異常なるもの 二

 異常者だ。

 やっぱり、絹枝は異常者だった…。


 今、やっとわかった。幼い頃、娃子を悩ませた、あの悪い心…。 

 娃子はそのことに、絹枝の異常さにずっと昔から気付いていた。だが、その時は、その度に数え切れない程に頭をもたげる、その言葉を必死で押さえつけてきた。 

 

 そんな筈はない ! そんな筈はない !


 異常者と言うのは少なからず日常生活に支障を来たすような人のことを言うのであって、絹枝は日常生活はもちろんのこと、何より金を稼いでくるし、その金もむやみには使わない。それで言えば、大酒飲みの庄治の方こそ度を超した異常さがある。

 それなのに、どうして自分は、こんなにも恐ろしいことを心の中に持っているのだろう…。

 そして、こんなことを考える自分は、いや、娃子こそが、きっと、この世に二人とない極悪人に違いない。

 何と、自分は何と、恐ろしい人間なのだ…。

 こうして、幾たび自分を呪ったことだろう。


 だが、事実だった。

 茂子は自分を「精神分裂症」だと言っていたが、それはおそらく、医師の治療上の言葉だろう。言えることは茂子には日常生活が出来ないと言う「異常」さがある。だが、絹枝は日常生活の出来る異常者だ。そして、世間とは異常者が日常生活を送ることを、こんなにも拍手喝采するのだ。

 絹枝の何が異常。それは人間としての回路である。

 

絹枝=異常

秀子=膨満・膨張

庄治 =最低

正男=欠落

義男=粗雑

則子=狡猾

孝子=屈折

娃子=ひきつれ

 

 ついでに言えば、峰子の回路は並。白子のそれは真綿で幾重にも包まれている。だから決して傷は付かない。

 欲深の秀子は自分の持てる以上の回路を、パンパンに膨らまし身動き取れなくなっていた。

 庄治は、生きるための最低限の回路しか使わない。いや、使う言う気すらない。

 正男は、一番大事な回路が欠落している。誰にも何にも、気を回すことすらない。

 孝子はすぐに屈折する。また、それを繰り返すので、最初の屈折が何だったのか記憶にすらない。だが、すぐに何かに囚われ、屈折してする。孝子の心のほとんどは、屈折の塊が占めている。

 そして、どうしようもないひねくれ屋の、娃子はこれまた多くの回路を持っている。だが、それらの全てはひきつれた回路でしかない。さすがにこれではいけないと、そのひきつれを伸ばしにかかる。それを必死にやり、やっと一本の回路を何とか伸ばすことが出来た。そして、二本目に取り掛かる。だが、回路はまだまだたくさんある。伸ばしても伸ばしても終わらない。そのうちに最初に伸ばした回路もまたひきつれて来る…。

 そんなことばかり繰り返しているうちに、娃子の回路はすり減り、何度も切れそうになった。いや、いっそ、切れて欲しかった。

 切れてしまえば、楽になる。


----ああ、切れる、切れる…。切れてしまえ時は、自分は楽になる。ああ…。


 だが、次の瞬間、今にも切れると思った回路は、ふいに元通りのひきつれに戻っている。それの繰り返しなのだ。



 幼い頃から、いや、初めて絹枝の腕に抱かれた時から、ものすごく恐かった。だから、娃子は泣かない赤ん坊だった。


「まあ、お宅は赤ちゃんが居られるんですか、ちっとも泣かないから」


 干してあるおしめを見て、近所の人が言った。赤ん坊は泣いても無駄だと思えば泣かなくなる。

 幼児期は大人のおもちゃ扱い。泣くまいと思っているのに、泣くまで嫌がらせを止めない。堪えきれずに泣き出せば大人たちは笑う。飽きたら突き放す。

 例え、絹枝の異常さに気が付いても、はっきりと意思を伝えられない頃、最後には泣くしかなかったが、それでも聞き入れられたことはない。えさは与えられていたが、絹枝の恐さは尋常ではなかった

