割れない風船 二
娃子の剣幕に屈したかのように医師はやってきた。
だが、この医師、まるで刑事のような物言いをする。まだ、検査が終わってないのでどうしようもないとのことだった。
「歩けよ、歩けよ」
と、またもそれだけ言って去って行く。その後も検査は続いた。
当時の病院とは医師がいて、看護婦がいて、そこへ患者がやって来る。そして、病気を治してやるのだから、病院側の言うことを聞け。何より、具体的な検査結果が出ないのだから、どうすることも出来ない。背中が痛むと言えば、痛み止めを打つ。
それもわからなくはないが、それにしても、どうして肝臓の薬なのか説明もないまま、食事も肝臓食が出て来る。もっとも、絹枝は薬も飲まないし、食事も食べない。その病院食は、娃子が食べている。実は看護婦がすすめてくれたのだ。
「ムスメさん、食べちゃったら」
最初は病人の上前を撥ねるようで嫌だったが、このまま下げれば廃棄されてしまうだけである。そこで、娃子は食べることにした。だが、この病院の食事はいい。
「わあ、エライごちそうやわ」
と、退屈しのぎに見舞いにやって来た正男が驚いていた。ここの食事はエビがよく出た。その日の普通食はメインが大きなエビフライだった。肝臓食は茹でたエビだったが、これも大きかった。隣のベッドの付き添いのハハオヤは、一応は売店で買っているが、病棟の賄いの人がご飯やおかずをあげていた。
また、娃子はこの病院の売店は安いと聞いていた。だが、実際に買い物をして驚いた。安いどころか市価より高い。さらに、この売店のオバサンと言うより、バアサンに近いのがレジにいる。病人食用の食材も納入している近くのスーパーの一族だが、入院患者や付き添いには売ってやるという態度で、黙って突っ立ったままで、千円札を出せば用が済んだら早く帰れといわんばかりに黙って釣りを出す。そのくせ、医師や看護婦がやって来れば、ぺこぺこ、へらへらとお追従に余念がない。
山の中腹の病院で周囲に住宅はあるが小さな店の一軒もない。バスは走っているが、寮生活の看護婦にしてもちょっとの買い物でバスに乗るのも億劫だから、高いとわかっていても売店で買う。それでも、バアサンの愛想がいいだけまだましだ。入院患者の評判は病院関係者の耳には入らないのか、入っても、患者や付き添いの買い物のことまで病院が関知することではないのだ。
入院したのは7月だったので、病室は冷房が効いている。いや、効き過ぎる。当時の冷房は、夏だから冷やせばいいとばかりに、喫茶店から新幹線まで長居していると逆に寒くなる。
病室の冷房も吹き付け式クーラーだった。弱にしても、風は容赦なく吹き付けて来る。見舞客は暑い中をやって来るので、中には冷房を強にしてしまう者もいたりと、とにかく冷えすぎるので、娃子は夏中、厚地の長袖のTシャツを着ていた。そして、よくわからないままに入院生活は続いた。
そんなある日、医師は一時帰宅を勧めた。娃子も病院暮らしに疲れていたし、何より、家に帰れば少しは眠る時間もあるだろう。今は週に一度仕方なくやってくる庄治と交代でなければ風呂にも入れない状況である。それで退院することにした。
だが、家に帰っても娃子の状況は変わらなかった。昼間は見舞い客がやって来ることもあり、庄治は相変わらず、仕事から帰れば風呂に行き、テレビを見て寝るだけであった。
二ヶ月の入院の後、二ヶ月家で過ごしたが、再度、絹枝は入院することとなった。娃子は今度入院する時は個室を頼んでおいた。もう大部屋で同室の人に気を使うのはいやだった。やっと、その個室が開いたとの連絡があった。
やっぱり、個室は人に気を使わないだけ気楽であった。だが、その気楽さも長くは続かなかった。看護婦長が個室を空けてほしいと言って来た。まだ、ひどい病人がいると言うのはわかるが、大部屋に行けばまた人に迷惑がかかるので、娃子は固辞したが、それを毎日のように頼まれては断りきれなかった。今度は二人部屋だからと病棟も移ることになった。それでも娃子は憂鬱だった。
今度の病棟は古くて狭かった。さらに、最初の入院の時は7月。凄まじい冷房で逆に寒さに悩まされた。そして今は晩秋。だが、この部屋も寒かった。
やって来た医師も寒い部屋だと言うし、看護婦も寒いと言って用が済むとそそくさとストーブのついている詰め所に戻るような有様だった。娃子はあまりに寒いので電気ストーブの使用を頼んでみたが、それは規則で許可されなかった。12月になれば暖房が入ると言うが、正直、娃子は腹がたった。
