第九章

異常なるもの 一

 そして、裁判の日がやって来た。

 裁判と言っても、娃子にもその実態は本当のところ、良くわからない。なのに裁判所に行けば、妙子と町内会長がいた。二人とも証人だと言う。娃子はこの二人が正男ですら知らぬことをどの程度知っているのか疑問だった。そして、その時、初めて娃子は養子縁組解消届のコピーを見た。

 養子縁組解消届の証人の一人の花子さんと言う元議員の署名はともかく、茂子と君男の字には見覚えがあった。人には何か取得があるものだ。娃子は人の字をよく覚えている。こんなことは普段何の役にも立たないが、この字は茂子と君男が書いたものだと断言した。だが、こう言うものがあるならもっと早くに見せてほしかった。あれから、正男と弁護士がどんな話をしたか知らないが、この弁護士も頼りないと思わずにはいられなかった。

 やがて証人尋問が始まったが、結局この二人からは新しい「事実」は聞きだせず、町内会長に至っては近所のうわさ話程度のことでしかなかった。


「これはあなたが書いたのではないのですか」


 一方の君男は、弁護士の問いに胸を張って答えたものだ。


「いいえ、私が書いたのではありません!」


 娃子は心の中でウソだと叫んだが、ここは裁判所なので勝手な発言は許されない。


「そやから、チチオヤが死んだ時に、茂子がへらへら笑っているから、おかしいな思たんです。その後の養子縁組解消ですから、これはおかしいです」


 ウソだ…。

 茂子は恒男の通夜のときは奥の部屋で寝ていたが、葬儀のときには喪服を着て座っていた。


「ほんまやったら、茂子を喪主にするんやけど」


 と、秀子が言っていたが、別にへらへら笑ってなどいなかった。

 その後のことはもはや憶測でしかないが、一人になった秀子は不安だったのだろう。そこで、花子さんに相談し、茂子との養子縁組を解消することにした。そして、茂子と君男を呼び署名させたのだ。

 それを君男は、唯一の証人、花子さんが亡くなっているのをいいことに、秀子の偽造だと訴えた。それなら秀子が生きている時に言えばいいものを、死んだ後で言い出した。いや、秀子も花子さんも死んでいるからこそ、チャンスなのだ。

 さらに君男は当時、秀子宅には出入りしてなかったと証言したが、それも違う。

恒男の葬儀には当然君男のヨメも来ていた。事実、甥のヨメであるにせよ、半白髪のオバサンが秀子を「オバチャン」と呼んでいたのがおかしかったのを、娃子は覚えている。また、久しぶりの様子にも見えなかった。

 それにしても、先に証言に立った妙子と町内会長には、双方の弁護士とも、あまり突っ込んだ質問はしなかった。

 とにかく、よくわからないうちに裁判は終わった。

 娃子は二人の証人に礼を言ったが、例によって正男は何も言わない。また、証人には裁判所から日当が出る。それは千円ちょっとだった。


「そんなら、もうよろしいわ」


 と、町内会長が言えば、妙子はすぐにふくれっ面になった。


----やる言うもん、貰といたらええのに !


 町内会長にとっては千円くらい、端金はしたがねかもしれないが、妙子にとっては大きい金である。


----千円あったら、二、三日食べられるわ…。


 帰宅してから、二人には正男から礼の品が届いた。正男は口では何も言わないが、品物は持って行く。それも博美に持って行かせる。つまり、自分は何もしない。

 娃子は今回の二人の人選について聞いてみた。


「いや、誰か証人をて言われたさかい。何や知っているやろ思うて」


 どうやら、事前に弁護士と打ち合わせもしてなかったようだ。そのくせ、この弁護士はどうでもいいを口にした。


「あちらの弁護士さんは、共産党の弁護士さんです」


 だから、なに?

