異常なるもの 三

 その年の暮れ近く、角田さんと電話で話をした。

 娃子が会社を辞めて数か月後、彼女も辞めたのだ。理由は、オジサンからの毎月の金貸せが嫌になったからだと言っていたが、あれからも会社と色々あったようだ。無理に働かなくても済むなら、それもいい。娃子とて、主婦業に専念してみたい。

 だが、オジサンが家までやって来たと言う。


「カドッちゃん、これ、見てくれや」

 

 と、給料明細を見せた。基本給の安い会社である。それを手当でカバーしていたが、その手当てが見事に削られていた。このオジサンも以前は印刷会社を渡り歩いていたが、今はどこも先細り状態であり、もう、行くところもないのだ。

 それで、金を借りに来たのだが、角田さんは貸さなかった。


やったら、1万円は借りれる思とったんじゃが…」


 そう言って、オジサンは帰って行ったと言う。


「悪いけど、もう、嫌なんよ。ホントは最後の金も貰ろうとらんのんよ」


 幸い、娃子のところへは電話はかかって来なかったが、後にオジサンが入院したと聞いた時、娃子は見舞いに行くべきかと思ったが、角田さんは言った。


「行かん方がええよ。行ったら、変な期待持たすだけじゃ思うよ。早く元気になりますように、祈とってあげりゃあええんじゃない」   


 娃子も仕事と絹枝の怒りとで疲れていたので、そうさせてもらうことにした。一方の久美子は結婚していた。


「背の高い人で、オバアチャンの面倒を見てくれる人」


 と言うのが、彼女の結婚条件だったが、背の高い人と言うのはクリアしたとしても、新居を構えた先が車で1時間以上かかるところだった。それで、ソボはどうなったのだろう。詳しいことは知らないが、やはり、結婚ともなれば、ソボより自分なのだろうか。



 智男から絹枝宛の封書が届いた。

 珍しいこともあるものだと思ったが、中から出て来たものは、切手の貼った返信用封筒と、紙切れが一枚。それは幅員ふくいん証明の用紙だった。

 おそらく智男が車を買ったので、車庫にするために必要なのだろう。あの土地は正男と絹枝の名義になっている。だが、他には便せん一枚入ってない。

 それにしても、返信用封筒を入れて置けばいいと、一体誰に教わったのだろう。以前の「皆、元気です」だけしか書いてなかったハガキと言い、孝子のみならず、いい大人の智男も未だに手紙の書き方も知らぬとは。また、宛名書きは博美の字であるが、これも返信用封筒の方は、緑色のボールペンで書いてあった。

 オヤの正男は人に挨拶すらしない。ムスコムスメは手紙の書き方も知らない。これで、生きて行けるのだ…。

 肝心の絹枝だが、思いがけない智男からの依頼とあって、もう、舞い上がっていた。智男が男でなく女であれば、絹枝も何かと話かけもしたが、オイであるとは言え、相手は男。いや、オイと言う男だからこそ接し方がわからぬまま、今まで、ロクに話をしたこともなかった。

 その智男から、何か頼りにされた。ここは是非にもオバとして、オイのに答えてやりたい。


「電話してみてくれえや」


 放っておけば、向こうから催促の電話がかかって来る。だが、例によって、絹枝は電話しろとうるさい。それなら、自分でかければいい様なものだが、それが出来ない、やろうともしない。

 娃子は必要な電話番号は覚えている。ただ、正男宅の番号は市外局番が長いだけでなく、覚えにくい番号だった。それでも、覚えようと思えば覚えられる。が、意地でも覚える気はない。その度に番号簿を取り出しゆっくりダイヤルを回す。

 そして、電話し終わった絹枝は言った。


「印鑑証明がいるんじゃと」


 印鑑証明 ! それを、こっちから電話しなければ言わないのか。あのまま、書類だけ書いて送ったとしたら、その時は怒って電話して来たことだろう。いや、オバへの手紙に返信用封筒など要らぬものだ。たいていの家には封筒便せんの類はある。切手を買いに行く手間を省いてやったつもりかもしれないが、では、印鑑証明は。

