってお話したい事があります」
それだけ。メール本文はそれだけ。
まったく女ってのはロマンティックな生き物だねぇ。
メール本文で合否を伝えてくれて構わないのに、それでも直接会いたいという。
決まってるさ、答えはノーだ。アルだって思うだろ?
「のうん」あ、喋った!?こいつ喋るぞ!
お前は頭がいいなあ。でも変に空気読んでくれなくていいんだよ。
いま僕は傷つきました。
お前の「のうん」にひどく傷つけられました。
「めうお」そうか、励ましてくれるか。
◆
アルは昔を思い出した。
主人、あの時「のうん」って言ったのは、
「きっと良い事あるよ」ってつもりだったんだよ。
あのときばかりはアルも人語を喋れない自分を口惜しく思った。
当時、主人の顔を覚えたばかりで、まだこれといって
好きとも嫌いとも思ってなかったが、いまならわかる。
あのときには既に人間味のある主人に好意を持っていた。
何せぼくの知ってるひとって生き物は、機械みたいな奴らばかりだった。
アルは知恵猫だ。生まれて初めて聞いた人間の言葉を確かに覚えてる。
「無事産まれた。知恵猫一号だ。これで先生もお喜びになるだろう」
「これが知恵猫であるかの証明は?」
「今後、先生の著書を朗読し、その反応で判断する」
「それなら間違いない。ダメなら処分して作り直そう」
だいすけって男の本はひどく退屈だったなあ。
それより外で遊びたかった。でも、生きるために理解したフリをしたっけ。
その点、主人はいいやつだった。
ぼくが家に来たその日に、自動ドアにぼくのことを家族と登録して、
自由に出入りできるようにしてくれた。
外は機械みたいなひとって奴らで溢れてたけど、
虫を追っかけてる間、それと主人といる間だけは確かに幸せだったなあ。
知恵猫のアルは高い知恵をもっている。
だがその知恵も時に本能には負けるのだ。人間だってそうだから。
◆
拝啓、お母様。この始め方は一年ぶりになります。
本日ぼくに婚約者という存在ができました。相手はあの南部沙希です。
いや、これからは沙希ちゃんって呼んじゃう。
アル、祝福してくれ!なんだい無視か。
違うな、虫だなこれは。捕まえてきたのか?
ああそうか御祝儀か。これはありがとう。お前は唯一無二の友だ。
いつものコーヒー屋で待ち合わせしまして、
沙希ちゃんはいつものマスクを被らない格好で座ってました。
僕はいろいろな仕事を全部下の者に押しつけて、いわゆるサボタージュ。
沙希ちゃんは何を言えばいいのかしばらく考えあぐねてましたが、
やがて「お話、お受けします」とだけ言って、頬を赤く染めました。
僕が三十五歳で、彼女が二十二歳。これで沙希ちゃんの緑化は免れた。
やったね。
僕も当面は野望をあきらめようと思います。
いまは幸せだから、そんなんもうどうでもいいや。
◆
拝啓、お母様。今日は二十二歳の誕生日です。
大学は厳しいと感じます。父親はあなたが亡くなられてから、
機械のように仕事に打ちこんでます。
たまの会話といえば「勉強して立派な人間になりなさい」です。つらいです。
ですが、私にも転機が訪れました。統合情報管轄局という胡散臭い国家機関の男が、
私をスカウトしにやってきたのです。聞いたこともない国家機関ですが、
どうやら実在していて国を裏側で管理しているようなんです。
父への反抗にこの機関に入局してやるのもいいかな、って思ってます。
まともな職について機械のように働くなんて私は嫌です。
父のようになりたくありません。
あいつは、気が狂ってます。変な宗教に走ってます。
いや、変ではないな。母さんも名前だけは聞いたことのある有名な『学会』です。
僕はあの男への反抗を企ててます。一生をかけてあいつを苦しめてやるつもりです。
一人立ちして、あの男に介護が必要になったとき、私は見捨てるでしょう。
あなたの夫である、あの男を。
そしてこの国の裏側をもっと多くの人間に教えて広める。世界を覆してやる。
この野望の成就のためなら、僕はなんだってするつもりです。
それでは、またの機会に。
◆
また音声の順番がめちゃくちゃになってたな。
あれは初めての録音か。もう消しちゃってもいいかなあ。
父は、苦しみながら死んでほしい。でも、僕にも婚約者がいるからなあ。
婚約者と佳き友がいる。なあ。
