埃立ちぬ 五

 帰宅しても、絹枝の関心事は正男の事ばかりだった。後は相続登記だけだが、それでも、正男のことが気になってならない。


「ああ、このまま、に行きゃあええがのう」


 側で庄治が息を詰めてその話に聞いていた。庄治にすれば、こんな時でも仲間はずれにされたくない。そして、庄治は参加を決意した。その手始めは実印を作ることだった。帰って来るなり、満面の笑みで言ったものだ。


「実印、頼んで来たけんの」

「話し食い!」


 少ししか話を聞かないで、すぐ行動を起こすことを絹枝は「話し食い」と言う。


「そんなもんは、後でもええわ!」


 そして、出来上がった実印は黒に近い嫌な色だった。


 絹枝は指輪をしない。持ってないことも確かだが、この度は秀子の形見の指輪を持って帰っていた。大きな茶色の石だがサイズが合わないので、サイズ直しに出した。

 秀子の指は太く節くれだっていた。顔も目も鼻も口も大きい秀子だが、手も際立って大きかった。その黒く大きな手でを作り、小さなカップを小指をはねて持つのがおかしくさえあった。

 それにしても、いくら元の手が大きいからと言って、美容師の手があんなにも節くれ立つものだろうか。まだ、スコップや一輪車を押したりする絹枝の手の方が、もっとごつごつしただろうに、案外、こじんまりしていた。


「落とすな。落とすなよっ」


 サイズ直しに出した指輪を受け取りに行くのは、娃子だった。その日は朝からうるさいことこの上ない。そんなに心配なら自分が取りに行けばいい。


「指にはめて帰れ!!」


 それこそ、落とすと言い残し、家を出た。、指輪を持ち帰った、娃子は絹枝の前で指輪を自分のオヤ指に通し、下に向ければ苦も無くストンと指輪は落ちた。こじんまりした絹枝の指より細い。

 娃子の左手はどうしようもないくらいきれいだった。単に指が細いだけでなく、その形もいい。まさに女らしい手をしていた。

 天下の美女と言われた女優の山本富士子だが、彼女の手も顔に似合わず、指が太く大きかったと言う。映画の手のアップは他の女優だった。

 指の太さはともかく、せっかくサイズ直しした指輪だが、その後、絹枝が指輪をすることはなく、また、いつの間にか無くなっていた。また、何を思ったか、自分用の喪服を誂えてた。一瞬、誰の葬儀で着用するのだろうと思った。どうやら庄治用らしい。



 そして、初盆に行けば、君男が測量士を連れて来たと言う。思えば、これが波乱の幕開けだったのだが、この時は、まだ、誰も気に留めていなかった。

 相変わらず、幸子はグダグダと言っていた。あまりにうるさいので登記を付けてしまおうと言う話になった時、妙子がを投下した。


「いや、もう一人、居てる筈やけど」


 もう、一人…。


「恒男さんに…」


 何と、恒男に別に子がいると言う。だが、登記に当たって戸籍除籍謄本を取り寄せたが、どこにもそんな記述はない。


「確かに、居てる筈やけど」

「ああ、あれね。ありゃあ、あの後、どうなったんね」


 何と恒男が浮気をした相手の女に子供が出来たと言う。

 ああ、あの時かと、娃子も思い当った。娃子がまだ幼い頃、夜行列車で秀子宅へやって来れば、朝っぱらから恒男が廊下でと足の爪を切っていた。この時、娃子ですら、おかしいと思った。


「アネは?」


 絹枝もいぶかりつつ言った。


「店に居てる」


 すぐさま、店に行った。


「ああ、お前、悪い時に来たなあ…」


 秀子にしてみれば、この修羅場を今、一番知られたくない相手だった。いつも見下している絹枝にだけは知られたくなかったが、やって来たものはどうすることも出来ない。事情を話し、仕方なく家に戻った。

 その後、恒男が女と別れたことは知っていたが、妙子はやはり認知したのではと思ったようだが、戸籍に記述はなかった。


 娃子は詩だけではなく、小説も書く。今、ここで、一つのストーリーが出来上がった。


「認知、してやってくれへんか」

「そんなもん、出来るかいな ! 」


 認知は拒否した秀子であるが、このままでは、到底気が治まるものではない。恒男の浮気は今に始まったことではないが、そのこともあり、茂子を養女にしたのだ。これで、少しは浮気も治まってくれるのではとの期待もあったのに、恒男は茂子に無関心だった。店の経営、家事、茂子の面倒と秀子が大変な思いをしている時に、恒男はまた浮気に走り、挙句がコレである。

