落書きの温度

たれねこ

落書きの温度

 『落書き』に温度はあるのか?

 答えは、『イエス』だ。


 それはインターネットの掲示板が便所の落書きと同等だという前提で、そこでハートウォーミングな話を読んだ、または意見が合わず冷遇されただとかそういう話ではない。



 さて、話を戻そうか――。もう一度、今回のテーマについてだ。


 『落書き』に温度はあるのか?


 その落書きとは実際に書かれた落書きそのもののことだ。紙だろうが壁だろうが黒板だろうが教科書の隅でもいい。そこに書かれた落書きの温度についての議論だ。

 そして、最初に言った通りその答えは、『イエス』だ。これは常に変わらない。


 そのことに対して、落書きそのものに温度があるわけないじゃないかと、物理的な温度で否定するだろうか? それとも、受け取り手がそう感じたからという曖昧な理論を振りかざすのかと罵られるだろうか?


 まあ、これは詰まるところ俺の個人的な話なのだから、他人にとやかく言われたところで、質問も詮索も批判もこちらは一切受け付けるつもりはない。

 ただちょっとした自分語りの口実に『落書きの温度』というものを出したに過ぎないのだから――。


 それは高校生のとき、付き合っていた恋人との話だ。長くなるようで短い話で、ありふれたどこにでもある話だ。だから、適当に読み流してくれていい。こっちだって、深く考えながら読まれたらそれはそれで困惑してしまう。

 その恋人と俺の出会いは、同じ高校で同じクラスになった、ただそれだけのありふれたものだった。もちろん出会った当初に付き合うだとか想像していたわけではない。ただそんなのは当たり前だろう? 初対面のクラスメイトに対して、そんな感情を抱くやつが少数派に決まっている。

 もし、俺が彼女と将来付き合うことが分かっていたら、それはそれで俺は預言者か占い師か、はたまたタイムトラベラーに違いない。

 だって、俺はもともとはむっちり気味の巨乳が好みなんだぜ? 彼女はそれとは反対のスレンダーで華奢で胸の膨らみなんて、服の上からだと凝視しないと分からないくらいだ。本人はそれでもBカップはあるんだと胸を張っていたんだ。それは本当か嘘かは俺は知らない。


 ここまでくると俺と彼女がどうして付き合うようになったかだ。ここに『落書き』が絡んでくるわけだ。

 俺と彼女は三年間同じクラスだった。文理選択も一緒なら、芸術選択も同じだった。気が付くと隣にいるそんな人なんだ。ストーカーとかじゃないぜ。何故か席替えで毎回前後左右になっちまっていたんだ。こんなの何かの運命だろう? 意識するなという方が無理あるだろう? だって、神様がここまでお膳立てしてくれてるんだぜ?

 そして、事が起こったのは高校二年生のころだったかな? そんな何回目かの席替えが終わって、また近くだなと彼女と笑いあった。その日の授業で彼女が珍しく忘れ物をしたんだ。それは英語の教科書で俺は席をくっつけて見せてあげた。それはもう紳士的にだ。

 そんななか彼女は授業中、ずっと俯いてるんだぜ? 俺は自分に不手際でもあったのかと思うだろう? もしかしたら、俺なんかと教科書を共有するのが嫌だったのかもしれない。

 でも、そんなの分からないから直接聞いてやったんだ。

『なに下見てんの? 何か嫌なことでもあった?』

 授業中で喋れないからルーズリーフに書いて、すっと彼女に差し出した。彼女はそれを読んで焦ったようにペンを走らせた。そして、返事がすぐに返ってきた。

『嫌なことなんてないよ。実は重大な事実が判明しちゃって……』

 なんだか意味深だろう? だから、俺は心配して、

『それは授業より大事なことなのか? そうなら、早くなんとかするべきだ。授業を抜け出すスキなら俺が作ってやる』

 なんて、意味のわからない返事をしたんだ。隣でそれを読んで小さく噴き出した彼女は、ルーズリーフの俺の文字に触れながら、笑いを堪えているようだった。そして、ペンを走らせ、返事が返ってくる。

『大丈夫。そこまでしてもらうようなことではないよ。なんかごめんね』

 何がごめんねだ。『ごめんね』の文字は笑い堪えていたからか、微妙に震えている。そして、彼女が触れていた部分が妙に温かく感じた。

『じゃあ、なんでうつむいていたんだ?』

『教科書見せるだけなのにわざわざ机をぴったりくっつけるために鞄の位置変えたり、誇らしげに隣で授業を受けているのがおかしくってさ』

『笑うことないだろう?』

『ごめん。でも、笑っちゃうよ。そしてね、重大な事実ってのは、忘れてたと思った教科書、忘れてなかったのよ』

 思わず言葉を失ったね。で、頭の中を整理した。英語の時間らしく、頭の中で、

「All right. All right. I understand all. Calm down」

 と、繰り返した。なんか雰囲気に合っているだろう? でも、全部中学校レベルの英語なんだぜ。まあ、それは置いといて、

『それはいいさ。笑いを共有するのも悪くない。全てAll rightだ!』

 なんてノリよく返事をしたわけだ。彼女が隣で小さく笑いながらこちらを見てくる。俺は調子よく両の手の平を上に上げ、こりゃあ参ったというジェスチャーをしたんだ。

 そして、すぐに返事が返ってきたわけだ。英語が得意な彼女は同じノリの返事をしてきた。

『そうだね。私もYouとMerryするのはいいと思う』

 俺はその言葉に目を丸くしたね。だって、いきなり『君(俺)と結婚してもいい』だぜ? 驚くに決まってるだろう? だから、ウィットに富んだ返事を俺はするわけだ。

『式の日取りはいつにするかい?』

 これについては、俺からはOKという意味をこめたナイスな返しだと思ったね。今、思い返せばただの馬鹿な笑い話なんだけどな。

 それを読んだ彼女は声を上げて笑い出した。ついには、先生に注意されてしまった。怒られた彼女は笑いすぎででた涙を目尻にためながら、いそいそとペンを走らせる。

『Would you really like to "marry" me?』

 返ってきた返事はまさかの英文だ。ただなぜそこを強調するのか? 結婚したいと言い出したのはそっちだろう。まあ、いい。俺はでかでかと、

『YES』

 と、返事をしてやった。隣でそれを見ていた彼女はクスクスと笑う。ここは笑うところじゃないだろう?