 ものすごい形相で娃子を睨みつけ、あまりの恐ろしさに身震いした。それは今も体に「振戦」として染みついている。

 子供相手に罵詈雑言は日常茶飯事であり、体に傷跡を残さない巧妙な虐待は続いた。

 成長すれば、わずかの金でも稼いで来い。家事はやれ、アンマもしろ。気に入らなければ、怒鳴る殴る。

 そして、絹枝は薄ら笑いを浮かべながら言ったものだ。


「鏡ばっかり見て、お前、そんなにべっぴんかぁ」


 どうして、あの時、絹枝を殺して置かなかったのか…。

 殺して置けば、こんな思いはしなくて済んだ。

 詰めが甘い、娃子である。


 世間は絹枝のパフォーマンスに惜しみない拍手を送ったものだが、その程度で満足するような絹枝ではない。

 長年の鬱積した不満の上に、正男をいじめる義男の存在があった。これが黙っておらりょうか。せめて弁護士には知っておいてもらわねば困る。そして、娃子にも思い知らせてやらなければならない。だから、言ってやった。


「コレのオヤが」

----言うてやった、言うてやった。言うてやったど。ざまあみやがれ、娃子よ、思い知ったか。わしに逆らうとこんな目にあうんじゃ!よう覚えとけ!


 娃子はまさか、ここまで絹枝に憎まれているとは思わなかった。この裁判のことにしても、秀子の死後のことにしても、娃子は出来るだけのことはやって来たではないか。

 それでも、絹枝の中の娃子は、恩知らずの人でなしの憎い敵の片割れでしかないのだ。

 今までにも絹枝や庄治と衝突し、家を出る気になったことは一度や二度ではない。そのほとんどは絹枝や庄治の遊びケンカの相手をさせられることのイヤさからで、最初はいつものことだとあしらっていても、二人とも、娃子がムキになるまで止めない。また、それを楽しんでいた。だが、ついには娃子を本気で怒らせてしまう。

 娃子が真顔で家を出ると言えば、初めて二人はやりすぎたことに気付く。娃子はいつも真剣であった。その時になってあわてて引き止める。本当に出て行かれてはそれこそ世間体が悪い。 

 そんなバカバカしいケンカに幾度付き合わされたことか…。

 そのたびに絹枝の情のようなものに引きずられて今日まで来てしまった。だが、絹枝に情など微塵もなかった。

 そんな情のようなものに引きずられた娃子がバカだったのだ。

 絹枝は憎しみだけで生きていける異常者である。怒りこそが絹枝のエネルギーの源なのだ。

 娃子は今まで生きて来たこと、すべてが無駄であり、無意味な虫けらでしかなかった。だが、小さな虫にも魂はある。

 


 絹枝にとって、娃子は諸刃の剣であった。

 片刃は斬っても斬っても斬れない穀つぶしでしかないが、もう片方の歯はキラキラと光っていた。娃子と言う砥石で光り輝いていた。絹枝の評価のほとんどは、娃子と言う砥石によるものである。その光る方の片刃を掲げれば、世間から惜しみない賛辞が贈られた。そんな砥石付き刀を絹枝が簡単に手放す筈もなかった。

 

「籍、切っちゃるど ! 」

 

 今まで、幾度なく、言われた言葉であるが、これは単なる脅しでしかないのを、娃子は知っている。もし、本当に、娃子を自分の籍から抜けば、それこそ、世間の笑いものになってしまう。


「バカよ。まあ、絹枝さんがあんなバカとは思わんかったわ」

「そうよ、今時の若い子がオヤの思い通りになるもんかいね。自分はこれから年、取って行くのに」

「娃子ちゃんはええ子じゃなかったんね。散々自慢しよったくせに。あれはウソじゃったんか」


 等々、ここぞとばかりに世間から、物笑いのタネになってしまう。それだけは避けたい。そのための絹枝なりのを使い分けて来たつもりだったが、それが、娃子に通用したことはなかった。


----この恨み、晴らさでおくものか。ついに、晴らしてやったどぉ !


