信じればいい
この話は誰も信じない。
便りがないのは、無事の証拠とはよく言ったものである。
「皆、元気です」
たった、これだけ書かれたハガキを受け取った人が、この国に幾人いるだろうか。
「のう、手紙、書いて見てくれえや」
絹枝が何か妙な夢を見たらしい。それで、正男のことが気になってどうしようもない。何と言っても、たった一人の弟である。それも、子はいてもヨメはいない。さらに、あの気のきつい秀子と一緒に暮らしているのだ。
----正男もかわいそうに、アネにいじめられてから。
絹枝はいつも正男の事を気にかけている。また、子供たちもかわいそうである。それゆえ、何かにつけて、娃子に面倒を見させようとする。
「してやれ ! のう、かわいそうに、オヤが居らんのんじゃ」
そのオヤを追い出す片棒を担いだのは誰だ。絹枝に言わせれば、何があろうと子供の犠牲になるのがハハオヤであり、自分もそうして来た。だから、嘉子も辛抱すべきだった。それなのに子を捨て出て行った薄情なハハオヤである。
そんなイトコ達を不憫に思うなら、娃子が少しでもオヤの分を補ってやれと言う。さらに、夢見が悪かったからと言って、それこそ、泣くように訴えるのだ。娃子は便せんにその旨を書いて手紙を出したが、返事がない。
「ああ、こりゃ、何かあったんじゃ」
きっと、すぐに連絡も出来ないようなことが、正男の身に起こったのだと心配を募らせる絹枝だった。
「ああ、やっぱり、キョウダイじゃ。こうして、知らせがあるんじゃ」
またも、血のつながりの素晴らしさに酔いしれる絹枝だったが、それにしても、返事が遅い。そして、その手紙のことを忘れかけた頃「皆、元気です」とだけ書かれたハガキが届いた。
さすがに、娃子は怒った。便せんに絹枝の気持ちを代弁して書いたのに、たったこれだけとはあまりにもひどいではないかと。
「博美が書いたんじゃろ」
と、絹枝はバツの悪るそうな顔で言った。一番下の博美はまだ手紙の書き方も知らないと言いたかったのだろうが、手紙の書き方くらい小学校低学年で習う。また、これは智男の字である。
絹枝と正男はたまに手紙のやり取りがある、と言っても書くのは、娃子であり、正男の方もほとんどは孝子が書いているが、この手紙もすごい。
書きたくないけど、書かされた感アリアリの文面であり、会話からして、いつも面倒くさそうに主語を省いたことしか言わないが、手紙も同じである。もっとも、こちらが手紙を出すから、仕方なく返事を書くのであって、正男の方からの連絡や問いかけは一切ない。
だが、今度のハガキは智男の字である。人にこの話をするも、誰も信じてくれない。
「日本人で、そんな手紙書く人おらんよ」
数行の手紙を要約して「皆、元気です」としか書いてなかったと、娃子が腹立ちまぎれに言っているに過ぎないと誰もが思っている。
本当に、それだけしか書いてなかった…。
また、ある年の秋、マッタケが安く買えたと喜んでいた。そして、いざ、食べる段になって、これまた絹枝が情けなそうに言うのだ。
「やあれ、正男はマッタケも食えんのんじゃ。かわいそうにのう」
そんなこと、今、言われてもどうしようも出来ないではないか。それなら、なぜ、もっと早くに、送ってやらないのか。
その後、秀子宅へ行った時、絹枝は早速に聞いてみた。
「正男、今年マッタケ食うたんか」
「ああ、智男が出張で行った先で見つけて、背広に包んで持って帰ってな、
そのマツタケを食べる時、誰も絹枝のことなど気に掛ける者はいなかった。
ちなみに、当時はまだ、近辺の山にもマッタケが自生しているところがあり、その場所は例え家族であっても教えない。足の悪い高齢の姑が毎年マッタケを取りに行くも、もう、危ないから代わりに取って来てあげるからと言っても、決して教えなかったと言う。
「博美な。歌、上手いねん。易者に見せたら、蝶になれる子や言うたさかい。お前、してやれや」
ある時、秀子が言った。ああ、歌が上手いのか。では、何か歌うように言ってみたが、博美は歌わない…。
