1丁目の朝日 三
すべてをごめんねで、済ませる人がいる。
ごめんねとは謝罪言葉である。それを先に言って置けば、何でも許されると思っているようだ。
社長のオクサンがそのタイプである。それが、これまた、大変な人である。たまに仕事を手伝うが、すべてが中途半端、いつも途中で投げ出す。これが困る。しばらくはそのままにしておくが、結局、後始末は娃子がすることになる。
ある時、初号の活字で見出し文字を拾ってくれと言う。普通、目にする活字は5号、フリガナは7号、ルビとも呼ばれる。初号とは一番大きな活字であり、そんなに活字数が揃っているわけではない。
「そんなら、今から注文するわ。早よせんにゃ、間に合わんけん。ええんよ、汽車便で送ってもらうけん」
それなら、それでいいとして、娃子は自分の仕事に戻ったが、その後はどうなったか知らない。オジサンも角田さんも知らないと言う。
「また、あのずうたらババが」
オジサンが言った。ちょっと仕事をかじったくらいの知識しかないのに、何でもできると思っている。
「いざとなったら、うちが」
「オクサン、あんたはオマケのようなもんやけん」
それでも、堪えた様子もない。
市会議員の会社で働いていると言えば、なぜか羨ましがられる。
「いいでしょ」
何がいいのか、さっぱりわからない。傍から見れば、市会議員なので、選挙のこともあり良くしてくれるのではと思っているようだが、そんなことはない。全くない。
「みかん狩りに来ん」
ある時、時短勤務の主婦にこのオクサンが言った。元は島の出身でみかん畑を持っている。そこで、主婦に声を掛けた。みかん狩りと言う楽し気な言葉に引かれ行ってみれば、何のことはない。みかん収穫の手伝い。主婦は汗びっしょりになったと言う。
「オクサン、なんじゃけど、みかん、少し大きいところを貰われん?持って行きたいところがあるんよ」
これだけ手伝いをしたのだからいいだろうと思った。
「そんなら、これあげるわ」
と、袋を差し出したが、中は不ぞろいのみかんが入っているだけだった。
社長夫婦にはムスコとムスメがいる。ムスコは県外の大学に行っている。ムスメは高校生。
このムスメ、クミコには「オネエチャン」と呼び、色々話をしているが、娃子は無視。いや、露骨にそっぽを向く。この点は孝子と同じである。
「ねえ、版て緩むもの?」
と、クミコが、娃子に聞いたことがある。版を機械にセットする時は、きちんと締める。きちんと締めれば途中で緩むことなど無い。だが、ヨコジィこと、横井さんは印刷をしている途中で機械を止め、セットした版をまた絞めていると言う。
そして、いつも、ため息やらネガティブ言葉を発する。本人はそれで、ストレス解消になっているのかもしれないが、聞かされる方はいい気はしない。
「なあ、オッチャン。いつもそんな、やれやれとか体がきついとかばっかり、あんまり言いんさんな。きついのはオッチャンだけやない。みんなきついやんけん、いい加減にしてくれ」
ある時、オジサンがヨコジィに言った。それから、しばらくは少しは大人しくなったが、やはり、癖は抜けないようだ。
「あのクソジイ。せんべい1枚やろうとも思わんわ」
そのオジサンがまた、休んだ。
「それがねえ…」
何と、オジサンはまたも、親戚に行ったと角田さんが顔を曇らせる。
「わし、行って、30万ほど借りてこう思とる。あの家やったら、30万くらい借りれるわ」
今度はオジサン一人で行ったそうだ。
「どんな家か知らんけど、30万も貸す思う?」
たった一度会っただけの親戚に、30万もの金を誰が貸すだろうか。
ちょっと考えればわかりそうなものだが、借りることに麻痺した人間は、借りられることしか思い浮かばないのだ。
娃子は、ふと思った。前の印刷会社を割と短期間で辞めたのは、金を借りられるような相手がいなかったからではないだろうか。
そして、オジサンは出勤してきた。
「あれねえ、30万どころか10万も借りれんかったんじゃろう思うよ」
角田さんはそう言ったが、娃子は全くと言っていいほど借りられなかったと思う。交通費と手土産を使っただけの骨折り損でしかなかった。
また、庄治も骨折り損のような日々の中にいた。
娃子と絹枝を怒らせてまで、周囲に媚びを売り、楽しい隣人ライフを夢見たが、それも最初だけだった。皆、それぞれ暮らしがあり、取り立てて話し相手になってくれるような人もいない。仕事から帰れば、テレビを見るくらいしかない。
娃子はあれ以来ロクに口も利かない。
----かわいげないのう。どこの男からも相手にされんくせに。
こんなことなら、もっと早くに自分のものにしておくのだった。
逆に絹枝は嬉々としている。
「はっ、わっしゃあ、たまげた」
この頃の絹枝は、仕事も控えている。やはり、もう、体に堪えるようになってきた。それでも金は持っているし、日常の買い物は、娃子と庄治の収入で何とかなる。
絹枝の何十年ぶりかの主婦暮らしが始まった。そんな絹枝は、あるスーパーで衝撃の光景に出くわす。
一階は食品売り場、二階が日用品売り場となっている。今まで、二階に上がることなどなかったが、今は時間もあるので上がってみることにした。
