妙子の場合 一
----秀子 !
そこに、秀子が座っていた…。
いつもの座に、秀子がいた。
妙子は一瞬、幻覚を見たのかと思った。だが、それはある意味幻覚だったかもしれない。
よく見れば、そこに座っていたのは正男だった。
それまで秀子が座っていたところに正男が座っていた。それにしても、幻覚とは言え、秀子と正男を見間違えてしまうとは…。
絹枝と正男は似ているが、秀子と正男は似ていない。
「不細工二人、仲ええこと 」
と、生前の秀子は言っていた。確かに若い頃の秀子の写真を見れば、目鼻立ちの整った顔立ちをしていた。だが、今は見る影もないのに弟妹を
そんなことより、まさか、自分が秀子と正男を錯覚してしまうとは…。
人が死ぬと言うことは、この世から消えることである。昨日まで生きていた者が消えてしまうことである。
秀子が亡くなって、数カ月。この家はすっかり正男一家のものとなっていた。二段ベッド、タンス、テレビ、鏡台が
妙子は羨ましかった。
----遺産が入るて、ええなあ…。
正男を見ていると、つくづくそう思う。妙子に遺産の入る当てはない。だから、少しでもそのお
----そや、金庫の中にはいくら入ってたんやろ。
と、つい、何の得にもならないことまで考えてしまう。それだけではない、これからの正夫にはこの家だけでなく、借家の家賃も入って来るのだ。それも、どうやら絹枝には1円もやってないようだ。つまり、すべて丸盗り…。
さらに、うるさいハエがいなくなった。もう、葬式が済んだ後の正男一家はそれこそ
金はある、やかましいババアはいなくなった。また、絹枝も正男が岩おこしを買ってくれたことをこの上なく喜んでいた。
こんないいことがあるだろうか。最初はその様子を妙子も喜んでいた。早いうちに秀子が死んでよかったと思った。これからは、みんな仲良くすることだろう。
思えば、妙子も秀子にはやられてばかりだった。
平たく言えば、秀子と妙子は大家と店子の関係だが、家賃さえ払えばそれでいい、とはいかず、最初から上下関係は決まっていた。また、美容院を経営していると言うことで、町内でも一目置かれる存在であり、恒男の身内も何かと頼って来た。そんな成功者としての自信が、秀子をより権高くしていた。
当時はもらい風呂をしていたこともあり、盆暮れにはビールを届けていた。それだけではない。秀子は何かと妙子をこき使った。秀子は酒は飲まないが、人を呼んで宴会をするのは好きだった。そのための料理作りに妙子を呼び付けられたものだ。
料理と言っても、硬いチリメンジャコ、刻んだ
これが持つ者と持たない者の差だった。だが、秀子は猜疑心が強かった。物が見当たらないと誰でも疑う。
「もう、何でも、茂子やからっ」
物が見当たらなければ、先ずは茂子の仕業と決めつけてしまう。ほとんどの場合、秀子の置き忘れ、隠し忘れなのだから、茂子が怒るのも無理はない。そんな子供の頃からの積み重なった恨みか、茂子は成長とともに反抗的になり、本当に家の物を持ち出すようになってしまう。
秀子の猜疑心の犠牲者は茂子だけではない。
妙子の内縁の夫のムスコが訪ねて来たことがある。妙子は歓待し、秀子にも引き合わせた。だが、その後、恒男の時計が無くなったと、秀子はムスコを疑った。妙子はやりきれなさに神に手を合わせたものだった。それも、やはりと言うか、茂子が持ち出したものだった。
その後も、茂子は家出を繰り返し、養子縁組は解消したものの、果ては脳梅毒で精神に異常をきたし、今も精神病院に入院している。
恒男の死後、幸子の勧めで正男一家を呼び寄せた時も、妙子の不安は的中した。只でさえ気に入らないヨメの嘉子をあろうことか、秀子は竹箒で殴りつけたのだ。
いくら何でもと思わずにはいられなかった。その後、正夫と嘉子は離婚。そのことでさえ、悪い部分は絹枝に押し付けた。
「絹枝が正男にあのヨメを戻すんなら、キョウダイの付き合いはせん言うたんやさかいな」
嘉子がいなくなったからと言って、秀子の気苦労が解消されたわけではない。当時、智男は中学生、孝子は小学生、一番下の博美は幼稚園だった。この3人に加え、何もしない正男の世話に明け暮れることになる。また、子供とは言え、智男と孝子は一癖も二癖もあると来ている。あれこれ教えてやっても、聞く耳さえ持たない。
それなのに、オヤである正男は子供たちに何も言わない。すべて秀子に丸投げ。休みの日には日がなテレビを見てゴロゴロしている。
さすがに妙子も少しは秀子に同情したものだ。それでも、自分の蒔いた種ではないか。
秀子は何でも幸子に相談していた。妙子はこの幸子が余り好きになれない。相談に乗ると見せかけて、自分の得になるよう秀子を誘導しているように思えてならなかった。事実、そうなのだが、人一倍猜疑心が強いくせに、秀子には幸子が何かと頼りになる友達だと疑わないのが不思議だった。
恒男の死後、今のアパートを上乗せする時、幸子と大工の話を聞いてしまった。
