埃立ちぬ 七

「どう言うことや」


  君男は、茂子との養子縁組解消の書類は秀子の偽造であり、よって、この家屋敷は茂子の物だと訴えたのだ。


「何で、偽造やぁ。正男、お前知らんのか。何も聞いとらんのんか」

「知らん」

「知らん言うて、ここに来る時、何か聞いとったんじゃあないか」

「聞いてへんよ」 


 正男はすべてがこの調子で全く埒が開かない。娃子は妙子なら何か知っているのではないかと思った。


「いや、私も聞いただけやから、何でも証人は君男さんと花子さんやて」


 婚姻届もそうだか、養子縁組解消の書類にも証人が二人いる。

 この花子さんとは、娃子も会ったことのある、近所に住んでいる品のいいオバサンだった。だが、何と戦後初の女性議員であったと言うことも、その時初めて知った。


「一期だけや」


 元議員を字の書けない秀子が秘書代わりにしていたそうだが、そんな人が文書偽造の片棒を担ぐだろうか。だが、その花子さんもすでに亡くなっている。花子さんが生きていてくれたらと思うも、おそらく君男はそこまで調べての上だろう。秀子も花子さんもいない。もう一人の証人の君男がこれは偽造であると言えば、偽造になってしまう…。


 どこから嗅ぎつけたか知らないが、早速に幸子がやって来た。もっとも、今までにも頼りない正男に毎日のように説教をしてきたが、それが、裁判沙汰ともなれば、余計でも黙っていられない。このアホ二人に何が出来る、頼るのは自分だとばかり、いつもの様に正男たちをキッと睨みつけてから上がって来る。


「マーヤン。裁判の事やけどなあ」

「あの、もう、手ぇ引いて下さい。うちのことはうちでやります。第三者は手ぇ引いて下さい」


 その時、秀子の顔が歪んだ…。

 まさか、絹枝から手を引けと言われようとは夢にも思わないことだった。所詮は他人である。手を引けと言われれば引くしかない。屈辱感のままに幸子は帰って行った。


----まさか、あの絹枝が、こんなことを言うやなんて…。


 だが、これは娃子がである。裁判ともなれば、先ずはうるさい外野を排除した方がいい。娃子は絹枝に、幸子に手を引いてもらえと言った。幸子は第三者でしかない。そして、明日やって来たら「こう言え」とレクチャーした。いつもは何かしら、話に尾ひれを付けてしまう絹枝だが、この時ばかりは珍しく、娃子に言われたことをほぼ正確に口にしていた。その中で、娃子が第三者と言う言葉を使ったのは、他人と言う言葉に絹枝が過剰反応するからである。

 

「そん時の顔、見たかったなあ…」


 妙子が笑いながら言った。手を引けと言われた時の幸子の顔、さぞかし見ものだったことだろう。だが、翌朝も幸子はやって来た。いつも以上に睨みつけ、正男に言った。


「マーヤン。そんなら、私はこれで手ぇ引かしてもらうけど、忘れなや。アネはんにはアネはんの考えがあったんやで」


 それなら、その秀子の考えとやらを聞かせてくれればいいものを、今までにもそんなことは何一つ言わなかった。いや、取り立てて何も聞いてないくせに、娃子には言ったではないか。


「黙っとり、あんたは黙っとり」


 少なくとも、娃子は戸籍上は絹枝のムスメである。後の相続人でもある。その娃子に他人の幸子が黙れと言った。だから、弾き出してやった。これ以上、面白半分に引っ掻き回されてたまるか。それにしても、幸子は何をあんなにも必死になったのだろう。 


「あんなんな。なんやかんや言うて、金貸して貰おう思てんや」


 誰が去る、去れば、強気になるのが正男である。では、それがわかっていながら、していたお前こそ何なのだ。


「正男ぉ。わしを証人に出せ」


 朝の幸子がいなくなったと思ったら、夜の義男がやって来た。例によって、今度は義男も加担させろと言って来た。その時々であっちにもこっちにも飛んでいく、コウモリの様な男である。だが、これには誰もが無視をした。

 そんなことより、裁判ともなれば弁護士に頼るしかない。正男に知り合いの弁護士がいるはずもなく、差し当たってどうしようかと言う話になり、登記の手続きのときに世話になった司法書士に聞いてみることにした。そこで一人の弁護士を紹介され、その事務所に向かって歩き出したのだが、正男も不慣れな場所と見えてあちこちうろうろするばかりであった。絹枝は痛む足を引きずっている。娃子も足の痛みに悩まされていた。正男も倒れて以後、体に痺れが残っているとは言え、足はしっかりしている。典型的なガニ股であるが、ドタドタとよく歩く。

