パラオの貝

「これが南洋のパラオの貝じゃ」


 と、絹枝が貝と言うには大きすぎるを、旅行鞄の中から取り出した。その貝殻には見覚えがあった。そうだ、これは秀子宅の人形ケースの中にあったものだ。

 それにしても大きな貝殻である。一番長いところで20センチ。貝の根元の厚みは2センチ、重さは360グラム。色は白と言うより、パールの様な輝きを放ち、貝柱のところは黒くなっているが、珍しい貝殻である。


「竹松が戦地から持って帰ったもんじゃ」


 竹松は絹枝の戦死した前夫である。

 そう言うことか…。

 秀子は自分のものは自分のものとして当然死守する、が、人のものも自分のものである。正確に言えば、秀子宅に置いて帰ったものはすべて秀子のものとなる。10年ほど前、娃子が顔の手術のため、秀子宅に居候していた時、デパートで買った赤い花柄の蓋つきボールを置いて帰った。数か月後にはまたやって来る。その時に持って帰ろうと思った。

 そして、再度やって来れば、そのボールは台所の棚に鎮座し、既に秀子のものとなっていた。16歳のメイが買ったものを、それも包装紙を、自分のものとしていた。その包装紙ですら、破りはせずに取って置き、何かの時に使ったことだろう。

 娃子は何も言わなかった。何か言ったとて、秀子のとんでも理論で鼻先であしらわれるだけである。


「いるんやったら、いる言うとかんかいな。なんも言わへんよって、いらんのやろ思たわ」

----ちゃんとせん、お前がアホや。


 この貝もいわば竹松の形見である。それを絹枝が置いて帰った。この時点で権利を放棄したのだ。ならば、これは自分のものである。早速に釘付き人形ケースに入れられ、秀子のものとなっていた。それを絹枝は取り戻して来たのだ。

 思えば、恒男の死後、正男一家を呼び寄せたのはいいが、ヨメの嘉子とうまく行く筈もなく、ついには裁判沙汰となるが、その時、秀子からひどいかな釘流の手紙が来た。嘉子側との裁判になったので来てほしいと何とか判読出来た。

 そして、正男と嘉子の離婚が成立。三人の子の親権は正男。だが、これは絹枝にとっては嬉しい出来事だった。

 他人がいない。血のつながったアネとオトウト、オイメイが一つ屋根の下で暮らすのだ。こんないいことがあるだろうか。出来れば、自分もここの一員に加わりたい。一時は、娃子を連れ、この庭に小さな小屋でも建て移り住もうかと真剣に考えたこともある。こんなムスメ、身内の情けにすがって生きるしかない。その方が、娃子のためでもある。


「大阪へ引き上げて行かんかい」


 だが、この話は千々として進まなかった。秀子が今一乗り気ではない。せっかく家の陽当たりを無視してまで、残した庭である。そこをつぶされてたまるか。その時は平屋部分に二階を建て増した三戸のアパートは皆ふさがっていた。

 また、娃子もどっちつかずの構えでしかない。孝子もリョウシンの離婚後言ったものだ。


「居った方がええんか、居らん方がええんか、ようわからん」


 ハハの嘉子が居れば居たで、秀子と諍いが絶えない。そして、今は長女と言うだけで、あれこれ用事を押し付けられ、秀子から怒られまくっている。

 娃子にしても庄治とは離れられるが、今度は秀子からこき使われる。洋裁だけでなく、家事までそれこそ休む間もなく、それに便乗するのが絹枝と正男である。二人とも笑いながら、その様を見ていることだろう。

 以前、秀子が「何しに来たんや」と、娃子に言ったことには絹枝も嫌な顔をしたが、あの万博の時はまだ「客」であった。だが、同じ敷地内に住めば客ではない。娃子が何を言われようとされようと構わない。

 例え、どこかに就職しても今度はその金すら当てにされるだろう。つまるところ、娃子もどっちがいいのかわからない。

 何はともあれ、秀子がいい顔をしないのだから、ことは進まない。

 そこで、絹枝は戦略を変える。恒男の存命中は重い土産を欠かさなかったが、今は無し。もっとも、秀子、正男、義男や則子にしたところで、只の一度として手土産を持って来たことすら無く、だからと言って誰一人として、娃子に小遣いすらやることもなかった。手土産のことはともかく、ここから絹枝の反撃が始まった。