そして、踊り場に並べられている箱のパッケージに驚いてしまう。何と、そこに並べられているのは犬、猫、小鳥の絵柄の箱。
----!?犬や猫、誰も食やせんじゃろうに…。
それは、犬猫用の餌だったが、まさか、そんなものがスーパーで売られているとは思っても見ないことだった。
その他、テレビは見たいだけ見られるし、夏は大きめのアイスクリームを買い、冷凍庫に入れておけば、いつでも好きな時に食べられる。一度に食べなくても済むと喜んでいた。
引っ越した時、畳とふすまは新しくなっていたが、壁はどんよりとした色だったのを、ペンキを買いせっせと塗ればきれいになったが、流し台は昔のままであり、窓はガタついていた。
前の家では既にステンレスの流し台にしていた。ステンレス製に慣れてしまえば、あまりにも貧相な流し台である。そこで、絹枝は自費で、窓をサッシにし、流し台をステンレス製にやり替えたのだが、しばらくすると、市の方から流し台をステンレスにすると言う通知が来た。
前々から要望があったようだ。だが、絹枝宅はすでに取り付けていたので、代わりに床板を張り替えてもらうことにした。フローリングのきれいな床になった、と、ここまでは良かったが、絹枝が楽しいことだけで満足する筈はなく、掛時計はその前に行かなければ、時間が見えないところに掛けてしまい、これでは意味がないと言っても、どこ吹く風の絹枝だった。
「ここなら、人が来て、パッと時計が目に入るじゃろうが。ほう、ええ時計があるのう思うじゃろうが」
その時計も買いに行った時、娃子が見つけたものである。今までにないモダンなデザインだった。さらに、台所と玄関の境目に、短い玉のれんを下げた。これが頭に当たって痛い。特に、坊主頭の庄治には堪える。
「こうやって、手で分けて入るんよ」
一日中家にいる絹枝はそれが出来るかもしれないが、物を持った手で一々のれんをかき分けてなどいられない。だが、それもこれも家の飾りであると言い張る。そのための多少の不便、いや、娃子や庄治の不便くらい、知ったことではない。
それだけではない。床にワックスを塗るのはいいが、このワックスが曲者だった。塗ったすぐは滑るのだ。知らずに娃子が足を滑らせると「ゲヘヘ」と笑う。危ないから止めてくれと言っても聞かない。そして、塗ったことも言わない。
自分さえよければいいではなく、娃子や庄治の嫌がる顔を見るのが楽しいのである。
「オジサンにゃあのう、ちゃんとしとけよ」
就職を世話してもらったお礼はした。だが、絹枝は盆暮れにも何かしろと言う。何かと言われても、別に饅頭代が惜しいのではなく、貸した2万円のこともある。
そう言えば、オジサンのムスメが出産する。その祝いとすればいいかなと思った。絹枝もムスメがオジサンの実子でないことは知っている。
「なぁに言やあがれ。ほんまの子でもありもせんもん、何、しちゃることあるかっ。そんなもんより、オジサンの好きなもん、あげえ」
娃子は何もしなかった。別に2万円貸してあるからいいと思ったのではなく、このことが逆にオジサンに期待を持たせてしまうのではないかと、角田さんに相談してみた。
「うん、もう、せん方がええよ。したら、やっぱり期待する思うよ。こんなんでええよ」
と、娃子が持って行ったおかきを食べながら角田さんは言った。彼女もたまにお菓子を持って来てくれる。こう言うちょっとしたお菓子でいいのかもしれない。
そんな折も折、何と、先田が年内で仕事を辞めることになった。
来春、婿入り先の魚屋が新しく出来るスーパーに出店することになった。店が二つになれば人手もいる。そこで、手伝わされることになったと言う訳である。おそらく今の仕事を辞めたくないと言えなかったのだろう。また、この男にそんな押しの強さや度胸がある筈もない。
そこで、印刷会社の方は就職が内定していたムスコが継ぐこととなった。先ずは仕事を覚えなくてはならない。当然、先田に教えてもらうのだが…。
「先田クン」
と、クン付けで呼ぶのだ。
「先田クンは、僕が幼稚園の頃から、働きよんじゃけん」
それだけの年齢差がありながら、また、教えを乞う立場なのに、いくらオヤたちが、クン呼ばわりしているからと言って、仮にも先輩である。その人物に対して最低限の敬意も払わないとは。これには角田さんも驚いていたが、当の先田は取り立てて気にする様子もなかった。だから、舐められるのだ。
一方のオジサンはムスコを「若社長」とおだてていた。将来の借主として今からゴマをすっておく、そんなところだろう。
絹枝がまた、気まぐれを起こしたのか、同じ端切れを2枚買って来た。
当時流行りの
既に、娃子も絹枝も別珍でブレザーを作っていた。今回絹枝が買って来たのは、青地に小花模様だった。
「アネにもチョッキ作っちゃれえや。今度行く時に持ってちゃるけん」
以前、既製品のチョッキを、娃子が縫ったと言って秀子にやって来たが、やはり、気になっていたのだろう。
そして、年が明けた…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます