1丁目の朝日 一
アレから10年余。世の中も医学界も飛躍的な進歩を遂げている。その中で美容外科、形成外科の情報は嫌でも、娃子の耳に入って来る。だが、絹枝は全く興味なし。絹枝にとっては、もう終わったことである。
----してやった。娃子に火傷させたかもしれんが、それ以上のことをしてやった。ああ、わしゃ、オヤの務めは果たした。いや、その後も洋裁学校に通わせ、あれもこれも
と、いつでもどこでも、自分褒めを忘れない絹枝だったが、すぐに現実に引き戻される。それなのに、何と世間の目は節穴よ。世の中に、こんな素晴らしいハハオヤが存在すると言うのに、全くもって…。
絹枝は未だに表彰の声が掛からないことに恨みを募らせていた。
----じゃけん、他人はダメなんじゃ。
ヤマダが家にまだ入り浸っていた頃、この地域のトイレを水洗にせよとの市からのお達しがあった。そこで、家主は水洗トイレにするので家賃を上げると言う。
ここ十軒ほどの家のトイレは別棟だった。共同トイレではなく、各家に一つのトイレであるが、一か所に、それも二階建てとなっていた。そのトイレ部分を新しくやり替えるとすれば、ものすごい金額になる。それをすべて家賃に上乗せすると言う。
実は、絹枝がよく行く郵便局の側にオジが支援していた市会議員が邸宅を構えていた。気さくな人で、庄治もたまに呼ばれて行くこともあり、ある時、同窓会の名簿を作るので所在のわからぬ者の中に知り合いはいないかと聞かれた。庄治は元は奈良の生まれであるが、こっちの暮らしの方が長く、地元の人間に思われたようだ。だが、その中に正男の名前を見つける。
「正男言うたら、家内のオトウトじゃ」
市会議員は正男の同級生だった。庄治は正男の住所は知らないので、後日、市会議員が住所を聞きにやって来た。
「ああ、オネエサンでしたか。で、正男君の住所は」
「娃子ぉ。あれ、どこじゃったかいのう」
と、娃子が住所を告げたと言う経緯がある。
「あんたあ、市営住宅入れんか、聞いてみんさいや」
こうなったら、正男の同級生の市会議員に頼むしかない。折よく抽選会があり、庄治がクジを引きに行ったが、この時は当たらなかった。
しばらくすると、同じところにもう一戸空きが出来たと言う。今度は二階。当時は市会議員の口利きで、まだ、何とかなる時代だった。そして、引っ越しが決まった。だからと言って、引っ越すのでヤマダに別れを告げたと言う訳ではない。それとこれとは別である。
この引っ越しを一番喜んだのが娃子かも知れない。引越し先は昭和25年に建った古いアパートだが、家賃が何と2800円。後に1万円になったが、それでも破格である。何より周囲が広く家の中も明るい。これでやっと人並みの家に住めると思ったものだ。
娃子はそれまでの家が大嫌いだった。狭いだけでなく天井は真っ黒。昼間でも明かりを点けなければ暮らせない。そのくせ台所からも玄関からも家の中は丸見えであり、何よりトイレが外なのが嫌だった。
今度の家のトイレは既に水洗になっていた。六畳間に四畳半とそれと同じくらいの板間があり、そこにカーペットを敷いて座卓を置いた。台所は仕切られており、室内でスリッパが履けた。日当たりもいいし、何より二階なのがうれしかった。そこからは、朝日も夕焼けも見えた。
今までは日当たりが悪く布団が干せなかったが、ここではベランダに布団が干せた。だが、絹枝はここにきても布団を干すことはなかった。どうも最初からそう言う気はなかったようだ。
「よう、布団干すのう」
「そんなに干しよったら、背中が熱うなって寝れんようになるぞ」
この二人に何を言われようと、娃子はふかふかの布団、そんな背中が熱くなるような布団で眠れるのが嬉しかった。だが、この引っ越しを喜んだのは娃子だけではなかった。
「あんたぁ、ここにおりんさい。一緒に来たら、娃子とケンカするけん」
絹枝も急速に年老いて、くどくなった庄治を持て余していた。だから、このまま前の家におれと言ってみるも、庄治が大人しくそれに従う筈もなく、絹枝の機嫌を取りつつ付いて来た。
さらに、新しい隣人達はにこやかに迎えてくれた。それだけで庄治は有頂天だった。これまでの家では散々無様な姿をさらしたものだから、笑いものにされていた。ここでは誰も庄治の醜態など知らない。それをいいことに、まるで100万の味方を得たように上機嫌だった。すくに調子にのり、いや、のり過ぎた。
「ありゃ、べっぴんで」
これには絹枝が怒った。庄治がべっぴんだと言ったのは、隣部屋の絹枝と年の変わらない主婦のことだった。
「娃子、あれがべっぴんかあ!」
容姿のことでは今までも、秀子や庄治から散々けなされているし、ユメユメ自分の器量がいいとは思ってはない。だが、隣の女も似たようなものではないか。娃子ですら、隣のオバサンが特別べっぴんとは思わない。それを聞いて絹枝は少し気を取り直したようだが、庄治の矛先は娃子にも向けられた。
