続・誰も知らない
則子が吠えていると言う。
娃子は二十歳過ぎた頃から、年に一二度、ふいに熱を出すことがあった。その日も熱が出たので寝ていた。玄関の戸は開いていた。戸は開いていても、娃子が寝ている姿は外から見えないようになっている。
最初、何と言ったのか知らないが、女のダミ声が響いた。
「いてるかあ ! 」
いてるか?
いてるかとは大阪弁で「そこにおるか」と言う意味ではないのか。少なくとも、娃子はそう思っている。
秀子宅へやって来る人は、誰も「いてるか」とは言わなかった。
「秀子さん、いてはる」
「センセ、いてはる」
この「はる」と言うのは、大阪弁の丁寧語である。
その声が則子の声だとわかったが、それにしても、久しぶりに親戚の家にやって来て「おるか」はないだろう。
あの口の悪い絹枝にしたところで則子宅の玄関で「おるんか」などと言ったことはない。
玄関と言っても、戸を開ければコンクリートの靴脱ぎスペースがあるだけだが、則子と次女が顔を出した。娃子もまだ、熱っぽかったが、半身を起こした。
「誰もいてへんの」
絹枝も庄治もまだ、帰ってない。その後、少し話をしたと思うが、何を思ったか、則子と次女は帰って行った。娃子は再び横になった。
帰宅した絹枝に則子が来たことを告げた。
「何か、持って来たか」
持って来る訳ないだろう。絹枝の許へは誰一人として、手土産一つ持って来たことはない。そして、すぐ、帰ったことも言って置いた。だが、このことを、則子は自分の家族は無論、秀子にそれも尾ひれを付けてまくし立てたのだ。
「上がれとも言わんかったわ。二度と行かんわ ! 」
娃子が「上がれと言わなかった」と言うが、このことにしても、今までだって、義男や則子がやって来れば、すぐに上がり込んでいたではないか。オヤが上がれば子も付いて上がる。それは、娃子も絹枝も同じである。則子宅へ行っても、一々上がれと言われたこともなければ、許しが出るまで、玄関で立っていたこともなく、何となく、そのまま上がっていた。
それは、子供の頃だから許されたことかもしれないが、それにしても「いてるか」はないだろう。また、上がれと言う前にさっさと帰ったではないか。
だが、このことは則子にとってチャンスだった。待ってましたとばかりに、喚きたて吠えまくった。鬼の首を取ったように、ではない。
----お前の首、とってやったどぉ。
もっとも、何も知らない長男長女はその話を信じた。
オヤの話を信じるのは子として当然である。そのためのオヤコである。
長男長女も自分たちのハハオヤが、娃子を憎しみいっぱいの目で睨み付けていることなど知らないのだ。
この国は、母系社会である。家を継ぐのは男だが、その男を生み育てたのはハハオヤである。ムスコにとって、ハハオヤとは女ではない。女性蔑視の思想に、ハハオヤは入っていない。ハハオヤはハハオヤでしかない。それが、この国の男の本質である。さらに、オヤなど、自分に優しければそれでいい。他人にどうであれ、そんなことは知ったこっちゃない。オヤの嫌いな者は嫌う。
則子も家では、子供たちがいてもいなくても、ハハオヤの顔をしている。だが、一歩外に出れば、そんなものは微塵もない。男には七人の敵がいると言うが、則子には自分の家族以外は敵である。
それは、一にも二にも、娃子のせいである。周辺の者は皆、娃子との関係を知っている。知っていて黙っているのは、則子が強いからである。どこの家でも大なり小なりのことはあるが、則子のところは確実視されている。今後、大騒動、修羅場が起きること、間違いなし。
----まあ、お宅も色々と、大変よねえ…。
笑顔で世間話をしながらも、そんな目で見られることがある。そればかりか、秀子も今度は高みの見物組、いや、娃子の応援団長なのだ。
----さあ、
「見よってみ。今になあ、娃子もやるで。何このままで収まるかいな。絹枝はめちゃくちゃやられるわ。私かて、そんなもん許せへんわ。女の大事な顔をあんなことさせられて、誰が黙っとるかいな。ああ、そら、もう、茂子どころやないで。そら、すごいことになるやろなぁ」
----そん時は、お前ら夫婦も呼んだるさかい。則子も知らん顔、させへんで。首でも洗うて、待っときや。
そのことを秀子が誰彼構わず、言いふらしているばかりか、その渦中に則子を引っ張り込もうとしている。
秀子宅とは歩いて5分ほどの距離である。娃子のことは、この辺り、いや、かなりの広い範囲に知れ渡っている。
「それやのに、絹枝はアホやさかい、未だに、娃子をいちびってんやからなあ」
いちびるとは、いじめからかうと言う意味の大阪弁である。娃子はそう受け取っている。
世間、特にこの辺りでは絹枝は素晴らしいハハオヤだけでなく、清貧の人として評価されている。貧乏にも負けず、実子でもない、娃子を育て上げた。また、そのことに義男が何一つ手助けをしてないことも知られている、が、秀子も則子も人から誉めそやされるほど、絹枝がいいハハオヤ、出来た人間だとは思ってない。
「絹枝も、娃子にきついこと言うで。まだ、小さいからええけど、いずれ、やられる時が来るわ」
と、自分のことは棚に上げて言ったものだ。
出来るものなら引っ越したい。本当は秀子とも付き合いたくない、縁を切りたいくらいだが、そうも行かない。
縁切りすれば、いざという時、金を借りる当てが無くなる。秀子が未だに権勢をふるっているのは、人に金を貸すからである。
人に金を貸す気はないが、借りたい時はある。その時に、借りれる先は秀子しかいない。則子もそれがあるから、秀子の腰巾着に甘んじている。だが、何よりも耐え難いのは、アレである。
アレ、あの顔である。もう、反吐が出そうになる。生理的に、細胞レベルで嫌!!!
