第八章

埃立ちぬ 一 

 あれに見えるは、絹枝ではないか。

 また、新しい服、着て。

 でも、それももうすぐ私のもんになる。

 絹枝の服も、金も、みんな、私のもんになるんや。



 もうすぐ、正男と博美が茂子を連れて帰って来る。そうなのだ、茂子は年末年始はことになっている。やはり、正月くらいは家で過ごさせてやりたい。


「オカアチャン」


 茂子の声がした。


「お腹、空いた」


 と、早速に食卓に向かう。そこには巻き寿司が用意してあり、すぐに食べ始める茂子だった。いつもの年末である。

 何と言っても、秀子にとって茂子はムスメなのだ。オヤコとして暮らした時間も長い。茂子の食べる姿を見ると言うのもいいものだ。絹枝ではないが、出来れば、秀子とて茂子を手元に置きたい。やはり長い入院生活はかわいそうだと思う。だが、それには茂子の面倒を見る者が居なくてはならない。


----そやそや、居てたわ。茂子、もうちょっと待ちや。絹枝が死んだら、娃子、連れて来たるさかい。そやった。娃子に面倒見させたらええんやった。


「茂子ネエチャン、風呂入って」


 博美が言った。


「いやや」

「茂子、入ってき」

「いやや」

「そんなら、私が先入るわ」


 秀子は湯船の中で、自分の頭の良さに酔っていた。


----ホンマ、私は頭、ええなあ。これからは茂子と、娃子で暮らせばええんやった。


「なあ、あの子、博美ちゃんもろときよ。あの子やったら茂子ちゃんの事かて、ちゃんとしてくれるわいな」


 近しい友達は、博美を養女にしろと言う。


----確かに、博美はええ子やけど。後10年もしたら、嫁に行ってしまう。いくら、婿養子とって後を継がせる約束したかて、あの器量や。ええとこから嫁の貰い手あったら行ってしまうやろ。その点、娃子にはそんなもんないし。洋裁出来て、金も付いて来る。何で、これを逃さなあかんねん。


 その時、風呂の戸が開き、風が入って来た。博美が様子を見に来たのだ。


「寒いやないか。いつまで戸ぉ開けとんねん。早よ、閉めや」


 博美は戸を閉めた。

 

----せっかく、ええ気持ちになっとったに。


 秀子はそう遠くない未来に思いを馳せていた。


----そやけど、絹枝。一体、なんぼ持ってんねんやろ。100万、200万、いやいや、こんなもんやない。あの落ち着きぶりからして、もっと、持ってるわ。ああ、絹枝、早よ、死なんかなあ…。


 それにしても、何か、騒々しい。


----うるさいなあ。静かにせんかいな。せっかくええ気持になってんのに…。

 

 気が付くと、秀子は布団の中にいた。


----いつの間に?


 博美が最初に秀子の様子を見に行った時は、風呂の中から秀子の声がしたので、すぐに戸を閉めたが、その後も中々風呂から上がって来ない。再度見に行けば、秀子は風呂の中に沈みかけていた。

 すぐに正男に知らせ、ブザーを押した。このブザーは妙子の部屋につながっている。急ぎ、妙子と夫がやって来た。秀子を湯船から引き上げ布団に寝かせた。

 普通なら、ここで救急車なり、かかり付け医に知らせるところだが、布団に寝かせただけで終わった気になっている正男だった。妙子が何か言ったので「ふん」とか言ったような気がする。

 しばらくして、幸子が駆け付けた。秀子の様子を見ると、すぐにどこかへ行き、しばらくして、手に何か持って戻って来た。


「これに水入れてき。早よしっ」


 と、薬のみ器を博美に押し付け、自分はオブラートに白い粉を包んだ。


「さあ、の薬や。これで、元気になるわ」


 と、それを秀子の口に入れ、水で流し込もうとする幸子だったが秀子はむせてしまう。


----わっ、何や、これ。誰や、何、口の中へ。


「どや、。元気になったやろ」


----何が、元気や。こっちの方が死ぬ思たわ。


「このまま、寝かしときや」


 秀子に薬を飲ませた幸子は、それだけ言って帰って行ったが、ずっと側にいた茂子は薬のみ器の水を飲ませると、秀子が元気になると思ったようだ。


「オカアチヤン、水」

----あっ、茂子、何すんねん。止め言うたら、止めんかいな。ううっ。


 その時は、博美が気付き、すぐに薬のみ器を茂子から取り上げ事なきを得た。

 翌日には、則子もやって来た。


 「絹枝のネエサンに知らせたろか」


 と、則子が言ったが、秀子は首を振った。


----冗談やない。絹枝にこんなとこ、見られとぉない。心配せんかて、すぐに元気になるわ。何で、この私が…。死ぬのはアホの絹枝が先や!!