「わしゃあ、一つずつ、言うちゃるんじゃけえ」


 今まで秀子からされたことを言ってやるのだ。


「お前ぇ、わしが持って来た米をの間に食うたじゃろうが」


 秀子はぐうの音も出ない。このサンジョの間と言うのは、またたく間と言う意味の絹枝語である。

 戦時中、絹枝は三重県の田舎に嫁いでいたので、食べるものには困らなかった。

 秀子はせっせとやって来ては逗留した。見知らぬ土地へやって来た心細さもあり、絹枝は秀子一家を歓待した。


「あの鰻の巻き寿司、うまかったなぁ」


 と、今でも秀子は言う。当時の絹枝は天然鰻入りの巻き寿司を作った。養殖鰻の身は柔らかいが、天然鰻の身は引き締まっている。食べれば養殖鰻にない美味しさがわかる。それこそ、上げ膳据え膳でごちそうを堪能した後は、茂子を置いて行く代わりに、米や野菜に限らず持てるだけのものを持ち帰った。

 そして、終戦。まさに、カモがネギを背負しょって来た。戦死した夫の家や田畑を売り払い、当時五万円と言う金を持って絹枝が転がり込んできた。これを秀子が見逃す筈はない。また、それは赤子の手を捻るより簡単なことだった。いともあっさりと絹枝は一万八千円と言う金を差し出した。その金でこの家を買った。この時、絹枝は米も担いできた。先ずは、その米から食べた。そして、米が無くなる頃、秀子は言った。


「絹枝。まだ、金持ってんやろ。もっと、出しや」

「おお、そんなら、今度は証文書けよ」

----そんなもん、誰が書くか。


 絹枝から、これ以上金を引き出せないと知った秀子は態度を変えた。そんなら、もう、用はない。さっさとどこへでも行ってくれ。その頃の絹枝はまだ体が弱かった。箒を持つことさえつらい時もあったが、秀子にすれば、そんなことは関係ない。金も出さなきゃ、家の掃除すらしない絹枝に用はない。

 戦時中、あれほど世話になっておきながら、何と薄情なアネではないか。仕方なく絹枝は故郷へ帰った。チチハハはいなくともオジオバがいる。だが、ここでも絹枝は一人のオジに五千円と言う金を取られてしまう。その金はオジの養女のキヨ子が後に払ってくれたが、それは新円切り替えによって、それまでの価値のなくなった五千円でしかなかった。

 そして、別のオジが持って来た縁談に飛び付いた。女一人で生きられる時代ではない。


「あのまま、一人で居ったら、殺されとったかもしれん」


 と、娃子に言ったことがあるが、それなら、庄治は用心棒の役目は果たしたではないか。だが、それは命と引き換えとは言え、実に高い用心棒代だった。いや、今でも支払わされている。死ぬことはないにしても、暴力を振るわれ、酒代をせびられ続けているではないか。

 庄治の事でも秀子からバカにされ、極めつけは、娃子である。絹枝はこの二人から、辛酸をなめさせられていると言う、とんでもないアホ女である。

 それを秀子は笑って見ているどころか、人前でもバカにした。


「おなごしや」


 と、絹枝のみすぼらしい格好を笑ったものだ。絹枝の金で家を買い、美容院を経営していると言うのに、借りた金はビタ一文払う訳でもなく、一度として、絹枝にパーマをかけてやったこともない。

 そんな絹枝がここのところ、ちょっと余裕が出来たようだ。確かに、娃子を洋裁学校に通わせたのだから、着るものが格段に良くなっている。

 いつも新しいスーツを着て来るだけでなく、もう一枚帰り用のスーツも持って来る。さらに、普段着もすべて、娃子が縫ったものばかり。また、それらの色柄のいいこと。

 どうやら、金を持ってるらしい。ならばと、秀子は何かにつけて絹枝に金を使わせるように仕向けた。夕食の買い物に行っても、秀子がロクな物しか買わないので、みかねて絹枝があれこれ買えば、秀子は機嫌がよかった。

 

「茂子が来たら、やってくれ」


 と、絹枝は五千円札を出して来た。茂子とは養子縁組を解消したとは言え、たまには家に舞い戻って来ていた頃だった。秀子は腹の中で笑いが止まらなかった。そうなのだ。いつまで経っても、秀子にとって絹枝はカモネギでしかない。

 

「アネが、あの金、茂子にやったやら」


 と、娃子に言ったが誰が考えても、あの秀子が握った金を人にやる訳はない。そんなことくらい、絹枝もわかっているくせに、優越感に浸りたいために秀子に金をやったのだ。

 茂子は絹枝のことを、今でもやさしいオバチャンと思っているが、娃子と違い、責任がないので甘やかして来たに過ぎない。所詮は他人である。どうなろうと知った事ではない。

 そんなことより、絹枝はずっと心の中に秘めていたことがある。


「のう、三人で金出しおうて、オヤの墓、。小さい墓でもええけん、ここにきらんかい」


 墓を建立することを絹枝は、と言う。


----何を今さら。このアホ女。


 それこそ、冗談じゃない。そんな金はない。それだけではない。墓をこの庭に建てると言う。


----そんな、縁起の悪いもん、誰が、建てさせるかぁ!!