「ありゃ、娃子より、若いぞ」
今度のありゃは、階下の小学生の子供が二人いる主婦のことだった。今度は娃子が怒った。世の中には10代で結婚して子供を生む女もいる。しかし、10歳の子のオヤである女が娃子より若いのか。階下の主婦の実年齢は知らないが、どう若く見ても三十はとっくにすぎていると思うのに庄治はそれを、娃子より若いと言う。それは娃子に行き遅れだと宣言したに他ならない。またしても、冷戦は始まった。
だが、娃子は絹枝にもクギをさしておいた。夏になって変な格好で家の周囲をうろつくなと。前の家では、夏になると絹枝が裸同然の格好でいることはよく知られたことだが、ここではハハオヤがそんな格好で歩いていたら、娘も同じようにやっていると思われてしまう。娃子はそれが耐えられなかった。
さすがに絹枝もそれだけは慎むようになった。また、ここにきて、娃子は生まれて初めて絹枝から褒められたものだ。
「ふん、ネコよりマシじゃ。ネコは何にもせんけんのう」
これが絹枝の娃子に対する一生で一度の最大限の褒め言葉である。だが、それもすぐに取り返された。例の階下の主婦と今時の若い者が如何に贅沢かの話になったとき、絹枝は言ったものだ。
「の、うちの娃子なんか、夏でも湯で顔を洗うんじゃけ」
確かに娃子は夏でも湯で顔を洗っていた。これは、絹枝にもわからないことだが、娃子の顔の皮膚は時々炎症を起こした。移植した皮膚の部分が急に熱をもったり、硬くなることがあった。そして、夏でも娃子の顔には水道水が冷たく、それも湯沸かし器からの一番ぬるい湯を洗面器に一杯だけのことなのに、すごく贅沢なことにされてしまった。さらには、娘には金がかかる。自分の給料だけでは足らない。まだ足しがいるというウソも加えられた。娃子の給料のほとんどを取り上げておきながら、そのことには口をつぐみ、あれもこれも
ここでも、絹枝の話は誰もが信じた。絹枝も新しい隣人達には苦労話のし甲斐があったと言うものだ。
当然、娃子が洋裁ができるということも言い忘れることはなく、早速に仕立物を頼まれた。娃子もちょうど失業中だったのでこれは喜んで引き受けた。娃子が仕立て物をしていた時、庄治は玄関灯が点かないことを調べていた。
「やっぱり点かんわ。電気会社に電話かけてくれや」
娃子は縫い物に急かされていた。急に約束の日より早く仕上げてほしいと頼まれ必死に縫っていた時だった。
トイレと玄関のスイッチは並んでいる。トイレの明かりは点くが玄関灯は点かない。だが、娃子は動きたくなかった。トイレの明かりが点かないのならともかく、玄関は点かなくてもそれほど不自由はしない。
もう、どこの家にも電話のある時代だったが、電話など付けたら、それこそ娃子があちこちにかけまくるに違いない。娃子のために無駄な金は使いたくない絹枝が電話などつける筈もない。公衆電話のある場所は知っているが、緊急のことでもないのに娃子は行きたくなかった。
「そんな、一時間も二時間もかかる訳やなし、ちょっと行って来てくれや」
それは庄治が電話をかけることへの自信のなさでもあった。仕方なく、娃子は公衆電話をかけに行くが、先客がいた。少し待ってみたが、終わりそうにないので別の公衆電話まで行った。そして、帰り道を急げば、何と庄治が何やらぶら下げながら前を歩いているではないか。
娃子は頭にきた。娃子にすれば貴重な時間を割いたというのに、庄治はのんきにそれも鍵も掛けずに酒屋に行き、ついでに立ち飲みもしていた。その酒屋が今度もまた庄治にとって都合のいい場所にあるのだ。
「そんなん、電話くらい近所で借りた思とった」
この市営住宅は4戸1棟の建物が4棟、縦に並んでいた。棟と棟は離れているので快適であるが、向かいの棟には絹枝の仕事仲間の女がいた。
娃子が驚いたのは、その女がまだ若いと言うことだった。3歳のムスメがいる30半ばの女だった。それも夫は有名メーカーで働いているのに、子供を連れ日雇い仕事をするとは。そのため、あだ名は当時人気の時代劇ドラマの「子連れ狼」だった。
絹枝はその女に仕事の電話の取次ぎを頼んだ。
「いやあ、うちゃ、オヤジがそんなん嫌うけん」
と、にべもなかった。絹枝とて只でと言う気はない。それなりの礼はするつもりでいたのに、いともあっさりと断られてしまう。娃子もそれを知っているから、公衆電話まで行ったのである。庄治もそのことを知っている筈なのに、なぜか、その家で電話を借りたと思い込んでいる。
それから、激しい言い争いになった。そして、庄治は言った。
「お前のオトウサンとオカアサン呼んで話つけてやる!」
ああ、誰でも呼んで来いと言い返した。今までにも庄治は、娃子の言動に腹を立てた時、今にわかると言ったものだ。
----何も知らんと口答えばかりしやがって、今に思い知らせてやる。その時になって泣いても知らんぞ!