 今まで見下げて来た絹枝に、ちょっと体調を崩したからと言って、枕元であの薄ら笑いで見下げられたくない。そんなことにでもなったら、首を絞めてやる。

 それにしても、中々起き上がれない秀子だった。  




「アネワルイ スグコラレタシ」

 正月の三日に電報が来た。娃子と絹枝はすぐに大阪行きの新幹線に乗ったが、着いた時には秀子は息を引き取った後だった。風呂で倒れてそのままだと言う。

 娃子はその場に茂子がいたのにちょっと驚いたが、正月はいつも秀子たちと過ごすのだそうだ。だが、一人見慣れぬ男がいた。誰だろうかと散々頭を巡らして見たが、それでもわからない。そして、やっとわかった。それは君男だった。すっかり面変わりしていた。髪はポマードでも付けたようにペタッとし、体も小さくなった様に思えたが、その声でわかった。

 それにしても、寒い。見れば、玄関の戸が開けっ放しではないか。


「ドライアイス使てるよって、葬儀屋が明けとけて」


 則子が言ったが、冬にドライアイスを使い、さらに玄関も閉めるなでは、夏は一体どうするのだろう。そんな冷房の効いた家がどれだけあると言うのだ。


「正男、お前は何でもっと早ように知らせんのんや。アネになんかあったら、すぐ知らせえよ言うとったじゃないか」


 聞けば、秀子が風呂場で倒れたのは年末の事である。それなのに、いくら正月とは言え3日まで知らせないとは何事だ。また、娃子も言った。どうして救急車を呼ばなかったのか。救急車で病院に行けば、助かったかもしれない。何より、どうしてすぐに電話を掛けなかったのか。


「そやったなあ、娃子ちゃんとこ、電話付いたんやったわな。それを忘れるやなんて」


 そう言う妙子も救急車には気が回らなかった。

 正男はいつもの様に黙ったままだ。都合の悪い時は黙る。とにかく周囲の指示がなければ何もしない。今回はそれが幸子であったが、その幸子を呼んだのは妙子である。


「私はな、秀ちゃんはもうだめやと思もた。思もたけど、それをいきなり知らせたんでは、絹枝さんが驚くやろから、アネが悪いて電報打たせたんや」

----ふん、妹のアンタより、秀ちゃんはうちの方を信用してたんやからな。


 幸子の絹枝に対するだった。

 絹枝にすれば、そんな気遣いは余計なお世話だ。何はともあれ、実のイモウトに知らせるりがスジだと思うが、今までの秀子宅での控え目さが災いして、ヘタに口を出すのがためらわれた。

 それからはすべて幸子が取り仕切った。義男も邦男も一々幸子にお伺いをたてなければ、何もすすまない。正男は単なるお飾りでしかなく、娃子と絹枝は遠来の客扱いだった。例によって素知らぬ顔の正男に代わり、娃子は手伝いに来てくれた近所の人たちに礼を言った。


 それにしても、くさい。どうしようもなく臭い。この臭いは何だろう。まさか、死臭…。

 そんな筈はない。


「オカアチャンがずっと居ってくれ言うて」


 一人張り切っていたのは茂子だった。本来なら、明日には病院へ帰らねばならないのだが、元ハハオヤが死んだと言うことで、外泊が延長された。年に一度の楽しみ

でしかない正月の外泊だったが、思いがけず秀子が死んだ。ひょっとして、これはこのままこの家に居座ることが出来るかもしれないと、精いっぱいの知恵を働かせ、そこで、通夜の客に秀子が茂子との暮らしを望んでいたと必死でアピールしていた。

 だが、やはりと言うか、臭いの元は茂子だった。それにしても、ひどい臭いである。孝子のシーツより臭い。


「そうかて、茂子ネエチャン、何ぼ言うたかて、風呂入らへんもん」


 博美が困った様な顔で、茂子が秀子の口の中に薬のみ器を突っ込んだままを取り上げたことも言った。


「それを振り払う元気もなかったんか」


 そして、御詠歌ごえいかが始まった。

 御詠歌とは、僧侶ではない一般の信者が寺院や霊場巡礼の際に唱える歌のことである。御詠歌の多くは三十一文字からなる和歌に節をつけたもので、一般的にれいかねを鳴らしながら詠唱する。旋律は一節のみと単調で、哀愁を帯びたものが多い。


言うもんも、ええもんじゃのう」


 と、聞きほれていた絹枝だった。


「わしも習おてみようか」


 仕事仲間にやっている人がいる。それなら、秀子の御詠歌の鈴、鉦があるのでそれを持って帰ればいい。だが、既に近所の誰かが早々に帰ったそうだ。

 そして、通夜の客が帰った後は、秀子の悪口合戦が始まった。

 先ずはせこいケチであること、すぐに人を疑うこと。そして、であること等々。


「わしらもなあ、酒は飲んどったが、食うもんはいつの物やらわからへんかったよって」


 と、邦男が言ったが、正男は邦男がその場を離れると、すぐに身を乗り出すように言ったものだ。


「あれなあ、あない言うてたけど、そのたんびに作っとったんやで」


 秀子は邦男がやって来るのを楽しみにしていたようだ。来ると電話があれば、酒屋にビールを注文する。この家では誰もアルコールを飲まない。そして、自ら買い物に行き、つまみとおかずを兼ねた煮物を作っていたのだ、それを、いつ作ったものかわからないと邦男は言ったが、今度は正男が邦男の後ろ姿に向かって言う。