「にゃあ」お、また喋った。明らかに人語を理解してるぞこいつは。
素晴らしい生活じゃないか。これ以上なにを望めって言うんだ。
社会が機械的で病んでるとかそういう問題は知った事じゃない。
我が国が原因で第三次世界大戦になりかけてるとかいう、
緊迫した情勢とかもどうでもいい。
そんなん当局の情報操作でどうにでもできる。
いまは我が佳き妻と佳き友のために精一杯働くだけだ。まだ妻じゃないけど。
◆
一本の大樹がある。
猫の集会はとうに終わり、いまはアル一匹が大樹の下で寝転がっていた。
この大樹も昔はひとって生き物だったんだよね。そう思うと感慨深いものがある。
感慨深いけど爪研ぎに使ったりするよ、ごめんね。
幸せだったころの主人の声色は、とても優しい。穏やかだ。
その懐かしさに浸りながら、アルは日々を過ごしている。
小動物を追っかけて食べたり、この大樹と音声データ群を中心に生活圏を広げたり。
自分は器用だが、この音声データの入った黒い箱を、
持って運べるほど力持ちじゃないんだ。
だから、聞きたくなったらここに来る。そしてこの樹の下で眠るんだ。
今日も眠くなってきたから、もう眠ってしまおう。主人の声を聞きながら。
◆
沙希、今日もまた遅くなるから音声を残しておくね。
明日はいつもの職務のあと、豊田先生との二人きりの会合が入ってる。
アルを頂いてからずいぶんと仲良くなったものだよ。
まあ先生は殆ど眠っている時間のほうが長いんだけどね。
じゃあ、行ってきます。愛してるよ。
◆
アル、お前が来て二年経つ。
実は、沙希に……沙希の体に、病気が見つかった。
骨肉腫っていう、難病だ。悪性ガンの一種だ。
昨年、亡国残党が放った核ミサイルは、南西の風に反れて大きく海上で爆発した。
自衛の緑化弾頭は、第三次大戦を引き起こすには至らなかったが、
またひとつの国が無くなって、いまも世界はギリギリの緊迫感の上になりたってる。
放射能は、遠く離れた海から我が国に流れてきた。
それでも沙希は、彼女はマスクをつけなかった。
彼女は、人の顔が見えないのはどうしても気味が悪いと言い張った。
だから私も、彼女の前ではなるべくマスクをつけずにいた。
いまは全国民が場所を選ばずに放射能避けのマスクをつけている。
アル、お前の事だって外には出さないだろ、
あれにはちゃんとしたわけがあったんだよ。
私は家の中でだけマスクを脱いだが、彼女は外に行く時でもマスクはつけなかった。
骨肉腫により、彼女はもってあと半年の命だ。
◆
沙希は日に日に弱っていく。今日から沙希は集中医療棟に入院する。
私にはただ、見守ることしか出来ない。
「あなたはあなたの生き方を見つけて」
まるで毎日死ぬのではないのかと思わせるように、私に言う。
沙希、君が死んでしまったら、私は生きている理由なんてもうなくなってしまうよ。
◆
沙希は、もうすぐ死ぬ。
それだってのに彼女は、堂々としている。死に怯えていない。
このままだと彼女は死ぬ。死んでしまう。
だが、解決法がないこともない。だが殺すも同じ事だ。
彼女は自然に死ぬのを望むか、植物となって生き延びる事を望むか。
話をもちかけるタイミングを逃し続けている。
◆
今日、沙希の人生は慎ましく幕を閉じた。
結局、彼女は、植物になるよりも自然に死ぬ事を望んだ。
心中する事も考えたが、いまは世界が憎い。
沙希は最後まで苦しみを隠して死んだ。死ぬ間際まで笑っていた。
私が彼女に出来る事は、ただ手を握ってあげることだけだった。
アル、私は心中しようと思う。世界を道連れにして。
この世界は、聖者と呼ばれる数人の道徳者が作り上げ、
狂っていく様を道徳というベールに包み、見て見ぬふりをした。
その聖者の一人が豊田大輔で、いまもあの男は生きている。
あの男なら、最初の緑化弾頭だって使用するのを止められたはず。
それを止めなかった結果が、報復の報復、即ち核だ。
いまも緑化弾頭は次々製造され、この国は半鎖国の中にある。
各国が亡国の残党を止めていたら、こんな有様にはならなかったはずだ。
沙希が何をしたっていうんだ。彼女はただ、この病んだ社会に反抗してきただけだ。
俺は彼女の意思を受け継ぐ。ただし、もっと残酷な志で。
◆
アルは大樹の下で眠っている。
