第十章
割れない風船 一
裁判での決着が付けば、娃子の家を出るという気持ちに変わりはなかったが、
絹枝がグダグダうるさい。体が思うようにならないものだから、余計にでも文句を言う。そんな娃子を、絹枝はとんでもないところに連れて行った。
ある日、ふらつく体で出かけると言う。病院でもないのにどこにいくのだろうと思いつつ付いていけば、何でもない貧相な一軒の家に入った。木製のドアを開けるとちょっした祭壇が目に入った。側にケバケバしいピンクの蓋付きバケツの上に
そこは祈祷所。いわゆる拝み屋と言うところだった。
娃子は驚いた。これを驚かずに何を驚くと言うのだ。
今までに絹枝が神や仏に手を合わせるどころか、宗教の類などせせら笑ってきた。そんな絹枝が祈祷所なるものを知っていたこともさることながら、バス停からここまで迷わずに歩いて来たと言うことは、今までにもここに来た事があるのだ。
いくら思い悩もうと血と金しか信じない絹枝がよもや祈祷所に頼っていたとは、娃子はあいた口がふさがらなかった。
そこには年寄りの客と、どう見てもそこら辺の太ったオバサンでしかない女がいた。だが、その女が祈祷師であった。
その祈祷師は祭壇に向かってなにやら拝んだ後、絹枝に指圧のようなことを始めた。
「ここが悪いんじゃない」
絹枝はうんうんと言っている。しばらく指圧のようなことをしてもらって絹枝の気分もよくなったようだ。
「あれ、みんさい。ようなったじゃろう」
と、帰り際にポリバケツの水を一升瓶に入れたのをもらった。年寄りの客は悪いところにその水をつければ治るとか、飲めばいいとか言っていたが、娃子にはどう見ても只の水道水にしか思えないし、誰でも指圧のようなことをされれば、気持ちよくなるだろう。
だが、指圧の効果も
それにしても、今までに絹枝はこの二つの祈祷所に何を頼みに行ったのだろうか。道に迷うこともなく目的の場所にたどり着いたと言うことは、幾度か来ていたことに他ならない。
血と金しか信じない、そんな人間が一体何を、こんなところへ何を相談に来ていたと言うのか。
絹枝が血と金以外で解決できないもの。それは、娃子と庄治のことでしかない。
このどうしようもないヤツらのことは、神か仏に任せてみたくなったのだろうか。だが、今までにそんな素振りは微塵も見せたことはなかった。
それでも、自分の元気な間はよかった。だが、今の状態は今までの病気と違う気がしてならない。あれほど生に執着していた秀子が、絹枝より長生きすると豪語していたのに死んだ。やはり、不安になった。
そこで思い出したのが、祈祷所だった。
「ああ、わしは働きすぎたんじゃ。じゃけん、こんな病気になってしもうた」
絹枝の恨み節は始まった。そして、子供の頃ハハオヤがチフスにかかった絹枝を周囲に内緒で隔離して、近くのお堂にお参りに行って治った。だから、そのお堂に入ってみてくれという。
これは庄治が行った。だが、そこは以前は人が常駐していたが、今は時々しかやってこないとのことであり、また庄治は別のお寺でお札をもらってきたが、そんなものが効く筈もなかった。
娃子も子供の頃から宗教に親しんでないせいもあり、特別に何かを信仰する気はないが、そんな娃子でも、絹枝は勝手すぎると思う。
いくら困った時の神頼みにしても、日頃知らん顔している者が、辛い時だけ助けてくれでは虫が良すぎると言うものだ。それも、すぐにでも治せ、そしたら、少しは考えてやる…。それでは祈祷所でもお堂でも、熱心に参ってこそ願いを効いてくれるのではないだろうか。
当然、絹枝は早い回復を望んでいた。そのためには医者でも神でも仏でもよかった。さらにその願いが叶えられないのなら、せめて娃子や庄治がもっと親切に看病してくれても良さそうなものと思わずにはいられなかった。
絹枝は背中が痛む。そこを蒸しタオルで温めてくれと言う。娃子は毎日絹枝の背中の蒸しタオル作りに追われていた。それも、洗面器にタオルを広げ、その上に丸めた感じのタオルを置き、薬缶の熱湯をかけ広げたタオルで絞る。その蒸しタオルを背中に乾いたタオルを当てがい、その上に置く。最初はそれこそ「熱い熱い」と言うが、すぐに冷める。冷めれば、また、同じことの繰り返し。いや、タオルも頻繁に取り換えなければ冷たくなってくる。
それらを最低30分くらいやらなければ、絹枝は満足しない。湯を使うので指先はボロボロになる。短い距離でも数え切れないほどに往復するので足も痛む。さらには買い物にも風呂にも満足にいけない。庄治は週休二日で午後3時過ぎには帰って来る。帰ってくれば娃子は買い物に行きたい日もあるのだが、絹枝はそれすら嫌う。
「買い物なんか、ジイサンにさせれりゃぁ、ええじゃないか」