 娃子は限界だった。今度と言う今度こそ、限界だった。

 家を出よう。今度こそ、家を出よう。

 戸籍も作ることが出来ると聞いた。新たに自分だけの戸籍を作ればいい。

 娃子は家を出る決心をした。

 さらに娃子は転職していた。今の職場は家から遠いが給料もいい。そこはいい意味の同族会社だった。だから、娃子が裁判のことで会社を休むのも大目に見てくれている。事情を話せばわかってくれるだろう。少しは金も持っている。そうすれば、朝早く起きて出勤することもない。

 だが、その前に片付けねばならないことがある。この裁判である。家を出る前に、これだけはケリをつけてやろう。

 娃子は峰子のように、後ろ足で泥水跳ねかけて去るようなことはしない。

 この裁判、きっちり、ケリをつけてやる。


 娃子は弁護士を解任すると言った。あの弁護士ではダメだ。大阪の裁判だから、正男に任してしまったが、今更ながらに正男は頼りない。それは絹枝も痛感していた。

 娃子は地元に、顔見知りの弁護士がいた。また、その事務所には娃子の元サークル仲間が働いていた。


「おお、そうじゃ、お前、共産党じゃったのう」


 娃子がこれから頼みに行く弁護士も共産党員だが、娃子は別に共産党員ではないし、そのシンパとと言う訳でもない。だが、かつてのサークル仲間には共産党系の若者もいたし、彼らと行動を共にしたこともある。絹枝が共産党に食いついたのは、やはり君男の弁護士の姿勢であった。若いのに正男側の弁護士より落ち着いて見えた。


 娃子は久しぶりに会った木戸青年を介して弁護士と会った。

 絹枝も白髪でどっしりと構えた弁護士と、側でテキパキと仕事をこなす木戸青年に好感を持ったようだ。


「私も仕事で大阪に行くことがあります。それで交通費と日当を持ってもらえるのならお引き受けします」


 これはちょっと意外だった。この弁護士はある冤罪事件で名を馳せた、いわゆる社会派の弁護士であり、事務所には他にも弁護士がいる。こんな遺産問題などは他の若手弁護士を紹介されると思っていた。この弁護士が引き受けてくれるのなら、言うことはない。だが、ここでも決して黙っていられないのが絹枝であった。


「向こうの弁護士も共産党なんで…」


 娃子は焦った。それにしても、絹枝は毎度毎度、要らぬことばかり言う。


「共産党同士の戦いですか」


 と、弁護士は苦笑していたが、娃子は冷や汗をかく思いだった。 

 ちなみに、着手金は前の弁護士が30万円、今回は20万円だった。

 先ずは前の弁護士のところへ行って書類をもらって来てほしいと言われた。これは電話で正男に言った。


「そやけどなぁ」

 

 本当は、娃子に取りに行ってほしい、面倒なことはしたくない正男だったが、娃子にも仕事があるので、渋々その書類を取りに行き、郵送して来た。 

 その書類に目を通した弁護士は上申書を書くようにと言った。当然、娃子しか書く者はいない。木戸に書き方を教えてもらいながら書き進めて行くが、何にしても書くと言うことは大変なことである。

 さらに、娃子は気になっていたことを聞いてみた。筆跡鑑定のことだ。


「裁判所は何もしませんよ」


 木戸はこともなげに言った。裁判所と言うところは双方から提出された証拠・証人等によってに判断をするところでしかない。だから、おかしいと思うことに対しては、すべてこちらが反対の材料を提出しなければいけない、そのための場所と判断を提供するところだった。

 弁護士の知り合いに筆跡鑑定の出来る大学教授がいた。頼むことは容易いが、筆跡鑑定のためには証拠となる名前を自書したものが必要であり、それも出来るだけ多い方がいいと言われたので、またも、正男宅へ出向くこととなった。


 「持って来てほしいもの、すし、おまん、くだもの」の茂子からの面会要請のハガキは何枚も転がっていたが、君男のは香典袋が二つだけだった。これではちょっと少ない。娃子の探して見ように博美は機敏に反応したが、正男は座っているだけだった。

