埃立ちぬ 二
そして、いつの間にか出来上がっていた、遺産相続争いのドラマで見たのと同じ展開図がそこにあった。監督こそいないが、皆、その役割を熟知している。
もっともらしい顔つきの幸子が上座に座れば、その右には、ヒゲさん夫婦、邦男。左に正男、義男、則子。少し離れて絹枝。本来なら、絹枝が正男の次にでも座るのだが、ここでも絹枝は控え目を貫き、取りすました顔で半分そっぽを向き、耳掃除をしていた。
その次に、娃子、博美。妙子はヒゲさん側から少し離れて座っていた。そこしか座るところがなかったからだ。
皆、一様に黙ったままだ。誰が口火を切るのか。腹の探り合いと言うより、迂闊なことは言うまいと用心しているようだった。
「正男さん。茂子の事、どないするつもりや」
じれったい状況にしびれを切らした邦男が口火を切った。正男は虚を突かれたような顔で反っ歯を突き出したまま、固まっている。
「そやから、どないするつもりや言うてんねんや」
誰かが助けてくれるのを待っていたのに、こんな時に限って絹枝も知らん顔している。
「福祉が…」
邦男に睨みつけられ、それだけ言うのがやっとだった。この福祉と言うのは、生活保護の事である。秀子と茂子は養子縁組を解消している。茂子の兄弟は君男の他に数人いるが、誰も茂子には知らん顔である。脳梅毒で精神に異常をきたし、うろついているところを保護され、精神病院へ入院となり今もその状態が続いている。
「福祉言うたかてなあ」
すかさず幸子が正男に命令を下す。
「頭下げとき、頭下げとき」
「へへえぇ。よろしゅうお願いします」
まさに、開いた口がふさがらないとはこのことだ。茂子のことはどうしようもないことである。今のまま、病院暮らし以外にどんな方法があると言うのだ。日頃は茂子のことなど眼中にないくせに、一度として面会に行ったことのない邦男に、何を言われなければならないのだ。
「ここは茂子のもんや」
と、幸子は胸を張って言ったが、則子も言った。
「それはないわ。養子縁組解消されてんのに」
「いや、あるねん。私は聞いたんやから。勘当されてても、あるねん」
「それは実子の場合で、養子の場合はないんやから」
さすがは則子である。ちゃんと調べている。
勘当などと言う法律用語はない。実子の場合はいくら疎遠であろうと財産権はあるが、養子の場合はない。幸子は養子である事実を告げないまま、少しは法律知識のある人に聞いたのだ。
「いや、あるねん。そや、茂子もやけど、この人らにもいくらかあげてほしい。よう、ヒデちゃんの面倒見てくれた」
その時、義男と則子の顔が引き
「そやから、ここは、茂子のもんや」
それでも尚、絹枝は取りすましたままだ。ここで、うっかり口を開けば、自分の持つ「清貧の人」と言うイメージが崩れてしまう。
----何やかや言うても、やっぱり絹枝も欲の皮、突っ張ってるやないか。
だが、ここで、娃子が絹枝に言った。いつまで何を黙っているのかと。
「アンタは黙っとり。アンタは、黙っとり」
----お前に口出す資格はないんやからな。
いや、本来なら、他人の幸子がこの場に、それも上座でふんぞり返っている方がおかしい。それを許しているのは、ひょっとして幸子が何か爆弾を持っているのではとの思いからである。
「私ゃ、いりません。何にもいりません」
ようやく、絹枝が口を開いたかと思えば、これだ。正男もアホなら、絹枝もどうしようもないアホである。
このままでは
例え、首に縄を付けた所でこの巨体がそう簡単に動く筈もない。さらに、頭の中はともかく、口は達者と来ている。だが、今は何より、茂子を病院に戻すことが先決ではないのかと、娃子は言った。
法的には、相続人は絹枝と正男である。おそらく、このことを邦男は知っているだろう。だが、それでは面白くない。そこで、どうしようもなく小心者の正男にゆさぶりをかけた。
----少しはこっちにもよこせ。