「ケチなだけの何も知らんアホやさかい。そこそこやっといたらええねん。そん代わり、ええな。わかってんな」
「わかってまんがな。そこは…」
と、2人して笑っていた。
それから、10年後、その秀子も亡くなった。今度は幸子は正男に付く振りをしつつ、この家の主導権を握った気でいた。君男が茂子の養子縁組解消は秀子の偽造であると訴えた時でも、幸子は自分の出番とばかりに張り切っていたが、それは絹枝によって却下された。
「もう、手ぇ引いて下さい。うちのことはうちでやりますんで。第三者は手を引いて下さい」
妙子はその時の幸子の顔はさぞかし見ものだったろう。悔しさに歪んだであろう幸子の顔を妙子も見て見たかった。何しろ、秀子以上にバカにしていた絹枝に手を引けと言われたのだから。
絹枝もいざとなったら、言うべきことは言うのだと感心したものだが、そうではなかった。後で博美が言った。
「あれは、娃子ネエチャンが、明日あのオバサンが来たら、こう言ってとオバに言うてて、その通り言うたんやわ」
----何や、そやったんか。そやろなあ。あの絹枝さんがあないキチンともの言える人やないわなぁ。
裁判は今も続いているが、その間にも正男の金使いは荒くなっていた。正男宅の玄関には3人の子の靴やサンダルでそれこそ足の踏み場もない。さらに、正男は趣味のカメラを孝子はラジカセを買いまくり、古いカメラやラジカセはそのまま放置され、埃をかぶっていた。
----こないだ、買うたばっかりやのに。裁判で、金いるやろに。
妙子はふと思った。裁判沙汰になってから、絹枝たちはしばしばやって来た。時には、娃子一人でやって来る時もあった。それは、一重に正男が情けないからである。ちょっと困れば絹枝に電話をする。だが、いくら言っても、優柔不断と言えば聞こえはいいが、要はビビりまくるだけの正男である。仕方なく、絹枝か娃子がやって来る。
----汽車賃、やってるんやろか。まさか…。
そう言えば、あの岩おこし以来、正夫から何か買って貰ったと言う話も聞かない。何かして貰えば、絹枝が黙っている筈はない。オトウト思いの絹枝である。それこそ、自慢しまくることだろうに、それがないとは…。
絹枝に何もないとすれば、娃子にも当然ない。
----娃子ちゃん、あんなにようやってんのに…。
妙子は思い出した。秀子の葬儀後、娃子から買い物の釣りを受け取ってないと正男が言ったものだから、絹枝はまだ寝ている、娃子を叩き起こしたことがあった。その釣り銭と言うのが300円ちょっと。
これには、妙子も呆れるしかなく、思わず言ったものだ。
「へえぇ。秀子さんもケチやったけど、正男さんもケチやなあ。アンタもそれくらいの金、貰といたらええのに」
娃子は貰う気などなく、ただ、バタバタしていて返しそびれただけだと言っていた。そして、昨年の秋、娃子が不意にやって来た時、秀子が町内旅行で留守はともかく、冷蔵庫には本当に何もなく、その日の夕食は、娃子が食材を買い作ったとも言った。思わぬ、娃子の反撃にいつもは口数多く決して黙っていられない絹枝だが、今度ばかりは返す言葉もなく口を一文字に結んだままだった。
そんなこともあった。
そして、妙子は気づいた。
----そやわ。
秀子が絹枝から金を巻き上げ、この家を買った。その後、絹枝がいくら貧乏していても、金を返すどころか、汽車賃すら出してやらないだけでなく、夕飯のおかずすら絹枝に買わせていた。
今、正男はそれと同じことをやっている。直接金を巻き上げるようなことはしないまでも、今まで、あれだけして貰ったと言うに、岩おこし一つでチャラにした気でいる。夕飯を作ってくれた、娃子にすらわずかの釣銭を請求した。
後に、正夫が絹枝を旅行に誘った。珍しいこともあるものだと思った。町内旅行も秀子が死に旗振り役がいなくなったこともあるが、旅行社のツァーに申し込む人の方が多くなっていた。
正夫もその一人だった。そして、いつも博美を連れて行くのだが、さすがに絹枝のことも少しは気遣う気になったのかと思ったが、何のことはない。博美は美容師の国家試験があるので今回は行かないと言ったので、仕方なく絹枝を誘ったと言う訳である。また、智男が車を買うので駐車スペースの為に、とっくに物置と化している洗濯機を取り付けただけの部屋を取り壊している時、妙子は言った。
「ついでに、この庭。駐車場にしてオネエサンにもお金入るようにしてあげはったらどないやのん」
これも正男は無視した。
妙子は正夫は気の弱い大人しいだけの男だと思っていたが、そうではなかった。秀子が絹枝に一切金を使わなかったように、正夫も絹枝には金を使わない。そのくせ、ちょっと脅されればヒゲさんには何十万と言う金を出した。
だから、絹枝にとって、この家は秀子と正男が入れ替わっただけの「箱」でしかない。それでも、絹枝はオトウト思いの優しいアネだった。
----すごい人やなあ…。
妙子は絹枝を尊敬していた。
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