 そして、娃子は恒男が使っていた洋服タンスの中から、別の香典袋一つと手紙を見つけ出した。その手紙は薄緑色のミニ書簡だった。読んでみれば、どうやら君男が刑務所から恒男に宛てたもので、これからは真面目に生きたいと書いてあった。

 その真面目の結果が今の裁判か。それまでは見向きもしなかった妹をダシにウソをついて、この家をのっとろうとしている君男だが、よもや自分が刑務所から出した手紙が未だに残っていて、それが筆跡鑑定に使われるとは夢にも思ってないことだろう。

 娃子は改めて養子縁組解消届けの筆跡とそれらのハガキ類を見比べてみたが、どちらも同じ筆跡に思えたが、後は専門家の鑑定に委ねるしかない。


 弁護士はやはり、正男に会いたいと言う。そこで、大阪の弁護士会館で会うこととなった。弁護士を待っている間に絹枝に言った。正男に弁護士に会ったら挨拶するように言ってくれと。今度はすべて、娃子がやったこととばかりに突っ立ったままでは、娃子が恥ずかしい。


「お前、言えぇや」


 と、絹枝はすました顔で言ったが、そんなことを、娃子が言える筈がないではないか。


「正男。弁護士の先生が来たら、ちゃんと挨拶せえよ」


 こんなことまで言われなければ何もしない、出来ない正男であった。

 そして、やってきた弁護士に正男はヒョコヒョコと頭を上下させた。これでも正男にすれば挨拶であった。

 地下の食堂で話をすることになった。弁護士から今までの経過を聞くに付け、娃子は自分の判断が間違っていなかったことを実感した。この弁護士は茂子の担当医を証人に呼び、茂子の判断能力の有無について質していた。茂子には養子縁組解消についての判断能力はあると言うことだった。前の弁護士なら、こうはいかなかっただろう。

 さらに、正男にもあれこれ質問した。


「その後の、秀子さんはどうでした」


 相変わらず正男は反応が鈍いが、それでも前の弁護士とは違う気迫に戸惑いつつも、なんとか答えようとしていた。


「いや、そやから。そのには……」


 ところが、すべて絹枝が答えてしまう。正男が何か言いかければすかさず口を出す。


「あのときはアネは具合が悪かったんよの」

「茂子は家を出されとったじゃないか」


 これでは幼稚園児に付き添うハハオヤではないか。


「あなたは黙ってなさい!」


 弁護士は絹枝を一喝した。

 温厚な風貌に似合わない、凄みのある声だった。絹枝は一瞬、虚をつかれ、そして、黙った。

 絹枝は他人の話は聞かない。絹枝にとっての他人とは、絹枝の話を聞き、感動・賛辞を送るための存在でしかない。絹枝はいつも座の中心にいた。絹枝をいつも世間の中心だった。

 そんな絹枝はプロの仕事人と言う者を知らない。

 学もないままにがむしゃらに生きて来た自分は、学はなくてもこれだけのことを成し遂げてきた「成功者」だ。その強固な自信からすれば、弁護士などは学があるだけの存在でしかなかった。

 ましてや、娃子のことも知っているくせに、この弁護士は、娃子のことには全く触れない。いつ、会っても仕事の話しかしない。それだけでも気に入らなかった。まして、今はオトート思いのいいアネをアピールしている最中でもあった。

 これが弁護士でなければ、裁判というものでなければ、絹枝は反対にくってかかったことだろう。だが、絹枝は黙るしかなかった。反論する材料がない。

 絹枝は今までに誰からも、一喝などされたことなどなかった。絹枝のチチはやさしかったが、ハハオヤは口うるさかったそうだ。そのハハオヤですら、これほどまでに激しく一喝したことはなかろう。

 絹枝を一喝したのは、後にも先にもこの弁護士だけである。

 テレビドラマでは、第1回公半の後にすぐに第2回公判がやってくる。また、すべては2時間足らずの中で解決するが、現実の裁判は遅々として進まない。その間にも絹枝の、娃子攻撃がとどまることはなかった。

 




















  

















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