 相手が共産党の弁護士ではやりにくいとでも言うのか。そんなことより今日の裁判は、終始向こうのペースで終わったではないか、正男の頼りない分、この弁護士がもっとしっかりしてくれたらと思わずにはいられなかった。

 結局のところ、本当のところは誰も知らないのだ。何と言っても、もう一人の証人の花子さんも亡くなっている。だから、君男は強気なのだ。


 そんな話を博美はいつも側で聞いている。孝子は家では、終始ふくれっ面である。博美と交代制の家事を渋々こなすが、それも最小限でしかない。

 娃子は最近の正男宅での食事が憂鬱である。電気炊飯器自体も小さい。4人暮らしで5号炊きである。智男は帰りが遅かったりするので、数のうちに入れないにしても、今は5人なのに米は3合しか炊かない。


「いや、足らんわ」


 2人増えたので、多く炊くと言うことも知らないようだ。おかずにしたところで十分とは言えない。さらに、そのご飯が柔らかい。はっきり言って気持ち悪いくらいである。黙っているが絹枝も箸が進まない。そのくせ、市販の硬い寿司は平気で食べる。


----よう、食うなあ。


 と、孝子が軽蔑した目で見ている。まだ、1膳しか食べてない。そのくせ、ここで提供される茶碗の大きいこと。普通の茶碗はないのかと言えば「ない」それだけ。そんな孝子はである。


「もう、お腹一杯で食べられへん」


 と、言った後、早速にケーキや菓子を食べている。お腹一杯ではなかったのか。


「これは、別腹や」


 要は、正男宅の食事量はいつも同じ。人数が増えようが減ろうが量は同じ。あるだけのものを食べてそれで足りなければ、菓子など食べればいい。ことによればインスタントラーメンもある。

 もっとも、孝子の場合、代り映えのしないいつものおかずより菓子の方がおいしい。ご飯やおかずを少しにして菓子やケーキを食べる方がいいのだ。そのせいか、性格も安楽に流れる。

 例によってものは出しっぱなし、当然掃除もしない。そんな孝子が唯一、することと言えば、アイロンかけである。明日着て行くものにアイロンをかける。

 風呂から上がって着るパジャマは汚れ、臭いのするシーツで寝ようと、朝起きれば、身なりだけは整えて職場に行く。

 そうなのだ。汚部屋の住人がのまま、出勤することはない。いや、汚部屋の住人だからこそ、例え、薄汚れたパジャマと臭いのするシーツで寝ようとも、朝になればにして出て行く。それだけではない。職場の片付けも掃除もきちんとやるので、努々ゆめゆめ孝子が汚部屋の住人とは誰も思ってない。とにかく、家事が嫌い。家では何もしたくない。

 一重まぶたの日本的な顔立ちは寂しげでさえあり、その声も低い。店ではもっと大きな声で受け答えをしなさいと注意されると言う。客に対しても必要以外のことは言わない。もっとも、あれこれ話しかけられることを嫌う客もいるから、これはこれでいいのかもしれない。だから、世間で孝子の評判は、今時珍しいくらいの大人しいムスメと言うことになっているが、実際は違う。


 ある時、孝子と博美がけんかをしていた。そして、博美が孝子のものを投げた。


「博美、オネエチャンのものを投げたらいけん」


 と、絹枝が注意した。


「人のもん投ぎゃあがって」

「孝子!女の子がなんちゅうことを言うんじゃ。そんな言葉を使うもんじゃない!」 

 