「何言うてんやぁ」


 それを、負け犬の遠吠えと言うのだ。

 邦男、いや、誰の前でも何も言えないくせに、いなくなってから、悪口を言う。典型的な負け犬ではないか。それもまた、唯一、虚勢を張れる相手である、娃子に向けて言うのだ。

 さらに、邦男は死んだ秀子の指から指輪を抜こうとしたが、なかなか抜けなかった。そこで、石鹸を付けてみたが、それでも抜けないので諦めたそうだ。


「欲なやっちゃ」


 その時、邦男が戻って来た。正男はとっさに知らん顔で黙り込む。

 娃子も後になって気付いたことだが、誰一人として「死んだ人を悪く言ってはいけない」と言う者がいなかった…。

 そして、則子も邦男も帰った後、妙子が言った。


「娃子ちゃん、茂子ちゃん風呂入れて洗ろてやり。明日、大勢人が来るやろ。あれではなあ」


 娃子は博美と前後で、鰻の寝床のような風呂の洗い場での茂子の体を洗った。この時は大人しくしていた。シャンプーは三回した。博美が熱いと言って窓を開けようとしたが、娃子は止めた。ここで、うっかり風邪でも引かせようものなら、居座る口実になってしまう。 

 やっと、茂子の体洗いが終わった。太っていると、あまり寒さは感じないのだろうか。だけでまたも何か食べ物を漁っている茂子だったが、何と、生理の血が付いていた。もう、知らん!!


 翌日、遺影用の写真を見て驚いた。この辺りでは遺影は紋付姿と決まっている。恒男にはその写真があったので良かったが、ない場合は、着物だけの写真があり、そこに顔を載せる。だから、首のない窮屈そうな秀子の遺影が気の毒でもあった。

 ドライアイスと言い、遺影写真と言い、この辺りの葬儀・葬儀屋のやることはよくわからない。


「わしゃあ、アネが死んだら、あれでも悲しいかの思いよったが、悲しゅうないんじゃ」


 貸衣装の喪服を着ながら絹枝が言った。そうなのだ、誰も秀子の死を悲しむものなどいない。ただ、出棺の時、一人妙子だけが声を上げて「うーうー」と泣いていた。


 葬式が済み、皆で茶を飲んでいた時、義男のダミ声に釣られるように男たちの

「よおいしょ! よおいしょ! 」という掛け声が聞こえて来た。何だろうと外に出てみると、何と、秀子のミシンを妙子の部屋に運んでいた。

 いつの間に…。

 どう言うことかと正男に聞けば、義男が妙子にこの家のもので何か欲しいものはないかと聞いた。


「私、このミシン、ほしいですわ」


 それは、娃子も使ったことのある足踏みミシンである。本当に軽いミシンだった。秀子のことだ。きっと自慢しただろう。


「娃子が言うてたわ。これは軽うてええミシンやて」


 妙子にしても、娃子が言うのだから間違いない。そして、欲しいものはと聞かれれば、迷わずミシンと言った。

 娃子も思わず言った。女の子が二人いれば、ミシンは二台いる。

 ああ、ああ、ああ…。

 後に、この言葉が意味を持って来ようとは…。


 女にとってミシンとは何だろう。雑巾くらいしか縫わなくても、ミシンは当時の嫁入り道具の一つだった。

 嘉子は義姉秀子から貰ったミシンを使わないからと売ってしまった。秀子が孝子に自分のミシンを使わせないものだから、電気ミシンを買った。娃子も使ったことがあるが、この電気ミシン、どうにも使いにくい。

 孝子の事だから、掃除などしたことがないくらいわかっている。使う前に掃除をし、オイルを差したがそれでも調子が悪い。何と言っても電気ミシンである。こうなったら、娃子の手には負えない。一度、見てもらった方がいいと言った。


「どこで、うたか、忘れた」


 同じメーカーを扱っている店なら引き受けてくれると言った。


「なあに言うてんや。店が自分とこで買うたもん以外、直すかいな」


 バカは死んでもバカだ。孝子も一緒に笑っていた。

 そして、今、軽くていいミシンが手元から離れようとしている。だが、それはミシンだけではなかった。既に3万円の金も渡していた。秀子を風呂から引き上げたりと大変だったことはわかるが、では、先ほどの泣き声は何だったのか。秀子とは長く密接な付き合いであり、やはり、いざとなれば万感迫るものがあったのだと、あの時はそう思った。だが、今の妙子はニタニタと嬉しそうにしている。


 人が動けば、埃が立つ。様々な思惑とともに舞い立つ、欲の埃が…。











  











































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