 娃子は茂子の年齢をはっきりとは知らないが、10歳は離れていたと思う。恒男の浮気騒動時、娃子が5歳だとすれば茂子は15. 6歳。自分が養女であることを知り、反抗的になった頃である。そして、恒男の浮気。また、そのことを一番知られたくない絹枝に知られてしまった。

 怒り、屈辱、嫌悪といたたまれない秀子はある夜、剃刀かみそりを手に、一目散に恒男の浮気相手の家に押しかけた。赤ん坊に添い寝していた女の髪を掴み、罵声を浴びせつつ剃刀でギザギザに切り捨てた。そして、夜叉のような顔で笑いながら帰って行く…。

 

 あの秀子のことだ。これくらいのことはやっただろう。当然、その時の剃刀は持ち帰り、その後も使った。

 いくら、怒りに任せたとはいえ、商売用の剃刀をに使ってはいけない。だが、ここから秀子のが始まったのだ。

 また恒男も身勝手な男である。いくら、浮気は男の甲斐性と言われていた頃とは言え、家の事も茂子もすべて秀子に丸投げしていた。自分の身内が次々と居候に来ただけではなく金品を盗み、挙句は殺人を犯した君男の身元引受人も暗黙のうちに押し付け、また、秀子が絹枝から巻き上げた金で買った家に住みながら、朝寝をした正男に嫌味を言った。


「正男さん、朝寝したいんやったら、家建ててからにしいや」


 その絹枝にも容赦なかった。


「うん、これは、あんまりええイリコやないな」 


 絹枝の手土産のイリコを齧って言ったものだ。また、娃子が顔の手術で居候していた頃、美容師の練習台になり、その髪型のまま帰った娃子に恒男は言った。


「そんな髪は、顔がきれいになってからするもんやな」


 ある日、恒男が黙って秀子の財布から千円拝借したものだから、秀子は娃子が盗ったものと箒を持ち出し追い回そうとした。帰宅してそのことを知っても恒男は何も言わなかった。そして、とどめは、娃子が茂子以上に荒れ、絹枝と大ケンカをすることをしたが、結果を見ないまま。それも、嫌なことを避けで紛らわせると言う自殺行為の果てに逝ってしまった。さらに、隠し子までいたとは…。



「はあ、やっぱり、のう」


 今度は謄本を見ていた絹枝が言った。


「うちのオトウチャンとオカアチャンは、一度離婚しとるわ」


 何と、絹枝たちのリョウシンは一度離婚をし、再度入籍していた。戸籍、除籍謄本も一度くらい見てみるのも悪くない。どこの家にも、一つや二つの事はあるものだ。

 過ぎたことはさておき、登記を付けるためには代書屋(司法書士)に頼まなくてはならないが、おそらく今は盆休みと言うことで、次に回すことにした。

 

「正男。お前のう、いくら財産貰ろうたけん言うて、オヤの位牌をもっと大事にせえや」


 秀子の位牌は仏壇に祭られているが、オヤの位牌はどこにあるのだろうと思った。部屋の隅の三角棚にはお稲荷さんが祭られていた。その裏にオヤの位牌があるのを絹枝が見つけた。と言うことは、オヤの位牌を持っていたのは、正男ではなく秀子だったと言うことになる。では、遺骨は。


「いや、知らん」


 知らないと言っても、チチオヤが亡くなった時はまだ、長男である正男のアニがいたが、そのアニは戦死している。ハハオヤは戦時中、秀子と一緒だったようだが、では、亡くなった時の遺骨はどうしたのだろう。


「知らん」

 

 この男は何を聞いても聞かれても、知らんしか言わない。


「わしら、知らんがな」


 つまり、正男も恒男に負けず劣らずの無関心男である。日頃もいざという時も全く頼りにならない男ばかりではないか。どうやら、強い女のところへは、そんな男が引き寄せられて来るようだ。いやはや…。



