あんじょう

 実は、この話は半ば「公言」している。


「絹枝はきつい仕事してるよって、よう、長生きはせんやろ」


 と、茶飲み話にしていた。その話を聞かされた人たちは、一様に相槌を打つ。


「そやろなあ…」


 それ以外に、何と言えばいいのだ。


----人の寿命なんかわかるかいな。それに絹枝さん、まだ、元気やないの。それやのに…。


 確かに、今の絹枝は元気だ。だが、秀子は確信している。子供の頃から病弱でよく泣いていた。大人になってからも寝込むことがあった。そんな女が戦後、ロクに働きもしない男と一緒になったばかりが、義男にムスメを押し付けられ、あろうことか、そのムスメに火傷をさせてしまった。それから、絹枝の地獄が始まった。

 秀子のように手に職があるでなし、女ながらきつい土方のような仕事をして来たのだ。思えば、あの病弱者がここまで生きてこられただけでも奇跡と言える。だが、それももう長くはない。絹枝は今に倒れて病気になる。そして、終わり。

 その前に、絹枝を安心させてやろう。死に行く者への、手向けの言葉である。


「お前が死んだらな、後のことは、したるよって」


「あんじょう」とは「うまく、具合よく、ちゃんと」の意味の大阪弁である。


----そやから、いつ死んでもええで。


 その時の秀子の優越感に満ちた顔。

 人は、早く死んだ方が負けである。特に同年代の場合、どっちが先に死ぬかで疑心暗鬼になる。


「まだ、生きとったんね」


 と、久しぶりに会った知り合いから言われ、怒る人もいるくらいである。


「そうよ、お迎えが来こないんで」


 とか、言ってやればいいのである。言った方もそんなに深く考えている訳でもない。

 絹枝も秀子から、お前の方が先に死ぬと言われたとて、別に何ともない。娃子よりは先に死ぬだろうが、それを二つ違いのアネから言われても…。

 絹枝からその話を聞いた時、娃子もいささか疑問だった。秀子は絹枝はきつい仕事をして来たので、長生きは出来ないともっともらしく言うが、今の秀子とてそんなに健康とは思えない。

 絹枝は一人で新幹線に乗り、新大阪から大阪駅で環状線、さらに在来線に乗り換え秀子宅までやって来る。肝心の秀子はと言えば、最近はほとんど家の中だけで過ごしている。町内の旅行と、たまにちょっと先に出来た新しいスーパーへ買い物に行くが、その時は則子が付いて来る。そして、月に一度の茂子の面会も、この頃ではほとんど正男と博美が行っている。さらに、動作も緩慢である。


 オヤと言うか、年寄りと言うか、中年以降になると、この国の大人たちはやたら肩が凝る、腰が痛む、足がだるいとかで、側にいる者にアンマをさせようとする。

 日頃はアホのバカのと散々、けなして置きながら、こんな時だけはネコナデ声で言うのだ。


「娃子、エライけん、腰揉んでくれ」


 何が、エライだ。自分の都合のいい時だけ、気弱さアピールする。近頃はバネ式の肩叩きがあるので、それで腰を叩くのだが、何かにつけて決して黙っていられないのが絹枝である。叩いてもらっている間、大人しくしていればいいものを、何かとグタグタ言う。面白くないので適当なところで止めてしまう。また、庄治に叩いてもらうこともあるが、この時も同じである。


「うるさいわい ! 」


 と、庄治は続けざまに数発、叩き棒で殴ってしまう。


「娃子、あんなことするんんで」


 どうして、叩いてもらっている時くらい黙っていられないのか。その方が不思議でならない。

 秀子も同じくネコナデ声で孝子と博美に腰や肩揉みをさせるが、二人ともしぶしぶやっている。それを見た邦男が「母の日」にある物体を持って来た。立方体に取っ手が付いた物だった。


「こうしてな、上から押さえたらええだけやから、簡単やろ」


 と、孝子と博美に使い方を教えて帰って行った。電動マッサージ器の一種である。うつ伏せになった腰の上にその立方体を置き両手で取っ手を持ち、押せばいいだけと邦男は言ったが、それはとんでもない代物だった。