家は、自分の聖域である。そこでは、ぐっと堪え露骨に、娃子を睨み付けたりはしない。だが、秀子宅は別、ある意味、ここも聖域かもしれない。気兼ねなく呪いをかけられる聖域なのだ。
----早よ、死ね!!
だが、秀子宅だからと言って、むやみに睨み付ける訳ではない。目ざとい秀子や絹枝に見られぬように、これまた、則子も目ざとくその隙を見出す。
娃子がまだ幼い頃、例によって家にやって来た時、則子はちょっと虫の居所が悪かった。そして、つい、娃子を怒ってしまったことがある。
それを絹枝に見られてしまった。絹枝は何も言わなかったが、きつい目で睨み返えして来た。
----へえ、お前も、ママコいじめするんか。
それからは、気を付けている。
則子が嫌なものは、娃子も嫌である。則子の顔など見たくない。度の強いメガネ越しに憎しみ軽蔑のこもった目で、睨み付けて来る。あの、怒りと蔑みの目で睨みつけられるのだ。娃子を睨み付ける者は不特定多数いるが、則子のそれは、狂気と憎悪に満ちた睨み付けである。
その時の、則子の顔は、どうしようもなく醜い。
誰も知らない…。
誰、一人として、則子のこの目、この顔を知らない。知っているのは、娃子だけ。
娃子は後悔した。
則子と会うのが嫌で、いや、あの目で睨みつけられるのが嫌で、自分で仕立て直したあの着物。やっぱり嫌でも、則子の前て、上前の曲がり、衿先と裾の左右寸法違い、着れば衿が逃げる等々、目の前で、出来れば子供たちの前で突き付けてやるべきだった。
ここに、娃子の若さと甘さがあった…。
義男の長男と、娃子は二つ違い。その長男が何と、北海道の大学に行くと聞いた時は驚いた。
えっ、東大じゃないのか。オヤがあれだけ自慢するのだから、当然東大に行くものとばかり思っていた。そうでなければおかしい。では、東大生のオヤたちがあんなにも自慢するだろうか。また、北海道まで行かなくとも、大阪、京都、東京には有名大学が多くあるではないか。それでも、義男は合格自慢をしていたが、ついに、音を上げ、あろうことか、絹枝に泣きついて来た。
「ネエサン、済まんが2万円ほど、貸してもらえんじゃろうか」
----何と、情けなあ。それにしても、よく言えたもんよ。わしがどんだけ金に困っとっても知らん顔しとったじゃないか。わしに何か、いや、娃子に何してやった。アメ一つ買うてやるでなし。小学校入学の時、ぞうりとぞうり入れをよこしただけじゃないか。ほじゃけん、300円借りたままで帰ったのを、娃子に催促させてやったんじゃ。あん時は笑いが止まらんかったわ。じゃがのう、娃子の手術の時にゃ、ジュースイと500円だけじゃったじゃないか。それを、してやったしてやったとホラ吹きゃがって。ああ、一度、娃子にお年玉を500円やったげなの。それだけじゃないか。わしゃ、どんなに困っても誰にも1円の金も借りたことはないぞ。娃子よ、これが、お前のジツのオヤの姿じゃ。ここに連れて来て、見せてやりたいわ!!
貸せと言うが、返す気はないのである。絹枝は一度として、秀子に金の返済を迫ったことはない。それを、その性格を知っての上で言っているのだ。それにしても、恥ずかしげもなく、よく言えたものである。それでも、則子の息子のためには恥を忍ぶが、娃子には何もしてやってないではないか。
いや、今、娃子にものの20万の金を付けて「戻す」と言えば、大喜びですすり込むことだろう。金を受け取った後は、娃子を邪険に扱う。秀子に押し付けるかもしれない。
その時は笑ってやろう。他でもない、娃子に。
----ざまァ、見い。
仕方なく、絹枝は財布から2千円出してやった。その2千円にしても、則子からも長男からも一言もなかった。
そして、その
ちなみに、正男のムスコの智男は中学卒業後、チチオヤの勤め先の研修生となり、そのままオヤと同じ会社で働いている。孝子は何とか美容師の資格を取った。
結局、人間は勘定と感情で生きているのだ。どっちを優先するか、いや、それは勘定を優先する。勘定が思うようにならないから、感情を爆発させるのである。
則子にしたところで、もし、娃子が金の稼げる有名人にでもなっていれば、その時はウキウキとすり寄って来たことだろう。いや、則子だけではない。
人は金の匂いに敏感であり、金のあるところへは人が集まって来る。だから、秀子がふんぞり返っていられるのだ。
----娃子よ。早よ、やれ。
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