 また、この話を正男が言い出したのなら、耳を傾けてやらないでもない。少しは長男としての自覚が芽生えたか、そんなことは期待するだけ損である。当の正男は自分からは何もしない。誰かが何か言えば「しゃあないな」と言う感じでしか動かない。正男が動くと言っても、お膳立てが済んだ席に着くだけ。つまり、何もしない。まさに「屁のつっかえ棒にもならない」男である。

 これを言えば、絹枝は怒るが、誰もが認める事実ではないか。また、絹枝は小さい墓でもと言うが、いざとなったら分不相応な墓にするに違いない。絹枝とはそんな女である。そして、正男が金がないと言えば、大喜びでこっそり正男の分も出してやるのだ。

 そんな金があるなら、自分で建てろ。


「アネのやつ、なんもせんのじゃけえ」


 と、グチッたが、娃子は一瞬「?」となった。

 では、あの墓は誰の墓だったのか…。

 幼い頃から夏になると庄治も一緒に墓参りに行っていた。バスで10分くらい先の墓地だった。その時、墓の近くに住んでいる人と絹枝は話をしていた。それは親戚か幼馴染の様な話しぶりだった。 

 その墓参りもなぜか、娃子が中学卒業の年くらいで行かなくなった。つまり、盆に墓参りも行かないでは、教育上、世間体も悪い。それでは、娃子も肩身が狭かろうと連れて行ったに過ぎないのか。

 それにしても、あれは一体、誰の墓だったのだろう…。

 結局、この墓話も立ち消えになる。


 ある時、秀子宅から戻って来るなり、憤懣やるかたない様子で娃子に怒りをぶつけて来た。どうやら秀子と、ケンカしたらしい。いつものことだが、何でどのようにしてケンカになったのかさっぱりわからない。わかるのは絹枝の怒りだけである。


「それがな、知らん人の話するさかい。私、その人のこと知らんがなて言うたんや。そしたら、急に怒り出してしもてから」


 そんなことだろうと思った。


「ほらな、今かて、すぐに話が飛ぶやろ」


 この点は秀子の言うとおりである。絹枝の身勝手な話しぶりに、娃子がどれだけ振り回されてきたことか。


 その後も秀子と絹枝の丁々発止は続いて行くが、絹枝の方が優勢だった。それ程に秀子のは数知れず、さらに茂子という弱点がある。そこをぐさりとついてやった。 


「出しちゃれえや。かわいそうに」


 絹枝は茂子を病院から出してやれと言う。


「出せるかいなっ。それやったら、お前が面倒見たってくれるか」

「ハアァ、見る義理はないわ。うちにゃ、娃子が居るけんの。みんな、ええ子じゃ言うてくれるぞ。ふふんっ」


 実子ではない子を育てて来たのは同じだが、茂子は札付きの放蕩ムスメ。一方の娃子は素直で洋裁も出来、今は会社勤めをしている。何たる、この違い。 


「アネとわしでは、が違う」


 と、絹枝の自負するところである。自分の心根がいいから、娃子がいい子になったのだ。借りた金を返さないどころか、ジツのイモウトをバカにするような者と一緒にしてくれるな。また、絹枝は一度してその金を請求したことはない。

 この時の絹枝の優越感に満ちた顔。既にはらわたは煮えくり返っているが、秀子も負けてはいない。


「何言うてんや。茂子と私らは血のつながりないやないか。娃子は義男の子や。確かに義男はほら吹きやけど、それだけやないか。茂子とは他人や」


 血縁第一主義の絹枝である。こんな時には他人と言う言葉が効力を発揮する。 


「そら、そやの」

----ああ、絹枝がアホで助かった。


 それにつけても憎たらしいのは、娃子である。いや、本当のアホバカマヌケはこっちかもしれない。


----娃子のヤツ。何で、怒らへんのや。何で、ケンカせえへんのや!!


 娃子と茂子の事となると、どうにも分が悪い。からもずっと、娃子をけしかけてやったが、未だに絹枝とのケンカは勃発していない。恒男とともに、その時を待っていたが、恒男は先に逝ってしまった。さぞ、心残りだったことだろう。ならば、自分が恒男の分まで堪能してやるのだ。


----さあ、やれ、娃子よ。怒れ ! そんな顔になったんは絹枝のせいやからな。誰が何ちゅうても絹枝が悪いんや。さあ、早よ、怒ってケンカせんかいな。応援したるよって。早う ! 早う、ケンカしくされ!!


 と、アレから、ずいぶん経つのに、まだ、ケンカは始まらない。もう、待ちくたびれている。それなら…。

 

----そんなら、こっちを先に、やったろ。

  

 秀子は、娃子以外にも「決定打」を持っている。



  

  



   






  















 


 










  

















 

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