 その熱のこもっていたであろう落書きでのやり取りはそこで幕引きになったわけだ。

 つまりはその後、彼女からの返事はなく授業を真面目に受けたんだ。俺は隣の存在を意識して授業どころじゃなかったね。

 そのまま放課後まで俺は何の説明もないままもやもやとした気持ちで過ごしたね。

 そして、放課後になると、

「よかったら一緒に帰らない?」

 と、誘われたわけだ。さっきまで何もアクションをしなかったのにいきなりだぜ? しかし、そんなことに腹を立てるほど俺の心は狭くない。二つ返事でOKしたね。当たり前だろう? 結婚してもいいと思えたやつなんだから。

 しばらく、無言で歩いて、彼女は立ち止まり振り向いた。

「ねえ、英語の成績、そんなよくないでしょう? 大丈夫?」

「急になんだよ? 確かに文章読むとき単語の読み間違いしてて、的外れな答え書くことはあるけど基本的には中の上だ。それに、英語の成績を上から数えた方が早い人に言われると嫌味にしか聞こえない」

「ああ、なるほど。そういうことか」

 目の前の彼女は何度も頷いていた。このとき、俺の将来はきっと決まってしまったんだ。

「なにがなるほどだよ。それになんだよ、そのにやけ面?」

「いや、ごめんごめん。ねえ、私と本当に結婚したい?」

「それは授業中にも言っただろう? 答えはイエスだ」

「まだ高校生なのに何を言ってるんだか。まだ付き合ってもないのに」

 目の前でクスクスと笑う。意味が分からなかったね。

「そもそも結婚という単語持ち出したのそっちだろう?」

 彼女は無言で授業中に書いていたルーズリーフを取り出して、自分の書いたところを指差す。

「なんで、私がここ強調したと思う?」

「そこを強調したかったからだろう?」

「違う、違う。私は結婚なんて言ってない。もう一回よく見て」

 俺は混乱する頭でやり取りを確認する。強調されたところは『marry』でその前のところが……『merry』になってやがる。どういうことだ? 知らないうちに書き直したのか?

「これ書き直した?」

 彼女は首を横に振る。俺は慌てて持っていた英単語帳を開いたね。意味を確認したんだ。『merry』の意味は『陽気な』だとか、『笑いを楽しむ』だとか、『お祭り気分の』だとかだ。メリークリスマスのメリーというわけだ。俺はそれを『marry』と勘違いして、結果告白しちまったわけだ。目の前で彼女は腹を抱えて笑っている。

「ねえ、私と結婚したい?」

「……イエス。で、式はいつにする?」

「うーん。早くても五年後かな? 私、大学は卒業したいもの」

「わかった。じゃあ、その日が来たら結婚しようか」

「イエス。いいよ」

 彼女は先ほどまでとは違った笑顔を浮かべていた。初めて握った彼女の手はとても冷たかった。それがほてってしまった俺の体を冷やしていくようでとても心地よかった――。


 そんなこんなで分かったかい? 落書きにも熱量はあるんだ。

 分からないだって?

 まあ、ここからは後日談だ。今、その彼女は俺の隣で久しぶりにそのルーズリーフを手にしているわけだ。あの日からあの落書きだらけのルーズリーフは彼女の宝物になったんだ。

 それから、ついでに今は娘がいる。中学校にあがった娘が嫁から馴れ初めを聞いて、そのルーズリーフを読んで大爆笑というわけだ。

 家の中の空気は暖かったけども、娘の視線はちょっと冷たいものが……ちょっとどころじゃなく、かなり冷たいものが混じっていたぜ。

 そんな傷ついた俺の心を嫁が相変わらず冷たい手で慰めてくれるんだ。

「最初はちょっとした落書きだったかもしれないけれど、私にとってはなにより大事で温かい落書きなんだよ」

 ってな。いい嫁だろう? あの頃よりも年老いた顔で、あの頃と同じような目で俺を見ているんだ。それはちょっとしたイタズラ心も含んだ笑みで――。

 俺はあの日からずっと嫁には頭が上がらない。あのルーズリーフはプロポーズの印で、印籠で俺を大人しくさせるには効果絶大なアイテムだからな。


 これで分かっただろう。落書きにも温度はあるんだ。どうだ? 最初に言ったとおり個人的な話だっただろう?

 何? これじゃあ、掲示板の便所の落書きのハートウォーミングの話と変わらないだって?

 そりゃあ、そうさ。これは俺にとっての最低で寒いプロポーズをしたってだけのハートウォーミングな話なんだからな。ただこれは俺の話であって、誰か俺じゃない別人の話をしてるわけでもない。言い訳がましいかもしれないがそうだろう?

 そして、俺はこうも言っただろう? 質問も批判も受け付けないと。そして、深く考えられると困る、適当に読み流せとも。そうでなければ、誤字だと思われるか、俺の勘違いに気付くやつが大勢でてくるかもしれないだろう?


 これは『落書き』に温度があったという話なんだ。

 そして、答えは常に『イエス』なんだぜ。実際にプロポーズし直したときも彼女は『イエス』って返事しやがったんだから――。

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