おなかをぺこんぺこんと膨らましたりしぼませたり、呼吸をしている。
夢の中でかつて主人の佳き妻だった、沙希のことを思い出している。
彼女は優しかったなあ。毛繕いしてもらって気持ちよかったです。
忙しい主人の代わりに、忙しい専業主婦だった沙希は自分に知恵を授けてくれた。
いまぼくのもってる知恵は遺伝子操作で生まれたものじゃない。
主人と、沙希と、『そのたとおなじ』がくれたものだ。
暖かい家庭だったっけ。他の猫たちはかつての飼い主なんて覚えちゃいないもん。
自分が知恵猫で本当によかった。
夢の中でアルは、佳き主人と、その佳き妻におなかを撫でられていた。
くすぐったい。
やがてアルは目を覚まし、一匹の白い猫と出会った。
アルは生まれて初めて恋をした。
相手に名前はなかったけれど、名前なんかあって何の役に立つだろう。
ぼくは主人との郷愁に浸るためにいまだにアルを名乗ってる。
でも、ぼくだってその他とおなじ、知恵があるだけの普通の猫だよ。
◆
統合情報管轄局長。その権限は非常に便利だ。
私の野望をスムーズに手助けしてくれる。
まず父の現在について調べ上げた。
今日は十年ぶりに父親と会った。結婚式にも来なかったあの男に。
父は定年退職してからというものの、自宅マンションにこもりきりの生活だった。
仕事の他に生き甲斐がないのだ。食事は取り寄せが利くし、
家にこもって仏像を拝むか、豊田大輔の著書を読むかしかない毎日だった。
父は、出会い頭に私を殴りつけ、こう言った。
「このドグサレめ、あれだけ勉強させてどうせろくな仕事してないんだろう
俺は言ったよな、勉強して勉強して、豊田先生みたいな立派な人間になれって」
父は私の仕事を知らない。肉親には公開する権利も与えられているが、
あの男は父親という役割を演じているだけで、肉親と思ったことはない。
豊田大輔と私が親しい仲にあるという事も、父は知らない。
何も言わずに私は緑化ガスを父の家に充満させた。時限装置のプレゼント。
ちょうどいまは夏だ。暖かいほど緑化の進行も早い。
本当に、この権限は便利だ。
◆
本日、豊田大輔との謁見。
豊田も幹部もすっかり私を信じ込んでいる。
眠っている隙に生命維持装置のケーブルを抜く。
私は、人を殺してはいない。機械を止めただけだ。
豊田の心音が停止したのを確認して、ケーブルを再び差す。
大騒ぎになったが、誰も私を疑わない。なにせ相手は寿命が寿命だ。
「機械が一時停止して、作動した時には先生は亡くなっていた」
簡単なトラブルだ。明日は国を挙げて葬儀になるだろう。
◆
皮肉にも、豊田の死をきっかけに我が国は経済的に潤っている。
あれから一ヶ月、追悼復刊なんかも行われ、著書が飛ぶように売れ、
みんな仏壇を買っている。バカバカしい。
『学会』の熱心な会員は海外にもいたらしく、
いま豊田大輔の死というイベントを経て、
第三次大戦の危機は回避され、和平ムードが訪れ、事実上の鎖国も解除された。
海外へと渡る船が出た。飛行機が出た。海底列車が出た。
豊田大輔とはなんだったのだろう。
あの男が目をそむけたせいで狂っていった世界が、
あの男の死でひとつになろうとしている。
キリスト教圏にも『学会』の教えは地味に浸透していた。
インターネット上にも豊田大輔追悼のムードは漂っている。
『学会』に関与していなかった者も『学会』に入会するぐらいだ。
これにより世界は、また一時的な平和を取り戻した。
これからあの男は聖者として語り継がれるのだろうか。
世界を狂わせ、その責任を他人に押しつけたあの男が、
仏陀と肩を並べるのだろうか。
そんなことはさせない。この世界は歪んでいる。
歪んだツケを払わせなきゃいけない。
◆
アル、お前のためにもこの音声は残しておく。
データももうしばらくは収録を続ける予定だ。
実は今日、血を吐いた。私にも沙希と同じようにガン細胞があったんだ。
まだ私にはやることがある。だから、私は彼女と違う生き方を選ぶ。
◆
前回の収録から二か月。ガン細胞の進行は思ったより早い。
髪の毛が一気に抜けて驚いた。が、それは問題じゃない。
まだだ、まだ時期尚早だ。大仕事がひとつ残っている。
父は完全に植物になっていた。今日見届けに行った。
◆
アル、桜が綺麗だな。この世界はどうかしてる、そう思わないか?