 絹枝に言われるまでもなく、孝子の言葉使いの悪さは娃子はとっくに知っている。だが、それは絹枝からの「遺伝」ではないのか。


「博美ぃ、お前、額狭いな」


 それを聞いた娃子は、やはり女の子がお前なんて言うものではないと注意した。


「外、行ったら、言わへんよ」


 と、これまたドスと凄みの聞いた返事をした。それでも、日頃使っていると、つい、出てしまうから、家でもそんな言葉は使わない方がいいと注意を促すつもりで娃子は言った。


「外行ったら!言わへん言うてるから、ええやろ!」


 孝子は、娃子を睨みつけた。これは秀子が、内と外の使い分けを言いすぎたせいでもある。とかく秀子たち明治大正生まれの女は口を酸っぱくして言う。


「そんなことはな、うちではええけど、外行ったらあかんねんやで ! 」


 誰の言うことも聞かない孝子だが、珍しくこれだけは聞き分けたようだ。  


----わい ! ガタガタぬかすな。お前になんかに、言われる筋合いはないわい。ふん、絹枝のババが言うとったぞ。どうしようもないやっちゃ言うて。なんや、お前なんか、早よ、死ね!その方が世のため人のためじゃ!お前の顔なんか、誰も見たないわい!


 孝子の目はそう言っていた。

 ちなみに、娃子の額も狭い。前髪で額を隠しているので孝子にはわからなかった、もしくは興味ないのどちらかだが、額が狭いとオヤの縁が薄いとされている。それは、娃子にはぴたりと当てはまるが、博美はハハオヤとの縁は薄かったが、チチ、アニ、アネとの縁はある。

 あれから、この家で嘉子の話は聞かない。別に避けているとかタブーとかでもない。妙子は秀子が死ねば嘉子は帰って来ると言っていたが、その気配もない。いや、嘉子は秀子が死んだことすら知らないのだ。第一、あれから、正男や3人の子供の誰とも接触はない。また、子供たちも気にも留めない。

 彼らにとって、ハハオヤは過去にはいた。それだけである。

 そんな3人のうち、どうして博美だけが額が狭いのか…。


 また、この孝子は物を聞くのにも威張って聞く。


「前略の後は、どう書くの」

----お前の方が年上やから知ってるやろ。知ってることはな、ちゃんと教えたれ。


 ったく…。おのれは、前略の意味も知らんのか。

 どうせ、ドラマ「前略おふくろ様」を見て、手紙の書き出しは前略だと思ったのかもしれないが、手紙の書き方くらい、義務教育で習う。

 また、正男に似て、話す時も主語を省く。絹枝同様、人に自分の話を理解する頭を持てと言うのだ。絹枝は話の仕方を知らないだけだが、孝子は特に家ではしゃべるのも嫌だ。周りが察してくれて、結果だけを仰ぎに来てほしい。とにかく、しゃべるのも面倒くさい。


----そないしてくれたら「ああ」とか「うう」とかで済むのに。


 話とは「5W1H」をもとに話すものである。それも学校で習っただろ。


「忘れた」


 もう、忘れたのか。だから、バカだってんだ。

 5W1Hとは「Who(だれが)When(いつ)、Where(どこで)、What(なにを)、Why(なぜ)、How(どのように)」である。

 そんな孝子の好きなアニメが「巨人の星」とは。再放送ですら何度でも見ると言う。心の中ではあんなチチオヤに憧れているのか。それにしては…。


 何も知らずにこんな女と結婚したら大変である。楚々とした風情は最初だけ、すぐに化けの皮は剥げ、家の掃除はしない、言葉使いは悪い。さらに、子供が生まれれば、その子を怒鳴りまわすことだろう。自分がされてきた腹いせを子供に仕返す。そんなハハオヤになるだろう。

 人は、その人の一面しか知らないのに、その一面をすべてだと思ってしまう。外面と内面を使い分けている人間もいるのに一面だけで判断し、一度レッテルを張ってしまえば、ずっとそのまま。それが人間である。


 反対に博美はみんなに好かれているだけでなく、オヤの正男も、つい何でも博美に言いつけてしまう。


「また、うちや」

「何でも、うち、ばっかり」


 一度座り込むと根が生えたようになかなか動かない孝子と違い、博美は身軽だった。さらに、大人の話し合いの席にはいつもいた。正男が絹枝や娃子から、その不始末を責められるのも、正男の頼りない返事も博美は黙って聞いていた。その時、孝子はベッドの中だった。