「博美ちゃん。夜はどうするんね、コロッケでも何でもええよ」


 絹枝は博美におもねるように言った。それを聞いた正男は立ち上がり、博美と一緒に市場まで買い物に行く。そして、買ってきたのは、一人二個ずつのコロッケとなぜか刺身が1パック。また、いくら夏とは言え、皿の芯まで冷え切った昼の残りの生野菜とマヨネーズの「サラダ」を博美が冷蔵庫から出して来た。

 絹枝は取り立ててコロッケが好きと言う訳ではない。好んで食べたいとも思わない。ただ、娃子が好きだった。それで夕食の支度が億劫なときなど、娃子にはコロッケと出来合いのサラダ、庄治は刺身、自分も出来合いの惣菜で済ませたこともあった。また、娃子に限らず、若者はコロッケが好きである。いつだったか、仕事先の若いニイちゃんたちにコロッケを差し入れたら、ものすごく喜ばれたことがあり、その時、今時の若者はコロッケ好きと絹鵜の頭の中にインプットされた。

 ならば、博美も孝子も当然コロッケ好きである。それに安価だ。絹枝は正男にあまり金を使わせたくなかった。この娘たちがこれから成長していくのに金はいくらあっても邪魔にはならない。それらの思いから、つい、コロッケと言う言葉が口を突いて出たのだが、いくら何でも正男がコロッケと刺身しか買って来ないとは思わなかった。さすがに絹枝は言った。


「その刺身、誰が食うんや」


 正男はニタニタ笑いながら言った。


「いや、こいつら、食べへんしな」

「食べんなんて言うてないやないの。どっちでもええ言うただけやない」


 博美はよく「どっちでもええ」と言う。どっちでもいいと言うことはいらないと言う意味なのに、博美はどっちでもいいと言えば、否定ではなく、肯定の意味に捉えているようだった。

 それは博美の国語能力がその程度なのか、子供の頃から、遠慮すれば大人に好かれることを知っていたからか。食堂に入った時でも、何を食べるかと聞かれれば「キツネでええ」と言う。安いキツネうどんなら、誰からも反感を買うことはない。

 そこに、博美なりの計算があったとは言え、もう、どっちでもいいが通用するような歳ではない。

 それなら何か、娘たちの好きなものを買ってやればいいのに、自分用の物しか買って来ない正男に腹が立った。絹枝の不機嫌な顔をみた正男は言った。


「お前とこみたいな贅沢ようせん」


 この、お前とは絹枝のことである。正男は一度として絹枝をネエサン、ネエチャンと呼んだことはない。ネエとも言わない。これは秀子に対してもそうであったし、用があるときは側に行き、主語なしに用件だけ話す。また、用のないときしか側にやってこない正男の「クセ」を秀子も絹枝も知っている。確かに、絹枝も秀子をネエサンと呼んだことはないが、そこは二つ違いの姉妹の気安さであり、たまに「アネよ」呼ぶことがあった。

 だが、絹枝と正男は10歳以上歳が離れ、赤ん坊の頃から正男の面倒を見てきたのは絹枝である。子供の頃はネエチャンとか言っていたのだろうに、いつの頃からか「ネエよ」どころかお前になっている。これが庄治には「ニサン」と呼ぶ。いくらなんでも義兄にお前とは言えないだろうが、それにしてもこれを連発するのだ。


「ニサンニサン」


 絹枝も一度電話でそのことを言ったことがある。


「正男、お前は一度も、わしをネエサン言うたことがないのう」


 だが、それだけであった。その後も何ら変わりはない。

 それにしても、歳の離れたアネに、お前呼ばわりはなかろうと娃子でも思う。さらに、今度はムッとするようなことを平気で言った。お前とこのような贅沢とは…。

 絹枝は秀子と違って人をもてなすのが好きである。これが正男や秀子となれば、その比ではない。


「わあ、ごちそう ! 」

 

 と、博美が声を上げた時、そこには勝ち誇り取りすました絹枝の顔があった。


----ほう。毎日、贅沢してんやなあ。


 これが正男にすれば、目の前の料理は特別なものではなく、日頃食べているものが並んでいるとしか思ってない。それに今日は、絹枝がコロッケと言ったから、コロッケを買って来てやったのに、それを不満そうな顔をされたのではたまったものではない。食べたいものがあるのなら、はっきり言えばいい。言わないものはわからない。


