これにて、一件…
ようやく、筆跡鑑定の結果が出た。
何より、手渡された鑑定書のコピー冊子の膨大さに驚いた。
◎ 目次
第一 緒 言
第二 鑑定資料について
第三 筆跡の鑑別に関する一般的説明
第四 鑑定資料の比較検討並びに説明
第五 鑑定
付録写真
尚、第四と第五の間には、茂子、君男のそれぞれの文字の筆跡についてと、総括的な筆跡検討についての記述がある。
第一の緒言とは、鑑定依頼を受けた日付、場所、依頼人と資料の点数等の記述である。
第二は鑑定資料についての記述である。養子離縁届と茂子の場合は封書1点、ハガキ9点。君男は薄黄色の簡易書簡と葬儀用の金包紙2点。これらすべての資料説明から、その他、日付や郵便物の場合はその売価まで、事細かに
第三の筆跡の鑑別に関する一般的説明とは、筆跡が同一人によって書かれたものであるか否かを鑑別することは通常一般に困難な場合が多い。
つまり、その人が同じ筆記用具で同じ文字を書いても、全く一致する筆跡は書き難い。その時の感情や心理的状態等が筆跡に色々影響を及ぼし、時には意図的に《改竄》や他人の筆跡を模造することも考えられる。また、年齢や病気によっても筆跡は変化がある。よって、筆跡の鑑別・判定することは決して容易ではない。
だが、各人の筆跡とは長年の積み重ねであり、容易に他人が模倣できるものではないが、慎重に審査検討を加えれば、その異同を解明することは可能である。
ここまででも、かなりの文字数であるが、さらに、驚かされたのがそれらすべての文字についての鑑定である。つまり、鑑定資料の一文字ずつについての鑑定が記されている。これが第四である。
第五、鑑定結果。
茂子、君男共に、同一人の筆跡と認められる。
最後に鑑定人の名が記されていた。
膨大な文字数はすべてが手書きであり、鑑定にかかった日数、五カ月。費用、十万円。
やっぱり、そうだった。
娃子の目に狂いはなかった。だが、一つの鑑定結果が絶対と言う訳ではない。無論「この鑑定はおかしい」と異議を唱えられる。再度、鑑定を依頼することも出来る。結果、違う鑑定が出た場合は再々度の鑑定もあり、最終的には裁判所がどちらの鑑定を採用するかを判断する。
とにかく、一応はこちらに有利な鑑定結果が出たのだから、いいとしても、まだ、裁判は終わったわけではない。それまでに、また、正男が何かやらかさないとも限らない。
実は、これらの間に邦男が店の権利金と電話債券の金、24万円を持って帰ったと言うことが発覚した。そのことを正男が知らなかったのではなく、口にしなかっただけである。正夫が邦男と電話をしている時、ふいに言った。
「お前、店の権利金と電話債券の金、持って帰ってるやろ」
正夫が受話器を置くより早く、娃子がどう言う事かと問い詰める。
「いや、あいつがな。持って帰ってんねん」
何と、秀子の美容院の権利金と電話債券の金を邦男が持って帰っていると言う。それで、邦男は何と言ったのか。
「そんなん、勝った方にやるわ」
つまり、金は裁判に勝った方に渡すと言う。だが、邦男はこの裁判は君男が勝つと思っている。
なぜなら、正夫と絹枝はどうしようもないアホバカだからである。あの悪知恵の働く君男に勝てるものか。また、君男はこの金のことは知らない。だから、この金は自分のものとなると思っている。
----これくらいの金。貰といてもかめへん。
だが、これは後回しでいい。先ずは裁判での決着が先である。
最近の、娃子は裁判かつ正男の揉め事で仕事を休むより、絹枝に付き合わされて休むことの方が多くなっていた。
絹枝は背中が痛いと言う。そこで病院に付き合わされる。だが、どこの病院に行っても病状ははっきりしない。それだけではない。すぐに医師や看護婦の対応に文句を付ける。ある外科で背骨のレントゲンを撮った。すると、竹の節から芽が出たように、信じられない数の軟骨が垂れ下がった。だが、絹枝はそれを信用しない。
「はっ、あの医者、ヤブじゃ。何が骨が出来るもんかっ」
そして、また、別の外科で同じことを言われた。
「前のあの医者。よう見たの」
それは、娃子が見てもわかるレントゲン写真である。だが、どうにも背骨の痛みだけではないようにも思えた。食も細くなり、寝込むようにもなっていた。
