埃立ちぬ 六
「娃子!お前、知らんかったんか!」
帰宅したばかりの、娃子に絹枝は声を張り上げた。
それは正男が、ヒゲさんを始めとする向こう連中の前で、茂子に毎月一万円ずつやりますという証文を書かされていた事だった。また、義男もその場にいたと言う。その証文を振りかざしながらヒゲさんは正男に食ってかかる。
「正男さん!アンタはようもわしの顔に泥を塗ってくれたな!」
これには絹枝も怒り心頭である。
「ちょっと待ってください ! 何で、正男が人の顔に泥を塗ったりするんですか ! 泥を塗ったのはお宅の身内の方じゃないですか ! 茂子はあのザマじゃし、君男は」
人殺しと言う言葉をグッと飲んで絹枝は言った。
「前科もんじゃないですか。それに、お宅の身内がどんだけここで居候したことやら。それも、只の居候じゃあのうて。私らが知らん思うとんですか ! 節季の金を盗んで行ったもん。ミシンの頭を持ってたもん。みんな、お宅の身内じゃあないですか !私ゃあ、みんな知っとりますわ ! そりゃ、正男はアネに世話になったかしれん。しれんけど、私ゃ誰の世話にもなっとりゃあしませんけんのっ!」
と、例によって、自分の自慢を付け加えることを忘れない絹枝だったが、これにはヒゲさんも返す言葉がなかった。それでも正男はヒゲさんの機嫌を損ねるのが恐く、今後のこともある。このまま追い返せば、次に、また何をされるやらわかったものではない。金で片付くならそれでいい。
「もう、出すわ」
と言って、証文を書いたのは1月、今は9月。九万円のところを十万円ヒゲさんに払った。
翌朝、もう、用はないとないと帰るばかりのヒゲに、正男は何と一万円札を差し出す。そこには、にわか銭を持った者の余裕があった。
「ニサン」
----これ、やっといたらええやろ。
計十一万円の金を懐にヒゲは帰って行った。
娃子は呆れた。それこそ、泥棒に追い銭ではないのか。本当は茂子に月一万円やるための証文であったのに、それをヒゲがネコババしに来ただけではないか。このヒゲジジィはメイである茂子の面会に行ったこともないくせに、オジがメイの甘い汁を横取りしに来たのだ。それなのに、さらに二万円も余計にやるとは…。
絹枝は正男のふがいなさにも腹が立ったが、何より正男に証文を書かせた場に義男がいたことが許せなかった。そして、その怒りは娃子に向けられた。
これは娃子も知ってのことに違いない。そうだ、あの二人はひそかに連絡を取り合っていたのだ。そして、気のいい正男から、むしり取ろうとしている。そうに違いない。新幹線のなかで絹枝はそのことばかり考えていた。そして、娃子はきっと言うだろう。それが、何よ、と。
だが、今、目の前の娃子は知らぬ顔をしている。娃子はそんなことは知らない。事実、葬式のすぐ後で妙子にミシンをやる相談にしても、どさくさに紛れたとはいえ、その早業に驚いたものだった。さらに、よもやこんな証文を正男が書いていたとはそれこそ夢にも思わぬことだった。
絹枝もすぐに、娃子に対する疑いを解いたわけではない。何と言っても、娃子と義男は血のつながったオヤコである。
血ほど、汚いものはない。血が一番だ。
そのことを娃子に言いすぎたかも知れない。だから、娃子は血に擦り寄って行った。だが、そこは則子が煙たいこともあり、何よりこちらの情報を流すためにこの家に居座っているに違いない。
特に最近の娃子は生意気を通り越して、絹枝に楯付いてばかりいる。子供の頃の素直さなど微塵もない。今回のことは知らないことにしてやっても、これからは娃子にも決して油断すまいと気を引き締める絹枝だった。
だが、娃子も言った。どうして絹枝が付いていながら、そんな金をヒゲにやったのだと。それでは絹枝が急ぎ駆け付けた意味がないではないか。そこを突かれると絹枝も分が悪かった。