 下にいて、押さえてもらう秀子は気持ちいいらしいが、上の押す方は、その振動が伝わって来て、体がかゆくなる。娃子も試しにやってみたが、それはひどいものだった。

 どうせ、邦男が見掛けがいいだけのものをロクに確かめもせずに、秀子へのご機嫌取りに買って来たのだ。

 もっとも、この邦男。秀子宅へ寄るを口実に浮気もしていた。それがバレて妻とすったもんだの挙句、秀子の許へやって来た。別れると息巻く妻をなだめ、元のさやに収めてもらったと言う経緯がある。


 それよりも、娃子が驚いたのが秀子の足、ふくらはぎである。腹の突き出た分だけ尻は小さく、太ももから下の足も細い。この小さな足でこれだけの体を支えているのだ。

 絹枝から、娃子はアンマが上手いと聞いた秀子は、早速に自分も揉んでくれと言う。仕方なしに、秀子のふくらはぎを掴んだ時、思わず声を上げてしまう。

 それは信じられないくらい、のふくらはぎだった。絹枝のかっちりとしたふくらはぎとは違い、針で突けば、今にもと脂が流れ出て来そうな、そんな柔らかさだった。

 また、秀子はタバコを吸う。そのせいかどうか喘息でよく痰を吐いていた。


「うちゃあ、喘息のスジじゃあなぁのに」


 絹枝は一般的でない病気はスジを引くものだと思っている。だが、人の寿命は誰にもわからない。健康そのものでも突然死する人、病弱なのに細々と生きている人もいる。わからないからこそ、高齢世代が顔を突き合わせば、どっちが先に死ぬかとが始まる。そして、相手の通夜では、次は自分の番かと怯えつつも、心の中では快哉を上げている。


「秀子さんなあ。人にものをあげるやろ。そやけど、その人が死んだら、あげたもん取り返してくるんやで」


 と、妙子から聞いたことがある。


----先に死んだ方が負けや。


 それを思うと、秀子はニヤニヤは止まらない。絹枝が死ねば、今着ている服もタンスの中の服もすべて自分のものとなる。だが、それだけで満足するような秀子ではない。絹枝の持っている金が気になる。


----なんぼ、持ってんねんやろ。


 その金を手に入れるためには…。

 娃子をこの家に連れ帰えることだ。庄治にもいくばくかの金は渡すが、娃子のを看てやるのだ。いくらか出せ。まさか、娃子が一人で暮らすようなことはないだろう。その時には「結婚」をエサにすればいい。ヨメ入り先を見つけてやるとでも言えば、ホイホイ付いて来ることだろう。

 秀子は知っている。絹枝に娃子を結婚させる気の無いことを。そう、これからの娃子は介護要員なのだ。それなら、それも奪ってやろう。

 後10年もすれば、孝子も博美もヨメに行ってしまう。その時、自分の面倒を看る者がいない。だから、娃子に看させてやる。大人しいだけの男を当てがい、このアパートの一室に住まわせ、家事をすべてやらせ、その金も負担させる。 

 そして、自分は悠々自適に暮らす。こんないいことがあるだろうか。

 

----アホでよかったぁ。


 世の中、特に自分の回りは、アホばっかり。絹枝もアホだが、娃子はその上を行くドアホだ。その前に、二人がケンカしてくれたら、言うことはないのだが…。

 それを思うと、ワクワクニヤニヤが止まらない。そして、ついに言ってやった。


「お前が死んだら、後のことは、あんじょうしたるよって」


 絹枝は鼻先で笑っていたが、内心はドキリとしたに違いない。


「食べるか」


 と、秀子は食べかけのリンゴの皿を絹枝に向ける。


----どや、この優しいこと。


「いらんわあ、そんな萎びたリンゴ。もっと、新しいうちに食えや」


 珍しく秀子がリンゴを買えば、先ずは仏壇に数日、下げてから数日。それからおもむろに皮を剥き、切り分けて食べるのだ。これが絹枝には信じられない。絹枝なら、次か、その次の日くらいには食べてしまう。食べ物は新しいうちに食べてこそおいしいのだ。そのために買って来たのではないのか。それをわざわざ古くしてから食べる秀子の気が知れない。

 いつだったか、娃子も珍しく秀子宅でインスタントコーヒーの瓶を見付けた。ではと、瓶のふたを開けスプーンでコーヒー粉末を救おうとしたが、既に固まっていた。いや、まだ、中身は半分ほど残っている。それなのに、もう、固まっていた。