そこに、これまた無知な幸子がとんでもないことを言い出した。だが、これは、逆に自分たちにとって好都合かもしれないと邦男が思った時、とんだ伏兵がいた。
娃子が今現在の茂子をどうするのかと言い出した。もっともな話ではあるが、それは、正男が何とかすればいいのであって、冬は日の暮れるのが早い。今夜のところは小手調べと言うことで引き上げることにした。
だが、義男と則子はそのまま残った。この二人、家の中の物に興味津々だった。先ずは目星をつけて置きたいのと、いくらアホとは言え、絹枝と正男の様子も気になり、また、娃子も意外に悪知恵が働きそうなので、それも気になる。
そんな中、呑気な絹枝が大きなフルーツ缶を見つけた。早速に缶切りで開けてみれば、表面にギラギラしたものが浮いている。これは食べない方がいいと捨てた。
ふと、娃子は思い出した。いつだったか、10年前の缶詰があった。
「何言うてんや。そんなことあるかいな」
と、秀子は言ったが、その後、缶詰はどうなったのか。いやいや、秀子のことだ。食べたに決まっている。さらに、冷凍庫を開ければそれだけで臭いがした。臭いの元は鶏肉だった。絹枝が黄色い物体を手に取り眺めていた。
「こりゃ、数の子じゃ」
「去年、数の子買うてない」
孝子が言ったが、去年と言っても数日前である。普通、去年買った数の子を年が明けてからおせちとして食べるのだから、冷凍することはない。
するってえと、これは一昨年の物…。
「こりゃ、だめじゃ」
当時のテレビのワイドショーで、よく言われていたのが「冷蔵庫を過信してはいけない」だった。だからと言って冷凍ならいいと言う訳ではないが、秀子のことだ、冷蔵はダメでも、冷凍すればそれこそ永遠に保存できるとでも思ったかもしれない。鶏肉の匂いくらい洗えばいい、そんなところだろう。
また、流し台の引き出しを開けてびっくり。そこには弁当に入っている、魚やボトル型に入った醤油。正式には「ランチャーム」と言う。そのランチャームが引き出し一杯に入っていたのだ。
町内旅行の時の弁当に入っているのを持って帰った。いくら何でもそれだけでは引き出し一杯にはならない。町内の人で秀子のケチぶりを知らぬ者はいない。その人たちが率先して秀子にランチャームを差し出す。それを全部持って帰り、すぐに使えばいいものをこうして取っておくのが、秀子の秀子たるゆえんである。
娃子は孝子に全部捨てろと言った。いくら旅行好きであるとは言え、年に2、3回。例え10人分のランチャームにしたところで、これだけの数である。下の方のはそれこそ何年前の物か知れたものではない。とにかく捨てる物の多い家である。
その後、散々あれこれ食べ散らかした義男と則子がやっと帰ったので、娃子は絹枝に言った。あの時、どうして黙っていたのか。言うべきことはきちんと言わなければ、それこそ、茂子を押し付けられるかもしれないと。
「ほいでも、わかるじゃろうが。風邪ひいてよう声が出んかったんじゃ」
確かに、絹枝はこの時風邪をひいていた。だが、鼻声でも、こうして話くらい出来るではないか。もっと、しっかりせねば舐められてしまうときつく言って置いた。この時ばかりはさすがに返す言葉もない絹枝だったが、照れ隠しか、大仰に驚いて見せた。
「娃子、これ見てみいや。ドロドロじゃないか」
それは、娃子が縫ったと言って、秀子にやった既製品のチョッキだった。汚れたままハンガーにかけてあった。
一夜明ければ、絹枝と娃子は片付けにおわれた。
それにしても煙い。葬式からこっち、線香を焚きっぱなしなのだ。昨日だけで終わるのかと思えば、また、今日も焚き続けると言う。渦巻き型の線香を夜中も絶やさず焚くのだそうだ。これでは、娃子など良質の骨付きハムになってしまう。
ドライアイスで戸を開けっぱなしにしたかと思えば、遺影は紋付姿ではなくてはならない。線香は焚きっぱなし。この辺りの葬式のことはよくわからない。
その煙い中、昨日の腹いせもあってか、娃子は絹枝にこき使われることとなった。