 書類を送り、すぐにも電話で印鑑証明も頼むと言うのが、ではないのか。


 ある夏の日、正男宅での夕食の時、智男はブリーフ一枚でやって来た。娃子は怒った。


「男じゃに、ええわ」


 と、絹枝は言ったが、娃子はこんなだらしない男は大嫌いである。湿気の多い国では裸が涼しいとは限らない。汗を吸い取ってくれる綿や楊柳を着ていた方が涼しい。そんなこともあった。


 毎度毎度、正男一家には呆れさせられる…。

 娃子は返信用封筒の緑色の宛名の上から黒のボールペンでなぞった。娃子が書いたものではないにしても、いくら何でも緑色の文字の封書では恥ずかしい。また、絹枝もやってくれた。何と印鑑証明を二枚送ったと言う。


「一枚じゃあ、足りんかったらいけんけん」


 印鑑証明について説明したとて、絹枝が理解出来る筈もなく、智男は残りの一枚は捨てたことだろう。悪用されないだけいいとするしかない。

 

 それでなくとも、絹枝は正男のことが気になって仕方がない。今は電話と言う便利なものがある。もう、しばしば電話をする。


「ふぁっ、ヒゲがまた来たあ。お前、また、金やったんか」


 娃子は片手を挙げた。


「五万か」

「まあな」

「何で、お前ゃ、ヒゲなんかに、そんなに金やるんや」

----わしにゃあ、くれんくせに。

「……」

「それで、また、何か言われたんか」

「いや、少し、欲しい言われたさかい」

「お前のぉ。何でそう勝手ばっかりするんない」

「……」


 正男は都合が悪くなると黙る。黙っていれば誰かがくれる。電話ではそうはいかないが、とにかく黙ったままである。自分から電話を切るようなこともしない。いつまでも黙ったままである。その時は絹枝も黙るが、やはり、絹枝の方がしびれを切らしてしまう。

 そんな正男もたまには電話してくる時がある。そして、これまた、正男も自分ではダイヤルを回さない。一応、目が悪いからと言うことになっているが、面倒なこと、やりたくないことは、すべて博美にやらせる。

 

「ヒゲが来てんや。何や、自分も裁判に出せ言うて、ヨメも一緒にごねてるんや」


 この時は、娃子が電話を代わった。


「そやから、紙持ってて、これがあるんやさかい、自分らにも権利がある言うて、居座ってんや」


 それなら、警察へを呼べと言った。


「呼んで、ええか」


 いいも悪いも、そうでもしなければ帰らないだろう。裁判ともなれば「関係者」にも通知の様なものが行く。それでやって来たのだろうが、それもこれも、正男がホイホイと金を出すからである。

 とにかく、法事のことも勝手にやってしまい、報告もない。そのことに絹枝が文句を言えば、決まって言い返す。


「忙しかったんや」


 また、これで、絹枝も納得してしまうのだから、始末に負えない。


「忙しかったんじゃと」


 次に正男宅へ行った時、娃子は博美にわざと何が忙しいのかと聞いて見た。


「何にも、忙しいことないよ」


 単なる口実でしかないのに、正男の言うこととなれば、易々と信じてしまう絹枝がバカバカしくも腹立たしい。


 

 義男が定年退職の後、どこかの金融機関に再就職をしたと聞いた時、娃子は意外な気がした。金融機関に再就職出来るほど義男に社会的地位があったとは思えない。それならば、子供の自慢をするだけでなく、おのれの自慢も抜かりなくやったと思う。いつかは二階建てにすると言っていた家も改築はしたものの、平屋のままだ。

 そして、正男が義男に頼まれてその金融機関に金を預けたと言うから、地方銀行や信用金庫ではなく農協の類だろうと思った。それにしても、そこでどんな仕事についているのかも知れたものではない。

 だが、正男がその金融機関から金を引き出そうとするのを、義男は嫌がった。正男が出しに行くたびに、窓口では。


「出さないようにしてくれと言われているんです」


 と、受け付けようとしないばかりか、義男が飛び出てきて、得意のダミ声でわめき散らすのだ。気の弱い正男は居たたまれなくなり、すごすごと引き上げるしかなかった。そのことをぼそぼそと電話してきた。