医師や看護婦は少しくらい寒い思いをしても、すぐに暖かい部屋に戻ることが出来るが、娃子たちはずっとこの部屋にいなければならない。何よりたまらないのが、夜中に見回りに来る看護婦が後ろ手でドアを閉めることだ。完全に閉まってない。すぐに冷たい風が入って来るので、起きて閉めなおさなければならない。それを幾度、婦長に訴えてもダメだった。わかりましたの返事だけで、毎日変わる夜勤の看護婦には伝わらなかった。これが総合病院の現状であった。
「夏も冬も寒いところへ入れやがって」
絹枝が言うのも無理からぬことである。さらにちっともよくならない自分の病状と、どうしようもない背中の痛み。それなのにこの病棟では痛み止めの注射を打つ回数が少なかった。前の病棟ではそこそこ打ってくれていた。
「注射、打ってくれない」
「まだ、だめです」
それだけではない。ここは夜の湯沸かし器の使用を禁じていた。だから夜、背中を温めることは出来なかった。看護婦が水まくらの小型版のようなゴム製の湯たんぽを貸してくれた。市販されてもいると言う。売っている薬局を聞き、娃子はそれを買って来た。これはいいと思ったが、すぐに絹枝は言った。
「こりゃ、だめじゃ」
娃子にすればせっかくお湯を入れたのにと、寒いこともあり自分の腰に当ててみた。じんわりとして気持ちよかった。温度も一定しているし、これのどこが気に入らないのだろうと思ったが、すぐに思い当たった。
絹枝はこんな湯たんぽ一つ当てがわれ、それで娃子が眠るのが許せないのだ。
こんなものは看病ではない。手を尽くしてこそが看病であり、只でさえ、ろくな看病もしない娃子が、これ幸いと楽をするのが許せなかった。
夜は湯沸し器が使えないので、どうしようもないにしてもその分、娃子が寝ることばかり考えてないで、背中を叩くなり
「自分ばっかり、寝やがって。食いやがって」
確かに、娃子は食べているが、ろくに寝てない。
絹枝はろくに食べないが、寝ている。だが、絹枝は自分は寝てないと言う。病院の夜は長い。日常生活で夜の9時に眠るのは限られた職業の人でしかない。それが入院となれば、昼間あまり活動しない人間に9時になったら眠れと言うのだ。それは病院側の都合でしかないのに、それが入院患者の宿命であった。だからと言って、そう簡単に眠れるはずもない。
何より、絹枝は消灯時間後の異様に静まり返った病院の空気が不安でたまらないのだ。こんな静けさの中で誰が眠るものかと目を見開いている。だが、早朝、人の気配が感じられるようになると、安心して気持ち良さそうに寝息を立てて眠りだす。そして、目覚めれば眠っていたことを忘れている。自分は寝てないと言い張る。だから、娃子が少しでも眠そうな顔をすれば、すかさず看護婦に言いつける。
「情けなぁ、夜、あれだけ寝とんのにまだ居眠りするんじゃけぇ」
娃子は居眠りをしたことは一度もない。途切れ途切れの睡眠でそれも窮屈な付き添い用ベッドで、体の片側を下にした状態でなければ眠れない。立ってでも眠りたいと思ったことはあるが、居眠りをしたことはない。
それでも眠そうにしただけでも絹枝にすれば居眠りになるのだ。絹枝には眠るための薬も出ているが、絹枝は一切の薬を飲まない。娃子は出されている薬の中でどれが睡眠用の薬なのか看護婦に聞いてみた。そして、ある日その薬だけを飲ませることに成功した。夜の6時頃から絹枝は眠りだした。ああ、これで今夜は眠れると思ったのも束の間。絹枝は消灯時間の9時にはふてくされた顔で目を覚ました。その時、娃子は言いようのない絹枝の執念を感じた。
また、隣のベッドには絹枝より少し年下のオバサンがいた。夜になるとその夫がやって来る。そして、夫がベッドにもたれて眠るのにつられるかのように妻も眠る。いい光景のようだが、そのいびきが二人して凄まじい。漫画でもここまで大げさには描かないだろうと思うくらいに、狭い病室の壁にひびが入りそうなほどの音声と音量だった。あまりにすごいので、娃子はもしや具合でも悪いのかと覗いてみた事もある。だが、不思議と9時前になると二人とも眼を覚ます。だから、看護婦はそのいびきの凄まじいデュエットを知らない。
隣のオバサンがこんな時間に寝るのも、眠ろうとする意思のない絹枝があれこれと娃子を起こし、看護婦を呼ぶことになるので仕方のないことと思っていた。だが、そのオバサンも絹枝の身勝手さに呆れていた。