 翌日、絹枝は娃子を連れて大阪の町へ買い物に出た。今までなら、博美や孝子も連れて来たが、孝子は美容師であるし、博美は美容学校に行っている。だが、それだけではない。昨日のコロッケのこともあり、いくら何でも気分が悪い。

 前にも正男は娃子と孝子、博美を連れ、遠方のスーパーへ買い物に行った。それも正男が熱心に娃子を誘っているから、何か買ってやるつもりなのだと思っていたが、帰ってきた孝子と博美はそれぞれの買ってもらった物を手にしているのに、娃子が手にしているのはスーパーのレジ袋でしかなかった。さすがに絹枝は言った。


「正男、お前は自分の子供にばかりものを買うてやって、少しは娃子にもなんか買うてやれえや」

「ほしいものがあったら、言うたらええのに、何も言わんさかい。何がほしいんやらそんなんわかるかいな」


 娃子は誰にも物をねだったりしない。正男はほしいものがあったら言いやとも言わなかった。それからは娃子は正男に誘われてもどこにも行かないし、なぜか絹枝もそれ以上のことは言わなかった。

 そうなのだ。絹枝はいつも正男と娃子を天秤にかける。優先順位は決まっているのに、その都度、娃子を天秤へと追いやる。なぜか、それを止められない。


 帰り道、娃子がふと見上げれば「いづもや」の看板が目に入った。鰻の名店である。ああ、ここが「いづもや」かと思った。娃子は入ろうと言った。絹枝もいづもやの名は知っていたようで、いそいそと暖簾をくぐった。

 ちょっと夕食には早い時間で、店内は空いていた。娃子は、千二百円の鰻の上定食を注文した。

 今までも大阪で鰻を食べたことは何度かあったが、一番おいしかった。また、卵焼きの中に鰻が入った「うまき」は初めてだった。絹枝もこれには喜んだ。 


「うまいわ…」


 さらに、金は娃子が払ったとなれば、もう言うことはない。そして、鰻はいづもやと、絹枝の頭の中にインプットされた。

 帰ってみれば、ちょうど夕食時だったが、何と、昨日とは打って違い、食卓の上には肉や野菜が所狭しと並べられていた。

 正男にしてみれば、昨日が簡単メニューだったので、今日は張り込んだ。あの二人はどうせ何か食べて来るだろう。その目論見はこうして当たった。



 翌日、絹枝が電話を取った。受話器からは幸子の声がバンバン響いて来た。例によって、話はああでもないこうでもないの類であったが、ついに、幸子は言った。


「アンタが、義男の子ぉ、貰ろてるやろ。そやから、ややこしいねん」


 その時、絹枝は、娃子を睨んだ。


「知っとったんか」


 ようやく電話を終えた絹枝だったが、娃子の表情が変わらないことに、もしやと思った。娃子は知ってるとだけ言った。


----はぁあ…。知っとりゃがったんかぁ。


 絹枝もを楽しみにしていた。いつ、言ってやろうかと思いをめぐらし、庄治ではないが、絹枝とて何度言ってやろうかと思ったか知れない。この生意気なムスメに思い知らせずにはおくものか。また、事実を知った時、娃子はどんな顔をするだろうか。泣きわめくかもしれない。その時の娃子の歪んだ顔は、さぞ見ものと楽しみにしていた。

 それでも、かわいそうだからと情けをかけてやったのに、それを知っていたとは。また、知った後も平然としている、娃子のこの図太さ…。

 全くもって、油断ならないムスメである。


「わしゃあ、お前にゃ、してやったどぉ」

----これからは、その恩を返せよ。返ささずにゃおくもんか!!

「お前にゃあ、してやったどぉ」


 と、念を押したにもかかわらず、娃子の反応の鈍いことに、貴重な甘い菓子を取り上げられた子供のように、絹枝はふてくされていた。そんな時、博美がかわいい顔を、今はたった一人のオバである絹枝に向けてくれた。


----何と、かわいいことよ。


 やはり、血のつながり程、いいものはない。



 そして、9月。正男からの電話に驚く絹枝だった。



















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