 長い時間うつろいて場所がわからないのなら、タクシーに乗れば良さそうなものなのに、そんな気はサラサラなく、あちこち引きずりまわしたあげくに、やっと探り当てた弁護士事務所の椅子に腰をかけたときは絹枝も、娃子もホッとしたものだ。   

 またしても、娃子が事情説明したのはともかく、決して黙っていられないのが絹枝の常である。さすがに初対面の弁護士に、娃子にまつわる苦労話をするのは憚られたようで、この話はこの次にするとしても、前振りはやっておかなければならない。


「まあ、私らが代書屋に行きますと、その代書屋がびっくりして、はーあ、はーあと目を剥いておりましたわ。のう、娃子 ! 」


 絹枝のドサ芝居によれば、代書屋(司法書士)にしてみれば、絹枝たちの出現はあり得ないことであり、そのあり得ないことが起こったのでそれこそ驚いてしまったと言うくだりであったが、さらに、代書屋が驚くくらいだから、この裁判自体も理不尽なことであると言いたいのだ。

 そして、いつも、娃子に同調を求める。娃子にすればいい迷惑でしかない。それにしても、少し前に仕事を依頼した人物が再び訪ねて来たからといって、世の中の誰がそんなに大仰な驚き方をすると言うのだ。確かにあの司法書士は一瞬あれっと言う顔をした。それだけのことだ。それだけのことが絹枝にかかれば、天下の一大事になってしまう。さらに、正男は正男でどうでもいい話をする。


「うちのムスメは美容師で、そこの金ピカ殿に行っとります」


 孝子の働く美容室はこの近くらしい。そのくせ肝心の話となれば、弁護士が何を聞いても、聞かれても答えは一つ。


「知りまへん、知りまへん」


 と、バカの一つ覚えを繰り返すばかり。ここまで来ると見事と言う他ない。娃子はいくら知らないとは言え、もう少し受け答えのしようがありそうなものと思わないではいられなかった。


「わしら、知らんがな」


 帰り道でも正男はぼやいていた。秀子の身近にいた正男が知らないのなら、それ以上のことを絹枝や、娃子が知る由もないが、正男の知らないの大半は責任逃れでしかない。知らないと言えばそれまでで、それ以上追求されることはなく、後はなるようになる。いざとなれば、あの家を出ればいい。その時には、まさか君男も只で出て行けとは言わないだろう。そのための弁護士ではないか。何も知らないのだから、後はこれも弁護士が何とかするだろう。そう言う気でいっぱいなのだ。

 裁判とは、ドラマの様にすぐに開かれるものではない。そこで、娃子と絹枝は一先ず帰ることにした。


 だが、娃子にも「転機」が待っていた。 


 「私ら、そんな欲ないよ」


 娃子からの大まかな話を聞いた角田さんは言ったが、それは他人の話だからである。当事者になれば、そんなことは言ってられない。


「そうかね」


 極端なことを言えば、金をめぐって殺人も起きる。そこまでのことはともかく、誰だって貰えるものなら貰いたい。それも出来るだけ多く。また、必ずそのおこぼれに与ろうとする者が出現する。

 他所の揉め事を笑っている人こそ、いざ、自分の事となれば、顔色変えて欲に突っ走るものである。それまで仲の良かった兄弟姉妹に亀裂が走るのも、財産争いである。また、そんなに揉めるほど財産ないと言う人もいるが、冷蔵庫一つでも揉める時は揉めると言う。


 そして、待ちに待ったボーナスが支給された。だが、開けてびっくり、言葉もなかった。

 何と、2万ちょっとしか入っていない。夏には5万円近くあったのに、これはどう言うこと…。

 それは、娃子だけでなく、オジサンも角田さんも夏の半分以下だと言う。これでは到底納得できるものではない。3人で抗議しようと言うことになった。


「さあ、籠城ろうじょうじゃあ」


 と、オジサンがカップラーメンを買って来てくれた。角田さんも今日ばかりは、定刻を過ぎても残ると言う。だが、肝心のオクサンの姿がない。久美子も知らないと言う。住居は二階であるがいないらしい。そう言えば、ムスコもいない。そこで、専務に抗議した。しばらくして、泣きながらオクサンがやって来た。


「私は、食べんでもみんなにあげよるじゃろ」


 いや、少なくとも、娃子はこのオクサンから食べる物など何も貰ったことはない。


「これねえ。塗りが十八金がなんよ」


 と言って、安物の金メッキのネックレスを貰ったことがある。その辺の夜店ででも買ったようなものを、さも良い品の様に言ったものだ。既に、娃子は本物の十八金のネックレスを持っていた。