ある夜、絹枝がうるさくて眠れないからと言って、廊下のストレッチャーの上で毛布を被り横たわった。その様は、娃子には院内でたまにすれ違う死人のように見えた。その後、その人は病室を変わり、また、新しい人が入って来たが、そのことによって絹枝の何が変わるはずもなかった。
ある日、看護学生が数人病室にやって来た。そして絹枝を車椅子での散歩に誘った。絹枝は渋っていたが、数人の学生に押し切られる形で病室を出ていった。娃子に眠るチャンスがやってきた。ホッとしてベッドにもたれ掛かれば気持ちいい睡魔が押し寄せて来る。
これで少しは眠れると思うも、すぐに、娃子は一人の学生に起こされた。絹枝に持たせたバスタオルをいらないと言ったので返しにきたのだ。娃子は腹立つ思いだった。バスタオルくらい黙って側に置いてくれればいいものを、眠っているのを起こさなくてもいいのにと思わずにはいられなかったが、十分に眠っている学生にしてみれば、バスタオル一つでもきちんとしなければ、それを不注意として後で怒られるかもしれないとの思いからなのだろう。これで、娃子は眠れなくなってしまった。
娃子の眠りは常に絹枝によってコントロールされて来た。
何も出来ない子供の頃は足手まといで、絹枝に眠ることを強要された。年頃になれば、寝ないででも絹枝の服を縫わされることもあった。今の絹枝は寝かさない病人だった。
「やれのう、若いもんが一晩や二晩、寝んから言うて、それが何なら。わしら、お前を夜も寝んと看病してやったんじゃにのう。ちゃんと出来んもんか」
これはウソである。娃子が火傷した時の事を言っているのだが、絹枝が昔語り言ったことがある。
「夜の12時までは庄治に看させて、それからはわしが看たんじゃ」
娃子は眠気を紛らわすために食べた。そして、睡眠不足が太ることも知ったが、そんなことに構っていられない。
「自分だけ、食いやがって」
だが、絹枝に何を勧めても食べない。ここ、数ヶ月ろくにものを食べない、水すら飲まない。これでよく体がもつものだと思う。ある日、看護婦長が絹枝の口元にイチゴを持って行けば、口に入れた。
----どう、私がやれば、こうして食べるでしょ。
と、看護婦長は得意そうにしていたが、どうにも妙だと思ったら、口の中に留めているだけだった。そして、イチゴをすぐに吐き出した。
また、人間の体の本体はこんなにも細いものだったのかと思わずに入られなかった。年を取っても張りのある自慢の雪のような肌も、今はその面影すらなくたるみ、あの光り輝いていた皮膚はざらついている。さらに、食べないということは口の中の舌をも荒らす。ひび割れた舌に婦長が紫色の薬を塗ってくれた。その薬を絹枝は前に塗ってもらったのと違うのを塗りやがってと、婦長が退出したのを待っていたかのように言った。
その薬は以前に塗ってもらったものと同じだった。それを絹枝は薬ビンを睨みつけながら、違うものだと言い張った。
「前の薬の方がえかった」
以前の薬は家に置いてある。再入院の際にそこまで気が回らなかった。あまりに絹枝が文句を言うので、庄治と交代で家に帰ったときにその薬ビンを娃子はポケットに入れた。そして、病室で絹枝に見せた。
絹枝はきっとして口を結び、一言も発しなかった。娃子は絹枝に安心させるために持ってきたのだが、そのことも絹枝は気に入らなかったようだ。
絹枝が何も言わず口を一文字に結んだのは、正男に釣銭を請求されたのを受けて、娃子が正男一家に自分の金で夕食の買い物をしたことを妙子の前で暴露されたとき以来のことだった。
だが、病人に付き添っているのは娃子だけではない。付き添いが職業の人もいるが、夫に付き添っているうちに自分も調子を崩し、一つの個室に夫婦して入院することになった人、結婚した娘が原因不明の病気で動けなくなり、ずっと付き添っているハハオヤ等。その顔ぶれはいつも変わらない。その誰もが疲れきっていた。だが、誰一人として少しの時間でも付き添いを代わってやろうとする者いない。また、病人も口うるさい付き添いよりも、たまにやってくる方を歓迎したし、看護婦も忙しいのか、つい付き添いを当てにすることが多々あった。その付き添いも病棟の隅で見舞客と揉めている。手は出さないくせに口は出す親類縁者。
これが付き添いの現状である。
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