体調の思わしくない絹枝であったが、それでも正男のこととなれば必死である。そんな体をおしてでも裁判の日には大阪にいた。弁護士会館の食堂で、弁護士との話し合いをした時も、以前のように正男と弁護士の話に口を挟むような元気さはなかった。眼の前のジュースに手をつけるではなく弱々しい声で食事の終わった弁護士にすすめていた。
裁判当日、娃子は先ずその法廷の広さに驚いた。やっぱり大阪地裁ともなれば規模も違うのか、少人数でもこんな大きな部屋を使うのだ。傍聴席には君男の妻と茂子がそれこそポツンと座っていた。
いよいよ、裁判が始まった。だが、正男と君男は退出させられた。
娃子一人が、尋問されることになり正直どぎまぎした。娃子のそんな様子を見て、裁判長は椅子をすすめてくれた。
結局、鑑定書もあり、上申書に書いてあることへの質問であった。それでも随分長かったように感じた。記憶力には自信のある、娃子もやはり緊張でその内容もほとんど覚えてない。
そして、裁判は終わった。後日、どんな結果が下されるのだろうと思いつつ、退出したのだが、すぐに裁判官がやって来て正男に言った。
「これ、和解になりませんか」
あの土地を三等分ずつの所有にしてはどうかと言う提案だった。娃子は「えっ」と思ったが正男は即答した。
「ふぁ、そんで、ええわ」
娃子は驚いた。こっちは、養子離縁届は偽造ではないとの「証拠」を提出したと言うのに、和解とは…。
それでも、肝心の正男が承知したのだから、これで、決着となってしまった。
わずらわしいこと、面倒なことの嫌いな正男はすぐにその和解に応じた。よって、あの土地は絹枝、正男、茂子で3分の1ずつ所有することになった。正男は家賃収入の3分の1を支払うこと。そして、当分の間、あの家は現状のままとすること。
君男にしてみれば、まさか筆跡鑑定とは、それこそ青天の霹靂だったことだろう。一審で勝った。一審を覆すことは容易なことではない。この裁判はもらった。これであの家が自分のものになる日も近いとほくそえんでいたに違いない。正男がすごすごと出て行くのを笑いながら見てやろうと思っていた。
それが、よもや、筆跡鑑定とは。また、絹枝や正男にそんな知恵があったとは…。
だが、聞いてびっくりした。弁護士交代から筆跡鑑定まで、すべて娃子が仕組んだことだった。
あの娃子が……。
君男が知っているのは10代の娃子でしかないが、それにしても正直ここまでやるとは、夢にも思わないことであったが、悔しくてどうしようもなかった。さらに、筆跡鑑定の資料の中に、自分が刑務所から恒男に宛てた簡易書簡があった。まさか、あんな古い手紙が未だに残っていようとは…。
金包紙だけなら、不服申し立ても出来ようが、刑務所の住所入りではどうしようもなかった。こうなったら和解に持ち込むしかない。
弁護士は、君男はこの鑑定に不服であり、新たに鑑定のやり直しをしたいのだが、金がないと弁護士が言っていた。だが、娃子は君男に金がないことも事実だが、鑑定のやり直しを言い出したのは、弁護士に対する単なる見栄だと思った。あくまでも、これは自分が書いたのではないと、弁護士にも妻にも知らしめておかなければ、自分が「偽証」したことになってしまう。そのためにはもう一度鑑定をと言わなければならなかった。金がないので仕方なく和解に応じるとポーズを見せたまでだ。だから、その和解工作もこのままでは茂子がかわいそうだ、とかとか、必死になって弁護士に訴えた。
結果、三分の一の取り分で手を打つしかなかった。
これが、激情に駆られて人を殺した男の実像である。
君男に限らず、殺人の罪で刑務所に入っても、例え死刑になったとしても、人を殺したことを心から悔いている者はほとんどいないと言う。
殺すまで追い詰めた相手が悪い。運悪く捕まってしまった。
それでも刑期を終え、出所すれば、償いは済んだとばかりに平然と暮らすのはともかく、こうして、噓をついてまで、遺産の横取りを企む。また、裁判所はその嘘を易々と信じるのである。
どうして君男の「偽証」を問わないのか。刑事事件ではないにせよ、一審では君男の「私が書いたのではありません」の一言で養子縁組は無効となったではないか。それを二審では、君男も茂子も自書していると言う「証拠」を提出したのに、裁判官たちは、まるで、一審の事なんぞ知らん顔である。
後で知ったことだが、特に民事の場合、裁判官は出来るだけ早く決着を付けようてする。後が
今回の裁判長も、きっと、三方一両損の大岡裁きでもやった気でいるのだろう。
----どうだ。この、メイ裁き! これにて、一件、落着ぅ!!