 そして、経営が苦しいの、家計が苦しいのと散々繰り言を言って、泣きながらその場を去って行った。


「うん、あれは、ホンマじゃ」


 娃子と角田さんは思わず耳を疑った。日頃からオクサンを「ババ」と嫌っていただけでなく、この度の理不尽なボーナス額に一番腹を立てていた。それなのに、まさかのオジサンの「裏切り」発言だった。

 結局、ボーナスの件は無し崩しにされた。いや、最初からその気だったのだろう。


「ここはねえ。この人にいくらとか言うんじゃのうて、これだけの金をどうやって分配するかしか、考えんのじゃわ。金がないんなら、指輪一つ持って行きゃええだけじゃない」


 指輪を質屋へ持って行けばそれくらいの金、何とかなると角田さんは言ったが、

娃子は憂鬱だった。絹枝にどう説明しようかと思った。ダメ元で、ボーナスだと言って2万円渡した。絹枝が何も言わずに受け取ったのでホッとしたが、オジサンの裏切りが腑に落ちない二人だった。 


「ひょっとしたら、あのオジサンのことじゃけん。専務から日給50円でも値上げするとか言われたんじゃない」


 これも、無い話ではない。


「アイちゃん、わかったよ。後でおいで」


 あくる日、娃子が名刺版を組んでいると、角田さんが言った。娃子は早々に駆け付けた。


「あれねえ、オジサンが専務のところへ金借りに行ったんじゃと。それがあるけん、話を収めた言うような訳よ」


 当然、その話は専務から聞いたと言う。専務もオジサンが角田さんに毎月金を借りていることは知っていたようだ。それで、専務は金を貸したのだろうか。


「いいや、専務は貸さんかったと。ムスメの嫁入りで金がない言うてね。でも、あの専務とこが、なんぼ、嫁入りで金がいった言うても、10万の金がないようなことはせんわ。でも、やっぱり、貸さんようねぇ」


 娃子が貸した金は5千円ずつ返してもらったが、相変わらず角田さんには毎月借りているのだ。そして、またも、すごい話を聞くことになる。

 何と、オジサンはヨコジィのところへも金を借りに行ったと言う。これも角田さんがヨコジィから聞いた話である。

 少し前、ヨコジィのオクサンが亡くなった。その時はみんなで通夜に行った。その一度しか行ったことのない家へ、それも日頃ヨコジィのことを嫌っていたのに、よく行ったと思う。

 ヨコジィも最初は断ったと言う。同じ職場でありながら、取り立てて親しい訳でもないのに、金を貸す気などない。それで一旦は帰ったそうだ。だが、まさかのその日のうちに再度やって来た。それで根負けした感じで貸したと言う。 

 どうりで、最近、ヨコジィにオジサンが機嫌よく接していると思った。

 しかし、金を借りることを何とも思わない人間は、嫌いだった人のところへ行って頭を下げられるのだ…。


 娃子は迷っていた。活版印刷そのものが既に斜陽産業となっている。それでも、各社、生き残りを模索している。そのことよりも、この会社自体に希望が持てない。事務の久美子から聞いたことがある。


「ここはねえ。何とか回っとる状態なんよ。給料が払えんけん、どうしようかぁ思いよった時、社長が来たけん、言うたんよ。そしたら、わしので払ろうけぇ言われたこともあったし。大変なんよ」


 市会議員である社長の給料で、従業員への支払いをしたことも一度や二度ではないらしい。それでは社長宅の生活費は。その時は貯金を崩すのだろうか。そこは商売と言うものは日銭が入って来る。そこから、持って行くと言う。そんな自転車操業で、これから先どうなって行くのだろう…。

 この国の経営者はとにかく人を1円でも安く使おうとする。このオクサンにしたところで、給料を払っているのに、何でボーナスと言うものがあるのか、腹立たしいくらいなのだろう。

 ムスコは仕事は何とか出来るようになったが、狭い作業場であり、印刷用紙の置き場がなくどうにかスペースを作り置いているので、歩きづらいのはわかるが、その紙を踏んで行く。いくら包装してあるとは言え、紙で生活している者がその紙を踏むとは…。

 オクサンも相変わらず、仕事を途中で投げ出してしまう。ムスコもそれを知っているのだが、やはり、ハハオヤには強くは言えないようだ。また、高校生のムスメがいる。このムスメ、クミコには「オネエチャン」と言うが、娃子には見向きどころか、露骨にそっぽを向く。


----お前の顔なんか、見とうないわい。



 写植しゃしょく…。



 



 

















 



















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