1丁目の朝日 二
人はいつ、太陽を感じるのだろう。
それは、その人の生活環境によるところが大きい。昼の太陽を感じるのは学生たちであり、夕焼けを感じるのは子供が多い。大人は昼間は働いているし、夕暮れは今夜の事、明日の事がある。
娃子も夕焼けを見ていたのは子供の頃でしかない。昼間は室内での仕事。朝の通勤時間だけ、太陽を感じる。だが、昼間外で働いている人たちはこの比ではないだろう。
1968年7月に発足した郵便番号制度に伴い、市内の区画整理が行われた。結果、前の家は2丁目だったのが1丁目になり、町名も統廃合された。古くから住んでいる住人は旧町名で話をするが、娃子たちにはよくわからない。とにかく、今、住んでいるのは○○町1丁目でしかない。
新しい職場は、前の印刷屋で一緒に働いていたオジサンの口利きである。娃子としても仕事には自信があるが、知っている人と一緒と言うことは心強いことであり、また、そこは今の家から歩いて行ける距離だった。
初出勤の日、通勤途中に花屋があった。そこの太ったオヤジがこれは見ものとばかりに娃子を凝視した。それは毎日、新聞を読むのをやめて、娃子の顔を見る。だが、こんなこと気にしていたら、生きてはいけない。娃子はただ、前を向いて歩いた。
この印刷屋の社長は市会議員である。それも、選挙の時、印刷業界はバックアップしなかったと言う。それでも市会議員に当選したのだから、人望があるのだろう。
専務は外交と断裁機担当。クミコと言う、娃子と同じくらいの事務員が一人、印刷機はこの会社では一番古株の
娃子の担当は、主に名刺だった。ここではオジサンは文選をやっていたが、60歳過ぎて名刺の字は小さいので、娃子の出番となったようだ。名刺は版組から印刷まで受け持つが、それでも小さな版組は簡単であるし、ハガキ迄刷れる印刷機の操作もすぐに慣れた。空いた時間には
先田は、10代の頃からこの会社で働いている。社長夫婦の
事務のクミコとは歳も同じですぐに仲良くなれた。色々話が出来そうな気がしたが、いつもブレーキがかかってしまう。ここまで、ここまで。これ以上相手に期待してはいけない。
あの、あの、峰子ですら、いざとなれば、被害者面して「保身」に走ったのだ。あまり、人に期待してはいけない。
彼女は祖母と暮らしている。近くにアネが二人いるが、両親のことは話さない。
皆、それぞれに事情があるのだ。
角田さんには中学生の息子が一人いる。本当はもう一人出来たのだが、義兄夫婦には子供がいない。そこで、姑から次が生まれたら、その子は義兄にやれと言われた。
「人にやるくらいなら、産まんわ」
と、中絶した。また、実母はひどい男尊女卑で、兄と妹では夕飯のおかずが違っていたと言う。彼女は結婚する時、ハハオヤにそれこそ箸1膳貰ってない。
彼女はこの会社で働くようになってから、大変だったと言う。何しろ版組みは自分一人。
「さあ、機械を止めちゃあいけん思うて、もう必死よ。そんで、土曜日にゃかなりのストック作って、これで、月曜日からはゆっくり版が組めるわ思うて帰りゃあ、日曜日に出て刷っとんよ」
日曜日は当然休みであるが、先田は刷るものがあれば出勤し一人で仕事をする。一見仕事熱心の様に思えるが、そこはやはり家に居たくないのだ。夫婦仲はともかく、そこには姑もいる。男もやはり姑は苦手である。仕事をしている方が気楽なのだ。
そのとばっちりを受けているのが、角田さんであるが、彼女のとばっちりは先田だけではなかった。
それでも彼女は気さくな人であり、年が離れていることもあり、色々話をしたが、絹枝のあれこれには少なからず驚いていた。
そうなのだ。話とは双方から聞くものなのに、世間の人は絹枝の話だけで満足し、それがすべてだと思ってしまう。
娃子はいい話も悪い話も半分に聞くことにしている。だから、娃子の話も半分に聞いてもらって構わないのに、多くの人は絹枝の話だけで腹いっぱいになってしまい、後は何も入らない…。
幸い角田さんも陽子さんと同じように、娃子をわかってくれる人だった。
ある日、帰宅すればゴムか何か燃えているような匂いがした。その時は、階下の主婦がまた何か燃やしているのだろうと思った。ふと、テレビの画面が暗いのが気になったが、そんなことより、着替えが先である。今は6畳間を娃子一人で使っている。着替えて台所へ行こうとした時、何とテレビの両横から煙が出ていた。暗いと思ったテレビ画面もその筈である。真ん中のほんの一部しか映ってない。すぐにテレビを消した。
「わしゃ、知らんわいの」
知らないではない。現に煙が出ているではないか。また、画面も暗いのに、それを何とも思わずにテレビを見ている庄治の方がおかしい。夜、修理の人が来てくれた。ブラウン管が焼けていた。
今度の庄治が敷居を踏んではしきりに「音がする」と言う。あまりにギイギイ音を立てるので、これは市役所に連絡した。業者が来て、敷居の下に分厚い板をかませてくれ、音はしなくなった。
だが、考えて見れば、これも庄治が敷居を踏むからである。敷居を踏んではいけないことくらい子供でも知っている。きっと、前の家でも敷居を踏んでいたことだろう。だが、前の家は一階であり少しくらい踏み付けても大丈夫だったにしても、今の家は木造モルタルの二階である。踏みつけていればガタが来ることくらいわかりそうなものだが、これが、何も考えずに生き、年を取っただけ子供の末路である。
また、絹枝もついに、時代に白旗を挙げた。
隣近所どこの家にも電話があり、仕事先の若い衆から電話がないことをバカにされてしまい、やっと、電話を付けることにした。
この電話をもっと早くつけていれば、峰子との軋轢も避けられたかもしれないが、すべては起きてしまったことである。いやいや、電話のせいではない。あの頃、すでに峰子にとって、娃子はどうでもいい存在でしかなかったのだ。
電話器の色は緑色。早速に、電話のかけ方を絹枝に教えるも、覚えようとしない。受話器を持って、番号通りに回せばいいだけであるのに、一度として、絹枝がダイヤルを回すことはなかった。そのくせ、電話を一番使ったのは絹枝である。それも、長距離を。
ちなみに、黒電話だが、令和の今でも現役で使っている家もある。何と、丈夫な電話(
勤め始めて最初の給料明細を見てちょっと驚いた。支給金額はそこそこだったが、何と、基本給が安い。その代わり、物価手当職能手当などでカバーしてあった。
娃子は就職のお礼に饅頭の詰め合わせを持ってオジサンの家に行った。酒を飲まない人である。家にはオジサン一人だったが、急須のふたを開け、茶葉を継ぎ足した。継ぎ足すくらいなら、新しく入れ替えてほしかったが、そんなことは言えない。やがて、オバサンも帰って来た。
しばらく話をして、娃子が帰ろうとした時だった。
「これ、持って帰りんさい」
と、手渡されたのは婦人雑誌だった。それも紐が掛けられたままの付録で膨れた新しい雑誌なのだ。これはオバサンのではと固辞したが、押し付けられる形で結局は貰って帰ることとなった。
実はこのオジサンも養子である。子供の頃、偶然そのことを知った。
「あんたら、わしのオヤ違うんか」
と、オヤに言った。
「それを言うな。言わんかったら、何でも欲しいもん買うてやる」
子供にこんなことを言ってはいけない。それからのオジサンは欲しいものがあると、そこから動かない。
「買うてくれえぇぇ」
と、道端に寝転がってでも動かなかったと、それこそ武勇伝の様に話すのだ。また、オジサンのムスメも妻の連れ子である。このムスメに対してはやさしい、いいチチオヤであり、世話好きで人当たりもいいが、先頃結婚したムスメの相手が気に入らない。
「あんな男がええんかのう」
ある時、ムスメはケンカして実家へ帰って来た。やがて、ムコもやって来て別れるの別れないのと揉めた挙句、元のさやに納まったわけだが、オジサンとしては元から気に入らないムコである。昼休みにそのことを散々グチった。
「なーにが、あんな男」
と言ったが、では、肝心の自分はどうなのだと、思わず角田さんと顔を見合わせてしまった。
「わしゃ、親戚がおらんけんのう」
そこで、他人に親切するのだが、これがまた、ちょっとおかしい…。
娃子が新しい雑誌を貰ったのは、そうして、何かの時、人にあげる為に雑誌を毎月取っているのだった。修理に来てくれた電気屋にも千円渡したりする。