 娃子は金を引き出させないのなら、警察に通報するようにと言った。


「そんなこと、してもええんか」


 いいに決まっているだろ。客の金を預かっている金融機関が、その客からの引き出し要請に応じないことが許される筈はない。


「娃子、お前、行って出してやれ。ありゃダメじゃ。正男はよう出さんわ」


 電話を切った後、絹枝は言ったが、娃子はそんなことで仕事を休みたくなかった。その後、娃子から警察へと言う言葉が効いたのか、正男は金を引き出しに行った。当然、義男はすっ飛んできた。


「親戚付き合いせんでもええんじゃの」

「ああ、ええ」


きっと、義男は則子には「正男から、親戚付き合せん言うたぞ」と言ったことだろう。



 絹枝は火である。火とは暖かく食べ物を柔らかくし、それを人に振るまうのが好きな絹枝であるが、火とは常に燃えていなければならない宿命を持っている。燃えるからこそ火である。絹枝も自分の火を燃やし続けることに心血を注いでいた。小さな火花も燃えやすい枯れ枝も決して見逃さない。何もなければケンカを吹っ掛けてでも自分の心の火を絶やさない。

 そんな絹枝の逆鱗に触れたのが、娃子である。

 絹枝は赤ん坊をあやすのが得意だった。子は無くとも誰よりも上手に赤ん坊をあやした。世のハハオヤたちが赤ん坊に手こずっているのがおかしくさえあった。

 そして、義男から赤ん坊を押し付けられた。だが、束の間の赤ん坊あやしと違って、何と、人の子の世話の焼けることか。四六時中、赤ん坊がいると言うのは、想像以上にものだった。それも、あの義男の子である。ちょっと預かっただけのつもりだったのに、義男はすぐにトンずらしてしまった。

 どうにも面白くない絹枝はつい、娃子に火を浴びせてしまう。だが、その後はこれ以上ないくらいに、あれもこれもとしてやった。誰も真似のできないことを絹枝はやって来た。やり遂げたのだ。

 それなのに、義男はそのことを恩にきるどころか、仇で返して来た。絹枝にとって何より大事な大事なオトウトの正男をいじめるのだ。

 この気持ち、どうしてくれよう。これが黙っておらりょうか。


「お前のオヤが、正男をいじめやがる」


 絹枝は黙っていられなかった。娃子にも聞いてほしかった。そして、せめて詫びの言葉、ねぎらいの言葉がほしかった。


「のぅ、娃子。お前ゃどう思うや。ヨシが正男をいじめるんじゃあ。それも毎晩毎晩やって来て。わしゃあ、もう、口惜しゅうて口惜しゅうてならんのんじゃ」


 と、今にも泣きだしそうな顔で、それこそ毎晩毎晩、娃子を責めた。責めずにはいられない。残業して帰って、食事をしている時も、風呂から帰れば、とにかく娃子を見れば、何か言わずにはいられない。

 娃子は黙ったままだ。

 そのことが余計にでも、絹枝を苛立たせる。只でさえ、近頃の娃子は良く食べる。ちょっと、余計に金を入れるようになったかと思えば、その分食いつくすつもりらしい。


「お前、牛ほど食うのう」


 それから、娃子は食べるのを控えるようになったが、絹枝の口は減らない。

 挙句は、大阪の方を向いて言い放った。


「自分のムスメが世話になっとんのに、正男の面倒くらい見てくれてもええじゃないか。それくらいしてくれても罰ゃ当たりゃあせんわ ! 」


 ところがそれでも、娃子は黙っている。これが絹枝には不思議でならない。どうして、娃子は一言の詫びの言葉すら言えないのだ。自分のジツのオヤが大恩ある育てのオヤのオカアサマの大事なオトウトをいじめているのだ。申し訳ないとは思わないのか。