このセリフは何度でも吐きたいことだろう。出来れば、週一で。
----やれやれ、次もまた、欲の皮の突っ張った遺産争いか…。
裁判で真実が明らかになると思ってはいけない。何も明らかにはならない。
裁判とは金も時間も膨大に消費されるだけでなく、身も心も疲弊・摩耗させられてしまう。判決が出たとしても、和解したとしても、一件落着した、させたのは裁判所だけである。
裁判とは、しないに越したことはない…。
そして、弁護士からの請求金額が、今後のことも含めて200万円だった。
「私ら、まだ、ボーナスもらってないんですよ」
季節は7月の末だった。弁護士も事務所の人たちもこの金を当てにしている。金は正男が現金で持ってくることになった。
「娃子、お前が大阪まで行ってやれ。ありゃぁ、金落とす」
正男が如何に頼りないオトートであるかを絹枝自ら証明をした。いや、それほどに正男のことが気になるのだ。体調が悪くなったからの絹枝は今まで以上に正男のことが気になってならない。だが、いくら正男でも金には慎重だろう。事実、正男は落すことなく金を持ってきた。
その金は、木戸が自宅まで取りに来てくれた。だが、領収書には収入印紙が貼ってない。
「弁護士は収入印紙、いらないんです」
また、どうでもいいことだが、では君男は弁護士からいくら請求されたのだろう。君男がそんなに金を持っている筈はなく、これから毎月振り込まれる家賃も知れているのが、ちょっと気になった。
そして、もう一つ残っている。邦男がネコババしようしている店の権利金と電話債券の金である。
「邦男にやるくらいなら、共産党に使うてもらえ」
この時は絹枝もまともなことを言った。娃子は木戸に相談した。
「誰の金かと言えば、また、裁判ですよ」
と、木戸はこれまた事も無げに言った。
「まあ、内容証明送ってみましょうか」
数日後、木戸からの電話があった。
「どうしますか。金額が少し違うんですけど。これで、手ぇ打ちますかぁ」
正男は24万円だと言ったが、邦男は18万円だと言う。
弁護士事務所で、邦男からのハガキを見れば、自分の勘違いだったので、金は返すと書いてあり、18万円振り込むとあった。結局、それで手を打つことにした。
それよりも、何が勘違いなものか。最初からそのつもりだったくせに。それにしても、邦男はどうしてこんな寸借詐欺の様な事をしたのだろう。
もう少しは悪知恵の働くヤツかと思っていたが、どうやら、それは買い被りだった。つまるところ邦男の取り分は6万円。6万円でも無いよりはマシかも知れないが、そんな小さいことより、どうして茂子の縁切り後に自分のムスメ、いや、自分自身が秀子の養子になろうとしなかったのだろう。養子になったとて、姓は変わらない。
一時は秀子も頼りない正男ではなく、邦男の世話になろうと気持ちが傾いていた。邦男のヨメは秀子とは血縁関係である。
「今日は母の日ですから」
と、ちょっとした菓子を持って来てくれたこともある。
「まあ、オバサン。私ら、本当のオヤの様に思うとんのにぃ」
この時は嬉しかったが、その気持ちを打ち砕いたのが、邦男だった。
何と、土地の一部をくれと言った。くれたら秀子の面倒を見てやると匂わせたが、秀子は返事をしなかった。この時、邦男に失望した。
楽して「実利」を得ようとした邦男だったが、最後は6万円死守に沈んだ。
とどのつまり、恒男の身内には、ロクな奴がいないと言うことだ。もっとも、秀子の身内はポンコツばかりである。
娃子は木戸に内容証明用の料金を聞いた。
「それはいいですから、出来たら、こちらに少しお願いできませんかね」
見ると、新しい地区事務所のためのカンパ用紙だった。そして、5万円カンパして、残りは絹枝と正男で分けた。
これで、死んだ秀子から丸投げされた後始末は終わった。2年で終わった。
終わったには違いないが、娃子は空しかった。
誰が何がと言うのではない。今までもそうだったが、ものすごい人生を歩かされているのに、何も残らない。何も感じられない。
いや、またしても、娃子はどうしようもない事態に閉じ込められようとしていた。
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