この時点で、ダメだと思った。どんな蝶か知らないが、歌えと言われなくても歌うくらいでなければ、歌手になどなれない。
茂子はソプラノのきれいな声をしていた。歌も上手だったそうだ。妙子にコンテストに出ることを勧められ、参加してみるも予選で落ちたと聞いた。
博美の歌がどの程度のものか知らないが、ビジュアル的には茂子の比ではない。今風のかわいい顔をしている。ただ、惜しむらくは両糸切り歯の金被せである。
ある時、博美の笑った口から牙のような金歯が見えたのには驚いた。
「子供やのに、金なんか被せんかてええのに」
秀子は言ったが、金とか銀とかの話ではない。どうして、こうなる前にもっと早く治療をしてやらなかったのだろう。いや、いっそ抜いて「白い歯」にしてやらなかったのだろう。おそらく、そんなことも知らないのだ。
歯はともかく、この顔で、ちょっと歌が歌えればアイドルも夢ではない。だが、積極性に欠ける。その後も博美が歌を歌うことはなかった。
それにしても、博美はいつ、歌を歌ったのだろう…。
秀子は博美だけでなく、自分の自慢も怠らない。今だに松竹から誘いがあった話をしたかと思えば、新たに胸を張って言ったものだ。
「私は、貴人の生まれ変わりやて」
----お前らとは、格が違う。
そう言って、秀子が去った後、妙子が言った。
「何が、貴人や。乞食の生まれ変わりや」
絹枝は露骨に嫌な顔をしたが、これは聞いたことがある。本当かどうか知らないが、現世で汚部屋、ゴミ屋敷の住人の前世は高貴な人だと言う。だから、物を片付ける掃除をすると言うことを知らないのだと。また、昔の高貴な人は意外と貧乏していた。だから、物が捨てられない。
そんなある日、頭に包帯を巻いた正男が早退して来たが、手には会社創立記念の弁当を持っていた。娃子には、この後何が起きるか容易に想像がついた。さらに、その通りの展開になったのには、我ながら創作力があるなと思った。
少しして、絹枝が嬉しそうに弁当の中の物をつまんでいたかと思えば、秀子は怒り心頭だった。
「家で食べるんやったら、割りばし使わんと、自分の箸で食べたらええのに ! 」
と、割りばしの袋を引き出しに仕舞っていた。
それを思えば、孝子は平安時代なら、まごうことなき美人である。色白、一重、下膨れではないが、きれいな黒髪。だが、今生の姿は物を片付けることをしない。風呂に入り、洗濯をし、アイロンをかけた物を着て仕事へ行くが、汚れて臭いのするシーツにくるまって寝ている。
人を見掛けで判断してはいけないと言うことだ。一見清潔そうに見えても、見えるからこそ、疑った方がいい。これが汚部屋の住人の正体である。
だが、秀子に関しては、娃子は乞食と言うより、泥棒の生まれ変わりだと思っている。だから、自分のものが「盗られる」ことに対して、あれだけ過敏になるのだ。これまでの秀子のやって来たことは泥棒行為であり、警察沙汰にならなかっただけの搾取泥棒でしかない。
そして、いつもの様に棚に物を上げていた。秀子にとっては、すべてが自分の財産である。が、その時、踏み台から足を滑らせ、仰向けに倒れてしまった。声を上げようにも声が出ない。
----ああ、早よ、誰か、
どれくらい経っただろうか、足音がした。ああ、これで、起こしてもらえると思ったものの、少ししてその足音は去って行った。足音の主は博美だった。
「……?」
博美には咄嗟に状況が理解出来なかった。なぜか秀子がそこに寝ている。うっかり声を掛ければ、いつもの様に怒られそうな気がして、そのままにしておいた。しばらくして、秀子はやっと起き上がることが出来た。
「博美、オバが倒れてんのに、何で起こしてくれへんのや」
と、秀子が言うも、博美はきょとんとしているだけだった。
そして、また、衝撃的な話を聞いた。
何と、絵の会のメグミが精神障害で入院していると代表が言った。これにはそこにいた全員が驚いた。特に、娃子はこの夏の合同キャンプで、絵の会は食事担当となり、メグミと一緒に買い出しに行った。