正男たちのために秀子のいらないものを捨ててやらねば、男の正男にはそこまで気はまわらないだろうから、正男にとっての肉親のアネは自分だけである。もう、何でもしてやる。その心の内には、庄治は論外であるが、娃子がどこまで当てになるものかわかったものではない。本根を言えば、すぐにもここで自分も一緒に住みたい。そして、正男と子供たちの面倒を見てやりたい。そのための第一段階でもあるのだ。
そして、則子も妙子も薄ら笑いを浮かべながらやって来た。形見分けをもらうのはもちろん、なじみのある家であるが、よそのタンスを開けられるのだ。その中には何が入っているのか、やはり気になる。
確かに、人の家を勝手に家捜しできるのは楽しいことである。そのほとんどがろくなものでないにしろ、たまには何かいい掘り出し物があるかもしれない、それを早く見つければ自分のものにできる。
だが、死んだ人間の残したもののほとんどはゴミである。それでもその人の暮らしに関わっていたものなら、処分するのもそれほど苦ではないが、秀子の残した物の多くはかき集めた他人の不用品である。タンスだけではなく、棚の上にも箱が積み重ねてあり、音がすると思えば中は貝殻であったり、脈絡の無い新聞の切抜きだった。
そんな中、絹枝が薄色の着物を手にして言った。
「これがジイサンとの見合いのときに着ていった着物じゃ」
庄治の呼び名はとっくに、ジイサンになっていた。それにしても、かつて妙子は秀子を乞食の生まれ変わりと言ったが、これでは、娃子の言った通り泥棒の生まれ変わりではないか、絹枝がどんな経緯でこの家にその着物をおいて行ったのか知らないが、あれから、30年近くも秀子はこの着物を所有していた。絹枝がいくら貧乏していても、着物を手渡すことはなかった。娃子が買ったボウルを黙って使ったように、手にしたものを返さないのは泥棒と同じである。
さらに、新しいままに薄汚れてしまった日本手ぬぐいが段ボール箱に入れ込まれていた。
「やれのう、こんなにあるなら、わしにくれときゃ、もっと家の用事をしてやったのにぃ」
絹枝には日本手ぬぐいは仕事の必需品であった。まず、アネさんかぶりをする。ヘルメットの下にもかぶるし、首に巻くこともあった。そんな日本手ぬぐいでさえ、思うように買えない時期もあった。娃子は社員旅行に行けば、絹枝のために日本手ぬぐいを買って来たが、それでもその時の土産物屋の店頭にもこんなに多くの手ぬぐいは置いてなかった。
「わぁ、これ、もらえませんっ」
と、語尾を上げ一応尋ねる態の妙子だが、それは「これ、もーらい」に他ならない。絹枝に正男に聞いてくれと言われ、これまた一応聞くが、正男が断るはずが無いのは承知の上である。妙子は置き時計をゲットした。
さらには、絹枝が古着屋に売るために、衣装ケースに積み上げていた衣類を、隣室の主婦とそれこそ何度もひっくり返したものだ。
「いや、これ、ええわ」
絹枝とて妙子には気を使っていた。秀子亡き後、絹枝がすぐにここで正男と同居できるわけでなく、いつ、正男が妙子の世話にならぬとも限らない。だから、秀子が買いだめしていた砂糖や昆布などを惜しげもなくやった。
この度、自分と揃いの別珍のチョッキも持って来た。やるつもりだった秀子が死んだからといって、同じ柄のチョッキを二枚もいらない。また、違う柄で娃子に縫ってもらえばいい。そこで、娃子にあのチョッキを妙子にやってもいいかと聞いた。娃子にしても依存はなかった。
「まあ、私にぴったりやわ」
と、体型も同じようなので喜んでいたではないか。それなのに、まだ、あれもこれもとほしがる。人の欲にはきりがないものだ。
それにしても、無い。無いのだ。
実は、娃子は昨年の秋、京都で開催されたある美術展に絵の会のメンバーと行った。その帰りに秀子宅に寄っている。その時、秀子が近くの洋裁店で仕立てた、白地に紺の分銅柄の夏スーツを見せた。