 これが、絹枝なら、それこそ土下座してでも詫びる。それすらしない、娃子の太々しさ。


「お前のう。ヨシの家にでも行ってみい。あのママオヤにどんだけいじめられることやら」


 このママオヤと言うのは、則子のことである。絹枝は則子をママオヤと言うが、則子は、娃子にとってオヤではないが、絹枝はママオヤと言う。


「ふんっ、やっぱり、オヤコじゃ。よう似とるわ」

----おのれっ、憎っくき仇の片割れめ。


 そんな日が続いた。娃子は家に帰りたくない。今まででも家に帰りたいと思ったことはないが、そこしか、ねぐらがないので、どうしようもない…。

 また、娃子は眠りたくない。眠らないで済むなら眠りたくはないが、動物的に眠らずにはいられない。眠って起きたとて、何も状況は変わらない。逃げるように仕事に行き、仕方なく戻って来れば、そこには絹枝の恨みと怒りの目がある。

 娃子は洗濯をし始める。とても、何かを食べる気にもならない。


「おお、食うて来たんか ! 」


 いつもと同じ時間に戻って来て、何を食べる間があると言うのだ。

 

「もう、止めや」


 と、一度だけ庄治が言ったことがある。だが、これは全くの逆効果でしかなかった。止めろと言われて止める者はいない。また、止めろと言うのは、絹枝にとってはガソリンを追加されたようなものである。

 そして、娃子は言った。

 では、智男はどうなのかと、娃子が今までに何もしてないのなら言われても仕方ないが、智男は今までに何かしたか。オヤが家を追い出されるかも知れない状況に、何かしたか。

 智男のことを言われれば、返す言葉のない絹枝である。憎々し気に、娃子を睨みつけるしかなかった。

 しばらくして、絹枝は一人で正男宅に行き、これまた息せき切って戻って来た。


「娃子。わしゃ、智男に言うちゃったで ! 智男ぉ、来てみい。のっ、事情知らんのは、娃子もじゃ。じゃけどのう、娃子はこの裁判のことでもあれこれしよるで。それじゃに、お前は何か。何にもせんじゃないか、言うちゃったどぉ ! 」


 と、例によって、この時は鼻息も荒かったが、その後、何も変わりはなかった。

 絹枝からの小言は、智男の耳を右から左へのちょっとした騒音でしかなかった。孝子がそうであるように、オヤよりも家よりも、自分が大事であり、面倒なことはしたくない。そんなことはオヤがすればいい、それをするのがオヤだと見下しているのだ。


----そんなことはな。お前らがやったらええんじゃ。

----何や、知らんけど。お前ら、わしのためにあんじょうやれよ。


 智男と孝子の胸の内はこんなものでしかないが、次の裁判の時、娃子は智男も連れて行こうと言った。


「クラブが…」


 会社で何かのクラブに入っているらしく、それを口実に逃げようとしている。また、正男も渋い顔をしていた。


----わしがやってんやさかい、ええやないか。智男は男や。娃子なんかと一緒にすな !


 結局、智男も孝子も何もせず。博美だけはいつも大人たちの側で話を聞いている…。


 義男に限らず、どこのオヤでも、子供自慢をするものである。


「孝子、頭、ええよってな」


 いくらオヤの欲目とは言え、あれで頭がいいとは…。また、智男も会社ではそこそこ仕事が出来ると言うのが、正男の自慢である。


「今はな、もう、大学名聞いただけで、パッと、パッと、断るんやで」


 この「パッと」は今までにない力の入っていた発音だった。正男は戦後のどさくさ紛れで就職した会社だが、その後の高度経済成長の波に乗り、万博に出展するような大企業となった今、今度は入社する方が難しくなったと言う。


「いやあ、うちゃ、いりまへんて。そんなんやでぇ」


 いくら何でも、企業が入社希望の大学生に対して、そんなことを言うだろうか。では、智男は何なのだ。中卒で入った研修生ではないか。その研修生と大卒者は同等なのだろうか。その点は絹枝と同じで、自分の都合のいい様に話をデフォルメしているに過ぎない。どちらも似た者同士と言うしかない。



「わしと、博美は、血を分けた、とメイじゃ」

----ふん、お前の薄い血とは、訳が違うわ。


 それも言うのなら、智男と孝子も入れるべきではないのか。それにしても、血とは本当に分けたり繋がったりするものだろうか。それらは医学的に実証されているのだろうか。

 どっちにしても、娃子の体に血はない。あるのは色の付いた水。なんてたって、娃子の体の60%から70%は、水なのだから…。

















 


































 

 
























  





 










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