 いつ買ったものか知らないが、まだ、半分も残っているのに湿気させてしまうとは…。

 秀子にすれば、インスタントコーヒーの大瓶など、高い買い物である。ここでもお得意のケチ精神を発揮し、少しずつしか飲まないのだ。固まった粉末をつつ長期的に飲むのだろう。娃子は瓶のふたを閉めた。



 例によって、絹枝は突如として話が変わる。


「そんなら、言うちゃろうかあ !」

「……?」


 一体、何があると言うのだ。秀子は訳がわからない。


「おう、知らん思うとんか ! 」

「……?」


 と、ここで少しだけ声のトーンを落とす絹枝だった。


「その昔のう、旅役者の子を産んだじゃろうが」

「…… ! 」


 まさか、まさか、絹枝があの事を知っていたとは…。

 まさに、冷や水を浴びせられるとは、このことである。いや、あの時、秀子が産んだ子を連れて帰る時、ハハオヤは親戚の子だと言って育てると言ったではないか。


----依りによって、それを絹枝に言うやなんて、オヤのくせに、ようも嘘ついたな !


 怒りと空恐ろしさに、リンゴを食べることも忘れてしまう。


 しばらく留守をしていたハハオヤが赤ん坊を連れて帰って来た。そのことはすぐに知れ渡り、それが「秀子の産んだ旅役者の子」であることくらい誰でもわかると言うものだ。絹枝でさえわかった。その後、絹枝は最初の結婚で生まれ故郷を離れたが、戦後に戻って来てから、ふと、思い出した。

 確か、秀子の産んだ男の子がいた筈…。


「死んだ」


 と、オジが言った。それだけだった。

 お前の方が先に死ぬと、ニタニタ笑いの秀子の顔を見て、ふいに、遠い昔のことを思い出した。思いついたことはすぐに口にする絹枝である。もう、黙ってはいられない。


「何なら、みんなに聞こえるように、大きな声で言うちゃろうかあ」


 絹枝のよく通る声で、あの事をしゃべられてはたまったものではない。


「言うなや」


 それだけ言うのが精いっぱいの秀子だった。


----まさか、絹枝があの事を知ってたとは…。


 秀子の一番の黒歴史である。遥か昔の事とは言え、やはり、誰にも知られたくない。


「博美ぃ」

「ただいま」


 その時、博美が学校から帰って来た。本当に救われる思いだった。すぐに絹枝の関心は博美へと移る。こう言う時のアホはスバラシイ !


 その後、絹枝があの事を口にすることはなかったが、二人の腹の探り合いはその後も続いた。


----早よ、死にさらせ。先に、死んだ方が負けやからな。


 秀子は勝ちを確信している。絹枝が死ねば、あの事を知る者はいない。また、服も金も介護要員も手に入る。

 こうなったら、毎晩、絹枝の死を願って、いやいや、願わなくても遅かれ早かれ絹枝は自分より先に死ぬのだ。ここは、大らかにその日を待ってやろう。

 だが、その後も絹枝は元気で半年に一度のペースでやって来た。

 絹枝が生きていると言うことは、秀子もまだまだ、先は長いと言うことだ。また、その頃には絹枝がやって来ることも、秀子の楽しみの一つになっていた。

 それにしても、色々あったけど、絹枝は秀子のタメになった。ここは死に行く者への手向けをしてやろう。


「日光へ行かへんか」

「行くっ」


 ある時、秀子が言った。 

 どんな風の吹き回しか知らないが、秀子の気が変わらないうちに即座に返事をした絹枝だった。

 日光旅を終えた絹枝が戻って来れば、しばらくはご機嫌で道中旅の模様を聞かされたものだ。車内販売で、秀子が珍しくプリンを買ってくれたそうだが、絹枝が一番カルチャーショックを受けたのは、やはり、関東のうどんだった。出汁の色は濃く、これまた辛いこと。


「はっ、わっしゃあ、うどん、洗ろうて食うたで」


 この洗って食べるとは、濃いつゆの中から、うどんだけを引き上げては食べたと言うことである。

 そして、帰り際に、秀子から五万円握らされた。


「持って返れ」


 その時、秀子の長年の肩の荷が下りた。やはり、金を借りたままで絹枝に死なれたのでは、後味が悪い。

 自分が借りたのは、一万八千円。それに利子をつけてやった。

 ああ、これでもう、気兼ねなしに絹枝を見送れる。


----ふん、五万円くらい、すぐに取り返したるわ。これで、もう、いつ、死んでもええで。










 



 




 















 






 


 




 











 











 

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