「んーう」お前の意見は私には伝わらないが、だいたいわかった。
お前は佳き友だ。知恵猫のアル、お前と、
お前の子孫が今後地球の代表者になるだろう。
今日、緑化ガスを大量に空輸した。あれは検疫には引っ掛からない。
なぜならあれの管理権限を持っているのは私と一部の国家役員だけだから。
存在しない事になっているからだ。
人類だけを植物に変えるあのウイルスは、風に乗って世界へ行き届くだろう。
暖かいと精力的に活動し、寒さにめっぽう弱い。
ガン細胞の進行を食い止めるため、私は自身を緑化した。
いまガン細胞も全て葉緑体に飲み込まれ、一ヶ月中に私は植物に変わるだろう。
私はインターネットや新聞を通じて統合情報管轄局の存在を公表し、辞職した。
緑化弾頭の眠っているミサイル基地の場所も明かした。
これを機に世界はまた険悪なムードに包まれた。温かい戦争になると思う。
まだやることがある。
◆
えーと、狙い通り、我が国に反感を抱いていた人たちがミサイルを撃ちました。
なんとか大戦になるでしょう。緑化ミサイルもいっぱい撃つ予定になってます。
ぼくの脳はもうほとんど葉緑体に支配されていると思う。光がほしい。
アル、おいで。おまえはかわいいな。
これで空輸で撒いた緑化ガスよりすごいたくさんのウイルスが、世界にいく。
今日は、墓地でママを掘り出しました。
灰は壷に入ってました。海に行って風にのせて撒きました。
さいきんいろいろ撒いてばかりいます。
◆
まだだ、まだやることがある。
おひさまだ。おひさまのしたにいく。
この音の出る箱はアル、おまえでもつかえるようにしたよ。
ぼくはこれからあのこうえんにでてねむります。
ぼくはそのたとおなじになります。みんなきになります。
◆
ママ、さき、アル、いままでありがとう。
◆
かつて一人の男だった大樹は、猫を見守っていた。
唯一無二の友と呼んだ、知恵猫のアルを。
アルはときどき自分の樹肌で爪を研いだ。樹はもう何も考えていない。
猫が樹の周りに集まった。アルは子供を作り、知恵を広めた。
その聡明な子孫たちに『そのたとおなじ』を教え、主人のレコーダーを聞かせた。
やがてアルも年老いて、その他とおなじになるときがきた。
彼は樹の横で眠るように亡くなった。子孫は彼を土に埋めた。
子孫の知恵猫たちは、彼の死を悼む事が出来た。知恵があるから悼む事が出来た。
彼を主人の樹の横に埋めてやり、『そのたとおなじ』を彼ら独自の言語で朗読した。
ひとをころしてはいけません。もりをやいてはいけません。
そして、アルの主人が残した音声レコーダーを再生し、
アルの主人の声、その特に愛した一節を聞かせるのだ。
アルの念願はかなった。知恵猫はこれから増え続けるだろう。
ぼくも見守るだけだ、主人と一緒に。
◆
拝啓、お母様。この始まりはもう年に一回ぐらいしかやらなくなりましたね。
今日特別にこの始まり方をするのも、今日があなたの命日だからです。
いま僕はとても順調です。沙希はかわいいです。
天国……あるとしたらだけど。
母さんはそこで今の幸せな僕を見守ってくれているのでしょう。
いつか、あなたの願ったとおり海に撒く事が出来ればな、と思ってます。
豊田大輔に相談しても首を横に振るばかりですが。
それでは、また来年。
……アル、アル。お前はかわいいなあ。
沙希、ちょっと来てごらんよ。アルがおなか見せて寝てる。
「ふふふ、あなたは知らないけど、いつもそうよ」
なに、そうだったのか。
「ええ、あなたはいつも仕事仕事って、忙しそうにしてるもの」
確かにそうだなあ。
今度休暇をもらおう。それで、僕と、沙希と、アルとで公園に行こう。
「じゃあお弁当作るわ」
よし、そうと決まったら休暇を入れる。
なぁに、仕事は下に押し付ければいいんだもん。
「あなたって本当に子供みたいね」
まあそう言ってくれるなよ。
「でも、あなたのそういうところが好き」
え、ああ、うん。よせよ。照れる。
よし、来週の日曜はみんなで公園に行こう。緑の綺麗な公園だ。ん?
あ、レコーダー入れたままだった。
(おわり)
そのたとおなじ JUNK.O @JUNK-O
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