事実を知った娃子の驚く顔が早く見たいものだと思っていた。これだけは知らないであろう。実のオヤが誰かということを。だが、あまりの生意気さに言ってやった。
どうだ!
やがて、絹枝が仕事から帰ってきた。
「ああ、やっぱり、あんたぁ、連れてくるんじゃなかったわ。のう、誰、呼ぶんない」
と、絹枝にしぼられるものの、いつもの様にふてくされて酒を飲む。電気屋がやってきたのは夜だった。だが、すぐに、点くよと言った。何のことはない、古いタイプのスイッチなので、接触が悪いかっただけのことだった。
娃子は庄治と口をきかなくなった。今までにも同じようなことはあり、いつも庄治のなし崩しにあって来たが、今度ばかりは違った。
一方の絹枝は、娃子と庄治のケンカを面白がるも、頭の中はいつも正男のことでいっぱいだった。
当然、娃子が引っ越しの手紙を書いたが、正男が新しい家にやって来るとなれば、それこそ絹枝は天下の一大事のように心配したものだ。
「ああ、間違えんにゃええがのう」
娃子は駅からのるバス路線に料金、降りるバス停。バス停からの地図をこれ以上ないくらいに懇切丁寧に書いた。絹枝にはこれで間違えたらバカだとも言っておいた。
前の家はバス停とバス停の中間点にあったが、今はバス停から角一つ曲がればいいだけである。市営住宅の近くにはバス停と小学校があり、道も広い。さらに、ここは数ある市営住宅の中でも一番便利のいいところと言われている。これのどこをどうやれば間違えると言うのだ。
当日、確かに正男は指定されたバスに乗った。そのバスの窓から正男のための買い物をしている絹枝の姿を見つけたものだから、さっと降りてしまった。
この時の正男には「なんや、違うやないか、ここやないか、娃子のやつ、ええ加減なこと書きやがって」と思いがあったに違いない。絹枝が歩いているのだから、家はこの近くだ。
そして、絹枝と合流できたものの、バスの座席にカバンを忘れたのを思い出し、あわててバスを追いかけ走る。それを絹枝が痛む足を引きずりながら追いかける。ここではぐれたら大変と必死で走った。バスは行ってしまった。後は二人で歩いて家まで帰る。
「あのまま、バスに乗っとりゃええのに」
誰が家の近くに商店街があると書いたか、バスは三角形の二辺を走り、商店街は一辺の距離にあった。これは正男がバカと言うより、娃子を信用してないだけのことである。正男には、絹枝しか見えてない。また見る気もない。娃子は無論のこと、庄治も単に絹枝の付け足しでしかない。
そして、庄治とともにバス会社の遺失物係りまでカバンを取りに行った。家の側の道は緩い下り坂になっている。その時も正男は下に向かって歩き出し、庄治にバス停は上だと知らされた。また、バス会社で身分証明になるものをと言われ、取り出したのは何と、万博のあの通行証。また、帰宅してから、それを自慢げに話すのだ。もう、開いた口がふさがらないとはこのことである。
記念に取って置くのはわかるが、それを常時携帯していたとは。もっとも、この通行証だけが正男にとって唯一の存在証明、いや「印籠」のつもりなのだ。
また、偶然とは恐ろしいものである。
「娃子が…」
水道を止めると同時に絹枝の声がして、その後の気配で、娃子は何が起きたのか察知した。
絹枝はこうまでして、娃子を貶めたいのか…。
正男に金をやったのだ。いや、これは今までにもあったことだ。その時は、娃子の前で渡していたし、そのことに対して、娃子は何も言ったことはない。ないのに、今日に限ってこっそりと渡す。これでは、娃子がこのことに対して嫌味でも言っているようではないか。いや、これは絹枝の気まぐれである。たまには、違うことを言って見たい。違う、シチュエーションをやってみたかったに過ぎない。だが、正男には、娃子の性格の悪さが植え付けられた。
そして、娃子の就職先が決まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます