埃立ちぬ 三
猜疑心の塊であった秀子は、早くから家に金庫を置いていた。
当然、金庫の番号を知るのは秀子だけであり、業者に頼むしかない。中に、何が入っているのか、誰しも気になるところだが、特に義男はニタニタが止まらない。
すぐ側で金庫が開くのをじっと待ち、開いた金庫の中に真っ先に手を入れたのも義男であった。そして、一番気になる現金を取り出し数え始め、その中から三十万円をヒゲさんに渡した。
「これで、酒飲んで、弁当食うて帰って下さい」
思わぬ展開にヒゲさんは大喜びで帰って行った。娃子は不思議だった。本来なら正男か絹枝が金庫の中を調べるものであり、まして中の金を勝手に扱うなどおかしいことなのに、二人とも義男の勝手にさせている。
「ネエサン、あんたにもあげよう」
と、差し出された五万円を絹枝は黙って受け取った。
「のう、見てみいや。これで酒飲んで弁当食うて帰って下さい言うたら、ホタホタして帰ったで」
そりゃ、そうだろう。オトウトの連れ合いの葬式にやって来ただけで、三十万円も貰えたのだ。誰でも喜ぶ。その勢いで、義男は正男に言った。
「のう、日当くれえや。日当を」
この時はさすがに正男が怒った。
「そんなん、やれるかいな」
義男にすれば、ヒゲさんに金を持たせてここは穏便に追っ払ってやったし、絹枝にも少し握らせたではないか。次は自分の番だ。だが、正男も金のことになればその人格は変わる。それに、本来はヒゲさんにも義男にも金を出さなければいけない筋合いはないのだ。
娃子は情けないと思った。義男に対する気持ちは子供の頃から変わってない。義男も則子も嫌いだった。ずっと嫌いだったし今も嫌いだ。それでしかない。しかも、親族の葬儀で日当を請求など恥知らずにもほどがある。では、ヒゲさんへの三十万円は一体何のための金なのか。自分が貰いやすいように勝手に先出しをした。だが、当ては外れた。
金庫の中には家の権利書の他に一通の封書が入っていた。それは秀子の寄付に対する礼状だった。どうせ、付き合いで仕方なくしたのだろう。また、秀子は孝子と博美のために毎月500円ずつ貯金をしてやっていると言っていたが、そんなものはなかった。
そして、残りの金は正男が手にした。それだけではない。秀子の寝室からは一万円札が数枚二つ折りになったのが、いくつか出て来た。ちょっとそこに隠しておいたつもりが、そのままになったのか、枕や布団の下に隠したのさえ忘れてしまった、いや、もうボケが始まっていたのだ。
それを絹枝は一々正男に渡した。正男は平然とその金を受け取った。
「ちいと、抜いちゃろうわい」
と、絹枝は最後に見つかった中から二万円抜いたが、娃子は全部貰っておけばいいのにと思った。絹枝にしても、今まで正直に渡した金のうちから、少しくらい分け前をくれても良さそうなものなのに、よもや正男が全部取り込むとは思いもよらぬことであった。
さらに、業者が古着を引き取りに来た時、娃子と絹枝は出かけていた。帰宅すると妙子が駈け寄ってきた。
「絹枝さん、あのお金のことやけど。ちょうど、則子さんが来てて、何でも、何やらのお金貰うてないよって、これ貰うとくわて、持って帰ったんやわぁ」
「ええっ、わしゃ、あの金はあんたらの茶菓子代に思よったんじゃに、はあ…」
----何と、欲な。チョッキやるんじゃなかった。
絹枝は則子にチョッキをやったことを、今こそ、後悔した。古着を売ったわずかの金も「口実」を付けて掠めて行っただけでなく、あれからずっと入り浸り色々持って帰り、また、あれこれ食べ散らかしたではないか。
それでも、絹枝も正男もこの時はまだのん気に構えていた。絹枝は「向こう」の出方を待っているが、正男は何も考えてない。しかし、気になるのは茂子である。このまま居座わられても困るが、下手に茂子に何かすれば「向こう」にどんな因縁をつけられるやも知れない、それを恐れて何もしない。
この向こうとは恒男の身内のヒゲさんや、そのムスコの邦男のことであるが、イトコの義男も時と場合によっては向こう側に付くかもしれない。
絹枝は自分の味方であるが、所詮はよそ者、何の知識も持たないアホ女でしかない。頼みの綱は幸子である。幸子は茂子の味方であっても、悪い人間ではないから、黙って言うことを聞いていれば、悪いようにはしないだろう。
----世の中、付いて流れとったらええんや。
これが正男の人生である。絵描きになりたかったけど、それでは暮らしていけないと言われれば諦めた。戦後、戦地から生きて戻ったが、さすがにこの時はどうしようも出来ず、アネの秀子の許で肩身の狭い居候暮らしをしていた。そして、正男を追い出したい一心の秀子から勧められるままに、ヨメを迎えた。働き口も世話してもらい、子も出来た。その後、夫を亡くした秀子との同居も言われるままに従った。ヨメと秀子の折り合いが悪く離婚となったが、それならそれでいい。
やがて、秀子も亡くなり、ちょっと揉めているが、ここは大人しく、向こうの言う通りにしていればいい。この家を出ろと言われれば、それなりの金をもらって出ればいい。いくらなんでも只で出て行けとは言わないだろう。そのためにはとにかく何もしないことだ。茂子の面倒は女連中に任せておけばいい、と、すべて、流れ任せで生きて来た正男だった。
だが、みんな茂子を持て余していた。そして翌日、この時だけは一致団結して、茂子を病院に帰るよう説得をした。
「そんなん、うちはもう治ってるわ。薬かて毎日飲んでるし、オカアチャンはずっと居ってくれ言うたし。それにな、うちはキチガイやないねん。精神分裂症やから」
精神分裂症?では梅毒は、脳梅毒はどうなったのか。
「そやけど、茂子ちゃん、自分のこと何もでけへんやないの」
妙子が言ったのを受けて、絹枝も言った。
「ふん、自分の体の始末もようせんくせに」
絹枝は子供の頃からかわいがってくれたし、大人になってからも明るく接してくれていた。絹枝は味方だと思っていたのに、がっかりした。それでも、茂子にとって、自由の空気ほどすばらしいものはない。
「あれはな、娃子ちゃんが洗ろたる、洗ろたる言うさかい」
と、まるで、娃子が余計なことをしたかのように言ったものだ。
「とにかく、うちは、もう治ってんやさかい !」
----病院なんか帰りたない!
茂子はみんなが食事をしているのに、すねて、一人ハンストをしていたが、その巨体が空腹に勝てる筈もなく、みんなが食べ終わった後、いつもの食欲で口にものを流し込んでいた。
その後も説得が続いたが、ついにヒゲさんが言った。
「アンタは、70パーセントは治ってる。しかし、後の30パーセントがまだやから、後の30パーセントを治しなさい。そのためには掃除でも何でもしなさい」
このヒゲさん、昨日の三十万円で気分良く帰ったのかと思っていたら、また、今日もやって来た。まだ、何か持って帰りたいのだろう。
一番年長のヒゲさんに説得されると、さすがの邦子も諦めが付いたようで、迎えに来た君男に連れられて病院に戻って行った。だが、絹枝はそのヒゲさんの言い草がツボにハマったようだ。
「うまいこと言うたじゃないか、うまいこと言うたじゃないか」
そして、ヒゲさんの口真似をしながら。
「アンタは60パーセントは治ってる。治ってるけど、後の20パーセントがまだじゃ」
と、言うたびにそのパーセンテージはまちまちで、合計が合わないにも気付かず絹枝は一人ではしゃいでいた。
「娃子、ありゃ、うまいことを言うたで」
何がうまいことか、当たり前の話をしただけのことではないか。ただ、ヒゲさんはその今どき珍しい顎ヒゲと言う風貌と袴の出で立ちに加え、弁舌も滑らかであった。そして、孝子と博美にもあれこれ「お説教」を垂れていた。
娃子も側で少し聞いていたが、たいしたことは言ってない。ごく当たり前のことを言っているに過ぎないのだが、ヒゲさんにかかればそれらしく聞こえるものだから、孝子などはものすごく真剣な顔をして聞いていた。
いつも大人を舐め切って、誰の言うことも聞かないくせに、ヒゲさんの風貌と口調にすっかり呑み込まれてしまっている孝子がおかしかった。娃子は、心の中で「バーカ」と言った。
何があっても懲りない絹枝は、またも気まぐれを起こす。
「博美、高校行けえや高校へ」
中学三年生の博美は4月から、孝子と同じく美容学校に行くことになっている。それを、いきなり高校に行けと言い出したのだ。
これは絹枝のえこ贔屓でしかない。絹枝の中の順番は一にも二にも正男に変わりないが、次は博美である。孝子が美容師になったのは、秀子によって決められたことであるが、その秀子がいなくなった今、博美まで美容師になることはない。一人くらい高校に行かせてやってもいい。それは、博美へのゴマすりでもあった。
例によって、孝子は嫌な顔をしている。兄の智男も自分も中卒である。別に好きで美容師になった訳でもなく、何が何でも高校へ行きたかった訳でもないが、そこには既に美容師と言うレールだけが敷かれていた。
秀子もそうだったが、この絹枝と言う「ババ」のえこ贔屓も相当なものである。ちょっと顔がかわいいと言うだけでこのザマだ。また、博美もみんなに好かれていることをいいことに、図に乗っている。
「行かん…」
と、博美は言った。それはアニやアネへの遠慮というより、そのつもりで受験勉強してなかったからである。絹枝は簡単に高校と言うが、同級生はそれこそ必死で勉強している。今からでは間に合わない。うっかりすれば、全滅するかもしれない。高校がダメだったから、やはり美容学校へと言うのでは体裁が悪い。
絹枝も博美が行かないと言うならどうしようもない。いや、絹枝の関心はすぐに別の物に移る。
「ゲヘヘッ」
ついに、この時がやって来た。絹枝は秀子のすごい過去を嬉しそうに暴露した。
思わず、娃子は「あのババア」と叫びそうになった。
昔、秀子が早くに家を飛びだしたことは知っていたが、それは旅芸人の一座にくっ付いて行ったのだった。オヤがやっと探し当てたとき、秀子は大きなお腹で「オカアチャン」と駆け寄って来たそうだ。やがて、秀子は男の子を産んだ。
その子は「助」と名づけられオヤの戸籍に入ったが、数年後には死んでいる。だが、娃子は見殺しにされたのだと思った。この頃、秀子のオヤたちが幾つか知らないが、当時としては高齢、いや、ジツのマゴに「助」と言うどうでもいい様な名前を付けたことからして、死ねばそれまでと言う育て方をしたのだろう。この「助」がいつまでも生きていては、秀子の為にならない。こんなソフボもいるのだ。
娃子が許せないのは、秀子にそう言う過去があったことではない。おのれのしでかしたことは棚に上げ、口を拭い、今時の若い女たちをこき下ろしたことだ。
「今の若い女は、貞操をすぐに紙くずのように捨ててしまう」
と、平然と言った。人は誰も知らぬこととなれば、平気で「ウソ」をつけるのだ。明治女は芯が強く貞節だと聞かされ続けてきたが、こんな身近にろくでもない明治ババアがいた。そして、人の口ほど重宝なものはないと言うことである。
エラそうな大人程、疑ってかかった方がいい。
それにしても、もっと早くにこのことを知っていたらと思ったものだが、やはり、絹枝がアネの恥を言う筈はなかった。
そして、一段落ついた絹枝と娃子は帰ることにした。見送りに来た正男は土産用の岩おこしを買った。絹枝は上機嫌であった。
「正男が岩おこし買うてくれたじゃないか、買うてくれたじゃないか。アレも気持ちはあったけど今までは金がなかったから、買えんかっただけのことよ」
たった一つの岩おこしで絹枝は天にも登る心地になっていた。
これが、もし絹枝が先に死んだのなら、秀子は絹枝のものを根こそぎ持って帰ったことだろう。以前秀子が絹枝に言った、お前が死んだら後のことは「あんじょうしたるさかい」とはこのことだろう。
秀子の狙いは先ずは絹枝の持っている衣装だ。そして、正男たちに持てるだけ持たせて意気揚々として引き上げたことだろうが、では、娃子をどうするつもりだったのだろう。まさか、あの秀子が物だけで満足して帰るとは思えない。おそらく女中代わりにするつもりで、娃子を連れ帰ったことだろう。
それが秀子の「あんじょうしたる」ことであったに違いない。だが、秀子は死んだ。絹枝より先に死んだ。やっぱり、先に死んだ者の負けである。秀子は絹枝に負けた。その腹いせに大量のゴミと揉め事を残して死んだのか。
いや、娃子に残してやったのだ。あれほど
----ザマアみさらせ。
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