だが、庄治は娃子の言ったものを買ってこない。まったく違うものを買ってくる時もある。紙に書いたからと言って、それをしっかり見るわけでもない。昔から、庄治は何でも適当に済ます男であった。だから、娃子の言ったものでも一つか二つくらいしか覚えられないと言うより、今はその程度の思考回路しかないのだ。それほどに、年老いてしまっている。
庄治の今の仕事はボイラー室で市役所の不要となったものを燃やすことであった。それも一人でやるわけではないのでやりこなせている。そして、帰宅すれば、銭湯に行き後は酒を飲んでテレビを見て寝る。
それ以外のことはしたくない。それでも絹枝があれこれ言うので、仕方なくやっている。だが、庄治にすれば当てが外れた。少し前までは絹枝が家事をやってくれたので楽だった。そのことが忘れられなかった。酒を飲みながら、絹枝とあれこれ話をするのがよかった。なのに、絹枝が病気になっただけでもうっとうしいのに、さらに、絹枝は大人しい病人ではなかった。だが、今は娃子がいる。娃子がやればいいのだ。
庄治のそんな様子はすぐに見て取れたが、それでも疲れ果てた娃子は、庄治に背中の蒸しタオル作りをやらせたが、すぐに絹枝の「ぎやあぁぁー」と言う声が聞こえた。
「娃子、庄治のやつが冷たいのを当てやがった」
「わしゃ、知らんわい」
「ひどいやつじゃ」
庄治はさっさと床についた。庄治は毎日のように銭湯に行くが、娃子は毎日はいけなかった。とにかく、娃子が側にいなければ絹枝は怒り、夜中でも平気で起こし、蒸しタオルで温めろと言う。
絹枝は多くを望んでいるわけではない。娃子だけでなく、庄治とて絹枝には恩がある筈だ。だから、その恩の万分の一でいいから返してほしいと思うのは当然のことではないか。なのに、返すどころか、二人揃って邪険な扱いしかしない。
自分がこんなに苦しんでいると言うのに、誰のせいで病気になったと思っているのだ。娃子と庄治を養うために必死で働いた。働き過ぎたのだ。
----ああ、やっぱり他人は、ダメじゃ。
絹枝の気持ちは今更ながらにそこに落ち着いた。
だが、絹枝には正男がいた。
----そうじゃ、正男なら……。
「正男ぉ。看てくれえや」
絹枝は受話器に向かって悲痛な声を発した。
正男はすぐにやってきた。絹枝のわがままに辟易していた庄治は言った。
「正男が連れて帰る言うたら、連れて帰らさんかい」
だが、娃子はなに正男が病気の絹枝を引き取って面倒など見るものかと思っている。事実、正男は絹枝に気休めだけを言って、そそくさと帰って行った。だが、正男の気休めは絹枝にとっても気休めになったらしく、やっと総合病院での診察を受ける気になった。
そこに娃子と正男の違いがあった。
だが、総合病院での診察は大変だった。広い待合室も人でごった返していた。初診の手続きを済ませて内科の待合室に行ったが、そこでも人は多かった。さらに、絹枝は座っていることも苦痛らしく、椅子に寝そべっているものだから、そのことでも他の患者もいい顔をしなかった。娃子は内科の受付に行き、具合が悪いので診察を早くしてもらえないか頼んでみた。看護婦は渋っていたが、絹枝の様子を見て、何とかするのでもう少し待ってほしいと言った。娃子はその言葉で少しホッとしたが、その後の、もう少しの長いこと。
やっと順番になったが、あのまま黙っていればもっと遅くなっていたかと思えば、今更ながらにぞっとしたものだ。そして、絹枝は入院することになったが、その入院も部屋が空き次第と言うことでしかなかった。
帰宅した時は娃子も疲れていた。そして、絹枝がトイレに行くので、娃子は検便容器と割り箸を渡した。絹枝はここのところ便秘に苦しんでいた。取れるときに取らないと次はいつになるかわからないし、病院からは検便だけでも先に持ってきてくれと言われていた。
絹枝は「ゲーヘヘヘッ」と笑いながらトイレから出て来た。そして、娃子を一瞥しすぐに布団に入った。
娃子がトイレをのぞぐとわずかの便が便器に残されていた。娃子はそれを容器に入れて水を流した。
絹枝が笑い続けているのは知っていた。
----ゲーヘッヘへェ。娃子に、クソの始末させてやったぞ。ヤッタヤッタ。してやったぁ。これくらいしても罰ゃ当たりゃあせんわ。今までしてやったんじゃ。へへへへへっ。
だが、絹枝の笑いもそこまでだった。
絹枝は気に入らなかった。娃子が何も言わずにそれを平然とやりこなしたのが気にくわなかった。
----なんと、かわいげのない、ヤツよ。
絹枝は娃子が、いやだとか、汚いとか大騒ぎするものと思っていた。それを見てさらに笑ってやるつもりだった。その後で、オヤのありがたみを説いてやるつもりだった。子供の頃、娃子の尻の始末をしてやったのだ。そのお返しをしてもバチは当たらない。だが、それを言う気にもならないほど、娃子の態度はふてぶてしかった。