 博美は色は黒いが、今風の顔立ちでかわいい。これで大人になり化粧をするようになれば、その美しさは人を振り返らせることだろう。



 数か月後、判決が出た。

 一審では偽造が認められた。つまり、正男と絹枝の負けである。

 では、これからどうすればいいのだろうと、娃子はもう一度弁護士のところへ相談に行くことにした。絹枝も付いてきた。

 この弁護士からは今までも、変やなあとか、不思議やなあとか言う言葉を何度か聞いた。娃子とて裁判に対する知識はテレビドラマくらいしかない。ドラマの弁護士はカッコよくて、親身であった。別にドラマと現実を一緒にする気はないが、弁護士から不思議だとか言われたのでは、どうすればいいのだろう…。

 さらに絹枝は感情論でしか、頭が働かない。


「娃子、お前は知らんじゃろうけど、茂子は恒男がおる時から、オヤモトに戻されとったんじゃ。それでも帰って来るんけん。アネから、戻ってみてどないやったとよう怒られとったわ」


 そう言うことは今は問題ではないと、いくら言い聞かせても、そこを調べない裁判所がおかしいと言い出す始末である。

 そんな絹枝と頼りない弁護士を相手に娃子は疲れてしまい、トイレにたった。

 トイレから出てくると、絹枝がまた義男の話を蒸し返していた。

 あれからも義男は正男の家に日参してはダミ声で、裁判などしなくても済むように向こうに掛け合って話をつけてやるとか、自分を証人にしろとかしつこく迫っていた。

 正男にすれば、毎晩やってきてはそんなことを言われてはたまったものではない。当然、そのことは絹枝の耳に入る。

 その度に、絹枝の怒りが爆発する。

 なんと、恩知らずなヤツ……。


----わしにゃあ、恩がある筈じゃ。


 少しは、娃子のことを恩にきてくれてもいいではないか。日頃はともかく、今こそ正男の味方をして。そうすれば、いつぞやの証文のことは忘れてやってもいいと思っていたが、それがなんだ。まだこの期に及んで、大事な大事なわがオトウトを脅すとは何ごとか。正男は大恩ある絹枝のオトウトではないのか。犬でも三日飼えば恩を忘れないと言うに、義男は犬畜生にも劣るヤツだ。

 そして、ふと、これは脅迫だとひらめいた。そして、バカの一つ覚えの連呼が始まった。


「脅迫じゃあ脅迫じゃあ。やれ、警察に言やあ、捕まるわ」


 娃子がいくら、この程度では脅迫にならないと言っても聞く耳すら持たない。


----へへっ。やっぱり、オヤコじゃあ。こうやってオヤをかばうんじゃ。やっぱり、血は争えんわ。


 娃子は別にかばっているわけではない。脅迫というのは具体的に脅したという事実がなければ、警察は取り合ってくれない。まして、身内の遺産問題、刃物沙汰になったわけでもない。それをいくら説明しても絹枝はわかろうとしない。


「そや、それくらいではあかんねや」


 正男がそう言ったので、その場は治まった。正男にすれば、ひょっとしたら、本当に絹枝が警察に駆け込むのではないかとの危惧から言ったまでで、実際に警察沙汰になれば、今度は義男からそれこそ、何を言われるやら、されるやらたまったものではない。さらに、則子とて黙ってないだろう。そのことの方が恐い。

 絹枝はいつもこの家にいるわけではない。只でさえうるさい義男と則子である。

それで、娃子に同調しただけである。

 その時はそれで絹枝も治めたものの、こうやって弁護士に会いに来たのも、義男を懲らしめる方法があるのではとの思いもあった。

 そして、ここぞとばかりに絹枝は妙な大阪弁を使う。


「そやから、脅迫、かけてきますのや」

「それは一体、だれです」


 以前、絹枝は茂子が秀子の養女であり、どうしようもないムスメであったとの話の後で、当然のように自慢せずにはいられなかった。


「ウチのコも養女です。でも、ウチのコは違います」


 と、大仰な身振りを交えて言ったものだった。そして、今。


のオヤが」


 異常者だ…。 

 








 






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