その時もキャンプの間中、メグミはいつもと変わらなかったが、娃子の顔はゲンバクによるものだと思い込んでいることには閉口していた。いくら、違うと説明しても、それはゲンバクの被害者であることを隠そうとしているのだと、これまた思い込んでいるのだ。
その後メグミには会ってない、絵の会で京都の美術館へ行った時もメグミの姿はなかった。それは彼女の都合だと思っていた。
あまりのことに、娃子はどうしてと聞いて見ただけなのに、代表は語気鋭く言い放った。
「あんたあ、黙っときんさい ! 」
それなら、どうして今、それこそ今までの様に、娃子の居ないところで言わないのだ。例によって、娃子には黙って置けと。
「どこ入院しとん」
これにも一同驚かされた。言ったのは他でもない、看護婦である。
「○○病院よねえ」
と、今度はエリが呆れ気味に言った。市内に精神病院は一軒しかない。誰でもそこに入院していることくらいわかりそうなものなのに、それを看護婦が、どことは…。
ひょっとしたら、大規模病院には「隠れ精神科」があるのだろうか。仮にあったとしても、そんなところに一般人は入れないと思う。
その後のメグミだが退院し後に、娃子の幼馴染と結婚した。
娃子は酒を飲むのをやめた。
別に好きで飲んでいた訳ではない。大人として、少しは飲めた方がいい。飲めるようになりたかった。
庄治が酒を飲むのは酒が好きというより、酔いたいからだと思っている。
酔えば気持ちいい。こんな気持ちいいことはない。幸い飲める体質であったので、便宜上好きだと言っているが、飲んで酔ってる間は幸せなのだ。嫌なことも忘れられる、みんな忘れられる。こんな楽しいことはない。だから庄治は酒を飲むのだ。
ならば娃子も少しは酔ってみたかった。庄治のように酔いつぶれるのではなく、心が一瞬ほろっと酔ってみたかった。
そのために、出来るだけ飲むようにした来た。酒は飲んでいくうちに強くなる。その言葉を信じ、飲む機会は逃さなかった。
冬は安いウィスキーのポケット瓶で体を暖めていた。捜し屋の庄治がそれを見つけたが絹枝は何も言わなかった。当然のことである。二十歳過ぎた娘が酒を飲んで悪い法もなく、また庄治のように酔っぱらうわけでもない。
「娃子、飲めや」
ある年の盆、絹枝は娃子に酒を飲めと言った。娃子はいらないと言った。
「盆じゃに、飲みゃええんで」
庄治が絹枝におもねるように言った。
誰が飲むか、そんな酒。わずかの酒も盆や正月にしか飲めないのか。庄治ならいざ知らず、誰がそんな
だが、飲んでも飲んでも酔うのは体だけ。頭は白々と冴えてくる。一瞬の心地いいほろ酔いのためとは言え、無理してまで飲みたくない。何より、体が酔うと言う状態が、どうしても好きになれない。
本当は酒など飲みたくないし、酔いたくもない。
娃子は顔を見ただけでその人が、飲兵衛かそうでないかわかる。新陳代謝のいい若い頃はそうでもないが、ひと歳取った中年以降になると、それは顔に表れる。
年を取れば、誰でもシワが出来、顔が
その典型的なブルドック顔が石原裕次郎である。彼もあんなに酒を飲まなければ、もっと引き締まった顔の中年俳優になったことだろうに。庄治も代表もやはり、ブルドック顔である。
スターと芸術家は大酒を飲むものではない。
スターがいくら歳を取ったからと言って、ぶよぶよの顔ではいけない。また、酔うと言うことは、一種の発狂状態である。いつも発狂状態ではやがては神経・感覚が鈍る。特に創作活動の場合、常に神経を研ぎ澄まさなければ、いいものは生まれてこない。代表の絵にもそれが表れている。だが、創作には酔うことも大事である。
酒を飲むのをやめてわかったことがある。それは、娃子が何ごとにも酔えない女であると言うことだ。そうなのだ。酔えないからこそ、今までおめおめと生きて来た。これからも、娃子が何かに酔うことはないだろう…。
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