さらに、ともすれば娃子は夜になれば眠ろうとする。夜こそ絹枝は眠れないのに、勝手に寝るのが許せなかった。こんなに苦しんでいるオヤを放ってからよく眠れるものだと思う。ここに娃子の情の冷たさがあった。
そして、入院の日がやってきた。4人部屋は思った以上に広かった。娃子は後は看護婦に任せて帰ろうとしたが、絹枝は娃子が帰るなら、一緒に帰ると言い出した。
当時の総合院は付き添いを認めていた。絹枝のゴネ得で、仕方なく娃子は付き添うこととなった。付き添い用のベッドと布団は借し出しがあった。
同じ部屋に付き添いの人はもう一人いた。隣のベッドの30代の女性は原因不明の病気で歩くことも出来ず、トイレも、歯ミガキもベッドの上だった。その人は結婚して子供もいるが、ハハオヤがずっと付き添っていた。
だが、絹枝は入院したからと言って、その態度が変わることはなく、すべてが自分本位であった。
まず、病気を治してやると言うので入院してやった。そのためには医師も看護婦も全身全霊で絹枝の看護に当たるべきであった。それなのに、ここの医師も看護婦も冷たかった。
医師は絹枝に歩くことをすすめたが、絹枝にはその気はなく、そんなに遠くないトイレすら行くのを嫌い、ポータブルトイレを持ち込ませ、他の患者が食事中であっても平気で使った。
そして、ここでも絹枝は背中の蒸しタオルはやめなかった。そんな娃子の様子に一人の看護婦は蒸しタオルをポリ袋に入れればタオルが冷めにくいと言ってくれたが、娃子はかすかに笑うしかなかった。
それではダメなのだ。そんなずぼらを絹枝が黙っているはずがない。側に誰がいようと娃子に文句を言わない日はなく、夜中こそ、娃子を起こした。
----同じ看病するのなら、もっとしっかり看病出来んもんかのう。昔から何をやらせてもダメじゃったが、大恩あるオヤが病気の時くらいしっかり出来んとは。そのために今までものすごい金をかけて育ててやったのに、こんな時のための育ててやったのに。いつまで経っても役立たずは役立たずのままじゃ。何と、情けないことよ。
他の入院患者のもとに、たまに見舞いにやって来るだけのムスメやムスコを絹枝はほめた。
「見てみい。よそのムスメはやさしかろうが。お前とはエライ違いじゃ」
それはたまにやって来るだけだから、やさしいことも言えるのだ。看護婦にたて突き、他人の迷惑も顧みない絹枝のために、娃子が周囲にどれだけ気を使っていることか。
「病人には親切にするもんよ!」
と、平気で看護婦に言う。絹枝はほとんどすべての看護婦を嫌った。
看護婦とは、患者の苦痛を和らげるためにはあらゆる手を尽くすのが仕事ではないのか。そのためには側でぼんやりしているだけの、娃子を叱り付けてくれるものと思っていた。
さらに、おのれは評価されてしかるべき、すばらしい人間だ。そんな人間が病気になったのだ。看護婦もそのことに敬意を払い、何はさておき他の患者は放っておいても絹枝のために誠心誠意尽くすべきだ。また、そうしてもらって当然である。
それなのに、逆に文句を言う。
「ここはホテルではないんよ!」
看護婦も絹枝を嫌った。看護婦も人間である。患者の言いなりになるのが、看護婦だと思っている絹枝のわがまま身勝手さに呆れていた。
「うるさいオバアサンじゃね」
娃子は看護婦に言いたいだけ言わせておいた。娃子が何も言わないものだから、看護婦も思ったことを口にする。
ここに来て絹枝は本性を現した。本当は
世間に甘やかされた、いや、世間が絹枝を甘やかした。
だが、その実は世間という節穴が作り上げた虚像にまんまとのっかって生きて来たにすぎない。少しは取り繕ってきたが今はそんな気もない。自分が如何にわがままな人間であるか、あったかと言うことにも気が付かない。
ここに来て、絹枝は本性を現した。だが、このことによって、世間の絹枝への評価が変わるわけでもない。狭い場所でのわがままが世間に知れ渡る筈もない。絹枝もそのことを承知していた。旅の恥はかき捨てのように、病院の恥もかき捨てであるし、弱い立場の病人が苦痛を訴えて悪かろう筈はない。
一方の、娃子は絹枝のわがままもさることながら、総合病院のシステムというものにも疑問を持った。入院してからの絹枝は毎日が検査検査の連続であった。軽い検査から始まっていくのはわかるとしても、病気の原因が特定できないと言いながら、数種類の薬が出ている。これは何の薬だろう。看護婦に聞けば、痛み止めと肝臓の薬だと言う。食事も肝臓病用の食事なのだ。だが、娃子は絹枝の肝臓が悪いと言う報告は受けてなかった。もっとも、絹枝はガンとして薬を飲まなかった。また、食事もほとんど取らず、たまに果物を無理やり食べさせた。それも少しの量でしかない。当然体は痩せ細って行く。
それにしても、どうして医師はやってこないのだろう。
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