そうやって、人に親切にしておけば、何かの時には…。
だが、このオジサンには借金があるのだ。それも毎月払っているから問題はないにしても、他にも借りているらしい。
ある時、オバサンの方の親戚とコンタクトが取れ、夫婦で行くことになったことをうれしそうに話していた。
この人のことだ。手土産から着るものまで抜かりなく準備したと思う。そこで、思わぬ金がかかってしまい、娃子に電話がかかって来た。
「冠婚葬祭の分、掛とんじゃが、2週間せにゃ出んのんじゃ。そこで、うちのオバサンも、アイちゃんにそんなこと言わんでもて、言うんやけど。済まんが3万ほど貸して貰えんじゃろか…」
娃子は承諾した。
「ほんなら、3本頼むの」
最後の3本が気になったが、親戚へ行くのに金が足りないでは心細いだろうと思ったからだ。
翌朝、早目に出勤したが、すでにオジサンも来ていた。封筒入りの金を受け取ったオジサンは言った。
「なあにぃ。出る思とったんよぉ。それがの2週間せにゃ出ん言うてからっ」
冠婚葬祭の掛け金の仕組みは知らないが、いくら、何でも人に金を借りて「なあに」はないだろうと思った。
そして、オジサンが親戚に行って休みの時、角田さんから衝撃の話を聞いた。
何と、オジサンは角田さんに毎月1万円借りていた。それも、翌月の給料日には返してくれるのだが、しばらくすると、また、催促されると言う。
「その時にはねえ。機嫌とって来るんよ。そろそろじゃ言うのがわかるんよ」
「カドっちゃん、済まんが、1本頼むわ」
----1本…。
オジサンは1万円を1本と言う。給料日には返してくれるから良さそうなものだが、だからと言って、毎月と言うのも気が重いものである。そこで、娃子も3万円貸したことを話した。
「まあ…」
そして、オジサンが出勤して来た。親戚は好意的に迎えてくれたし、今後のことも話し合って来たと機嫌が良かった。娃子も土産を貰ったし、給料日には3万円返してくれた。
「アイちゃん、済まんが2万ほど貸してくれんかの」
翌日、娃子が名刺版を組んでいる時、オジサンは平然と言った。
まさか、本当の昨日の今日で、そんなことを言われるとは思っても見なかったことである。
「正月が越せんのんじゃ」
娃子はとっさに返事が出来なかった。その日はそのまま帰ったが、やはり、電話がかかって来た。考えて見れば、娃子の3万円と角田さんの1万円、計4万円。
オバサンも働いていたのだが、水産会社で冷える仕事だった。ついに体を壊し今は働いてない。娃子は2万円貸した。
そうなのだ。このオジサンは、人に金を借りることを何とも思ってないどころか、金を貸さない人を悪く言う。先田には、社長かオクサンに金を借りれるよう話をしてくれと言った。
「わしゃ知らん、わしゃ知らんわい」
小心者の先田は逃げる。この先田は正男と似ている。面倒なことは大嫌い。
「つまらん男で」
オジサンはそう言うが、借りれば借りただけ返さねばならない。時には利子をつけることさえある。それなら苦しくなるばかりなのに、その時は他から金を借りて埋め合わせるだけでなく、見栄や楽のためにも金を使っている。
「おお、今月は満勤しとるわ」
満勤とはひと月休まずに働く、皆勤の事である。普通は皆休まずに働く。皆勤手当てが付けば嬉しい。それでも、どうしても休む時もある。有給休暇があることも知っているが、小さな会社ではとても言い出せるものではない。
そうなのだ、オジサンは給料が入ると休むのだ。
「オバサンじゃわからんことがあって、市役所へ行かんにゃあいけんとか言うたけど、私らでもそんなに市役所なんか行かんのに、何がある?」
普通に暮らしている分には、市役所など用のないところである。
「ごめんねえ」
最初に聞いたのが、その言葉だった。何がごめんなのかわからないままに、角田さんと話をしている。その人はちょろちょろ仕事場に現れる。そして、何かと「ごめんね」と言う。この人が社長のオクサンだった。
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