「そんでも、正男が出すんじゃけん。出すな言うても、もう、ええわ出すわ言うて。それでもの、娃子。わっしゃあ、只じゃ金は渡さんかったぞ。それなら証文書け言うて、書かしてやったぞ。もう、この家の財産には関わりません言う証文を書かしてやったぞ ! 」
と、絹枝の鼻息は荒かったが、それこそ娃子には信じらないことだった。あのヒゲがそんな証文を簡単に書くだろうか。
娃子がその「証文」なるものを見たのは、秀子の一周忌の法事の時だが、それは博美のノートの切れっ端に書かれたものだった。便箋くらいないのかとつっこむ気にもならなかったのは、それが何の役にも立たない代物だったからである。
絹枝は、この家の財産には関わらないと書かせたとか言っていたが、茂子に関わらないとかしか書いてない。こんな証文がこの先どれだけ役に立つと言うのか。そこに娃子がいれば、もっときっちりとした証文を書かせてやった。
この話には妙子でさえ、呆れていた。
「正男さん、そんなもん簡単に書くものやないわ」
「そやけど、わし、あん時、寝てへんもん。みんな、寝てたやないか ! 」
睡眠不足だったので、元々鈍い頭がさらに、鈍かったと言いたいらしい。だが、寝ていたと言われても、冬なのに、ドライアイスを使用しているので、戸を開けて置けと言うおかしな葬儀屋のせいで、吹きっさらしの寒いところで、みんな少しだけうたた寝をしたに過ぎない。
娃子が、これからは向こうの連中が何を言ってきても取り合わぬように、勝手に何かすれば絹枝にアネに怒られると逃げるように、ましてや書き物などは一切しないように、と釘を刺しておいたが、これでも当てにならない。当てにならなくても言って置かなければ、またちょっと脅されれば、ホイホイと向こうの言いなりになってしまうのが正男である。
「そやわ。娃子ちゃんの言うとおりやないの。これからは向こうからどんなこと言われても、絹枝さんに、アネに言うてくれて言うたらええんやないの。勝手にやったら怒られるて言いよし。それでも何やったら、うち、呼びよし。うちが言うたるさかい。ほんまにしっかりせんと。メイに説教されてどないすんの ! 」
だが、正男もある意味「打たれ強い」ところがある。いやなことはすぐに忘れてしまう。何しろ、家は2軒分の広さになり、秀子の持っていた金はすべて手中にしただけでなく、4軒分の家賃は毎月入ってくる。その金を自由に出来るのだから、笑いが止まらない。今まで買えなかったものをあれもこれもと買い、浪費に走っていた。秀子と言うタガが外れた、いや、今は自分が秀子の席に陣取っているのだ。何より、毎月入ってくる金の効果に酔っていた。欲しいものが自由に買える。金を握らせれば人は黙る。こんな心地いいことはない。
「娃子!起きい!正男に釣り返さんか!お前はそうやって何でも取り込むんじゃ!」
翌朝、絹枝に怒鳴り起された。時計を見ればまだ朝の6時前だった。そう言えば昨日、娃子は正男に買い物を頼まれたが、法事の準備でバタバタしていたこともあり、釣り銭を渡していなかった。そこで、釣り銭を渡せば正男はニタニタ笑いながら受け取った。だが、憤懣やるかたないのは、娃子の方である。そこへ、ちょうど妙子がやって来た。娃子は腹立ち紛れに釣り銭で叩き起こされたことを話した。そして、絹枝に向かい、それなら言うけどと前置きした。
昨秋、娃子は秀子宅に寄ると言う約束で、絵の会のメンバーと京都美術館へ行った。メンバーと別れて秀子宅へ来てみれば、肝心の秀子は旅行中で留守だった。家は旅行中は鍵をけ、正男や子供達が中に入れないようにしていた。
正男宅で学校から帰った博美と話をしていたが、そこに帰って来た孝子は娃子を見るとすぐにふてくされ、疲れたとベッドに横になった。だが、いくら待っても正男は帰ってこない。冷蔵庫には卵すら入ってなく、半分腐った小さな玉ねぎが二つあるだけだった。
娃子は博美を連れて、駅傍の小さなマーケットに買い物に行った。正男が何か買ってくるかも知れないが、それでもいいと思った。
正男が帰って来たのは8時頃だったが、それも手ぶらだった。そして、娃子の作った食事を当然のように食べた。
娃子は正男が何も買ってこなかったことが不思議だった。帰っても何も食べるものがないのは知ってるだろうに、娃子が食事の支度をしていなければ、また、娃子がいなければどうするつもりだったのだろう。博美だけ連れて駅前の食堂にでも行ったのだろうか。
翌日、秀子が帰って来た。この時が秀子との最後になろうとは思いもしなかったが、秀子は日頃溜まった正男や子供達の不満を娃子にぶつけた。秀子の大変さもわからないではなかったが,そこにはかつて、娃子を絹枝と揉めさそうとして
娃子は帰宅してから、秀子から聞いた話はしたが、正男たちのために買い物して夕食を作った話はしなかった。別に他意はない。今まで絹枝がやっていたことをやったまでのことであり、取り立てて言うほどのことではないと思ったからだ。
そう言う経緯がありながら、正男はわずかな釣り銭を娃子にではなく、絹枝に請求した。
「なんや、そやったんかいな。私はまた、正男さんに何ぞ食べに連れてってもろたばっかり思うてたのに。あんたもそれくらいの金もろといたらええやないの」
別に貰う気などないが、寝ているのを叩き起こされてまで請求されることはない。この時ばかりは絹枝も返す言葉がなかったのか、口を一文字にしていた。
「ええっ ! その釣りて、三百円ちょっとかいな。はあぁ、いくら何でも、そら、ないわ、ひどいわ…。絹枝さんはな、金に潔癖すぎるんやわ」
潔癖すぎる?
これを潔癖と言うのだろうか。以前、博美が秀子の財布から金を抜いていたことには、それこそ何も言わなかったくせに、娃子にはわずかな釣り銭すら怒鳴り散らす。それが、血の濃さ故のことなのか。
「へえ、秀子さんもケチやったけど、正男さんもケチやなあ」
だが、この話にはまだ続きがある。食欲がないと言う孝子のためにリンゴも買って来た。娃子が作った夕食を平然と食べた後、そのリンゴを正男が食べているのだ。そうなのだ。正男は家にあるものを食べているにすぎない。あるから食べる。無ければ食べない。そして、孝子に言った。
「薬、飲みや」
この男はいつでも薬を飲めとしか言わない。自分が薬なしでは生きられない身であるにしても、ムスメにもそれしか言わない。
これも正男にすれば、今日は今日、昨日は昨日でしかないのだ。そして、自分が買い物に行けば決まって言う。
「いやー、安かったわ」
何を買っても安かったと言う。それは安いものしか買わないからである。
そう言えば、マミちゃんの姿が見えないなと思った。
マミちゃんと言うのは、妙子の隣室の若夫婦の3歳のムスメである。今年の正月明け、オヤコ三人、実家で正月を過ごし戻ってみれば、葬式だった。誰が死んだのかわからなかったと話していた夫婦だったが、何と離婚したと言う。
この夏、妙子と一緒に古着屋に売る秀子の衣類をひっくり返していたハハオヤの姿が思い出された。あれから数カ月の間に離婚したとは…。
ハハオヤはちょっと暗い感じだったが、マミちゃんは明るくかわいい女の子だつた。狭い自宅とは違い、階下の秀子の家で走り回っていた。
「オバチャン、どんどんっ」
と言って、絹枝の背中を叩いていた。娃子がおやつの用意をしていると「オネエチャン」と寄って来る。そのおやつをおいしそうに食べていた顔が思い起こされた。どこにでいる普通のオヤコに見えたが、その実は誰にもわからないものである。
「朝、起きてもコップに牛乳入れるだけやから」
今も元夫が別れた妻の悪口を言っていた。これは、わからなくもない。
「私ら、あんたみたいな主人やったら、手ぇ合わせて拝んでますよ」
と、手を合わせる素振りをした妙子だったが、娃子は、よく言うなと思った。
では、妻子を捨ててまで、自分一緒に暮らしてくれている今の夫に対して、何も思わない、感謝の念はないのだろうか。また、世の中のどこに、夫や妻に手を合わせて拝んでいる配偶者がいると言うのか。娃子は、そんな神仏の様な夫や妻に、会ったこともなければ聞いたことすらない。
そして、今は絹枝と折り合いが悪くなってしまった、市営住宅向かいの「子連れ狼」も離婚した。こっちは妻の浮気らしい。また、同じ年頃のムスメがいた。場所は離れているが、そこには似て非なる夫婦の離婚劇があった。
法事当日、やって来た邦男はヒゲを生やしていた。それもチチオヤのように口から顎にかけてと言うものではなく、口ヒゲのみである。
「はあ、わしゃあ、ヒゲは嫌いじゃあ」
絹枝はヒゲを生やした男が嫌いである。只でさえ、嫌いなところへ持って来て、向こうの人間ともなれば、尚のことである。だが、邦男はそのヒゲを自慢するように胸を張ってその他の人間を見下ろしていたが、絹枝が登記の話をすれば、すぐに目の色が変わった。
「うん、ここはわしと正男で登記付けるけんの。わしら、ちゃあんと調べたんじゃけん」
「どこで聞いたんや」
絹枝と正男をバカにし、なめ切っている邦男である。それが登記のことまで気が付くとは思ってなかったのか、それ程、バカにしていたのだ。
「そりゃ、言えんの」
こうなれば、絹枝もわざと焦らしにかかる。登記を付けられてしまえば、もう、どうしようもないとばかりに、邦男は帰って行った。
邦男が帰って行くと、果然強気になるのが正男である。
「あれなあ、ヒゲ剃ったら、死ぬねん」
と、さも、知らんから教えてやるぞと言う態で、娃子に言った。確かにそのことは知らなかったが、それが何だと言うのだ。
「わしの知ってるオッサンなあ、ヒゲ剃りよったなぁて思もてたら、死んだぜ」
では、そのオッサンは幾つだったのか。
「八十五やったかいなあ」
そんなことだろうと思った。ヒゲを剃って死ぬなら、剃らなければいい。それだけのことではないのか。そんなことより、邦男のオヤヒゲは来なかった。
「この前のことでバツが悪いんじゃ」
と、絹枝は言ったが、あの程度の事で引き下がる様なヒゲではない。ただ、君男の姿がないのが気になった。
そして、相続登記となるのだが、絹枝としては、アネである自分に対し、正男がもっときっちりとした対応を取ってくれるものと思っていたが、金はすべておのれが取り込み、やって来てもロクなものも食べさせない等々、頭にくることが多々あった。
「正男ぉ。わしゃ、ことによったら、ここの土地、辞退してやってもええ思いよったんじゃがのう。もう、お前一人にゃ、やらりゃあせんわ。わしも欲しいわっ」
その時の正男の顔はひどかった。今まで見たこともない様なふくれっ面で絹枝を睨んだと言う。
「娃子。アレも欲が深いわぁ」
世の中のどこに、欲が深くない人間がいると言うのだ。まして、土地や金など、少しでも多い方がいいに決まっている。
欲に切りないのが人間である。正男も最後の抵抗を試みる。
「そやけど、娃子が先死んだらどないなるねん。庄治の方へ行くやないか。そうなったら、余計ややこしなってまうわ」
もし、庄治より先に、娃子が死ねば、この土地の権利は庄治の身内に移る。そのことを今から憂いているのだ。
「若いから言うて、先、死なんとは限らん」
既に、娃子の死を予期し、そうなった時のためにも、この土地を全部自分に。だが、絹枝にも「所有欲」がある。娃子はともかく、自分はこれから先も生きる。だから、持ちたい。持っていたい。
実際の登記は、この六十一坪の土地の五分の三が正男。五分の二が絹枝と言うことになった。なんだかんだ言っても、絹枝は正男に甘かった。
だが、そのことを知ったかのように君男がこの家の仮処分を裁判所に申し立てた。そして、絹枝と正男は君男から訴えられることとなった。
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