絹枝は来る度に新しいスーツを着て来る。それだけでなく、帰り用のスーツも持って来るのだ。その他、スカート、ブラウス、チョッキ等もほぼ新しいものである。
その昔、絹枝がまだ着るものに不自由していた頃、秀子は一枚の服とて貸しもしなかった。それどころか、そのみすぼらしい姿を「おなごしや」とバカにしていた。
それがいつの間にか逆転してしまった。孝子に博美、果ては茂子にまで洋服を作ってやるが、秀子には何もない。じわじわと外堀を埋められるような心境だった。
さすがに、これだけ見せびらかされれば、秀子とて新しい服の1着くらいは欲しくなる。そこで、清水の舞台から飛び降りる覚悟で夏用のスーツを作ったのだ。
だが、そのスーツがいくら探してもないのだ。別に絹枝がそのスーツを欲しがるとは思ってない。
「いらんわぁ。こんな年寄り柄」
と、言うに違いない。それでも一応見せようと思った。だが、それが無いのだ。
おそらく、幸子が「形見分け」として、黙って持って帰ったのだろう。
秀子は、このスーツを着て出かけたことはないだろう。また、初めて秀子用のチョッキを縫って持って来たことも知らぬ間に、あの世に旅立ってしまった。
片や、則子は長女が結婚するので、何か持たせてやれるようなものを探していたが、秀子の寝室に、カトラリーがいくつかあるものの、それらはすべて不ぞろいだった。その結婚話もすました顔で娃子にひけらかした。
「○○ちゃん、結婚しはるよって」
この「はる」は大阪弁の丁寧語である。ひさしぶりに親戚の家にやって来て「いてるかあ」と声を張り上げたくせに、自分のムスメの結婚には「しはる」とは。もっとも、これは、娃子に対する当てつけでもある。
----ふん、おまえなんか、一生かかっても、もらい手なんかあるかい。ざまーみさらせ。
幸か不幸か、娃子はその手のことには慣れている。身内に限らず、娃子に向けられる視線はずっと冷たく厳しいものでしかない。娃子とて、結婚のことを考えないではない。結婚してみたいという気と、結婚して幸せになった人がいないことがネックになっていた。絹枝や秀子はもちろんだが、則子とて幸せな結婚をしたとは言えない。
「そりゃ、長い間には色々あるわ」
----お前にゃ、それすらない。
だが、そんな則子に絹枝はとんでもない気まぐれをおこしてしまう。絹枝は今回コートの下に今流行のベストスーツを着てきた。別珍のような安い生地ではなく、しっかりしたいいツイード生地で、長めの丈のベストとズボンを作っていた。それなのにベストスーツの上のベストを則子にやってしまったのだ。則子は背が高いが、丈長のベストなので則子が着てもおかしくない。
娃子が気付いたときにはすでに遅かった。そこには則子の得意げな顔があった。
----ふん、わしがくれ言うたわけやないわい。ざまあみさらせ。
娃子は絹枝に怒った。どうして、上下揃ったものを人にやるのだと。上下揃ったものはそのバランスも考えて作っているのだ。絹枝はニタニタ笑っているだけだったが、そのときはもう後悔していた。だが、それを顔に、口に出すわけにはいかない。
妙子にやったチョッキとはわけが違う。あの時絹枝は、娃子に了解を取ったではないか。それなのに、よそ行きにもなるベストスーツの上だけを勝手に人にやってしまうとは。それもあのろくでもない着物を縫った則子なんぞに、娃子は自分の縫ったものをやりたくはない。
娃子は上下揃ったものを人にやるのなら、もう何も縫わないと言った。ここでしっかり怒っておかないと、絹枝の秀子と違ってケチだと思われたくない気まぐれの虫が、またいつ頭をもたげないとも知れない。それにしても、上下揃ったものの片割れを、それも則子にやるとは夢にも思わないことである。 だが、その後、娃子が絹枝の服を縫うことはなかった…。
翌日、義男が金庫師を連れ、意気揚々とやって来た。
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