戦場暮らし
人生は、オヤと見た目で決まる。
天は人の下に人を追いやる。
因果応報もない。
金は天下を回らない。
塞翁が馬もない。
竹を割ったような性格の人はいない。
口は悪いが、腹はきれいな人もいない。
サバサバした人もいない。
根はいい、根はやさしい人もいない。
憎めない人はいない、
天然などいない。
親権はあっても、子権はない。
親不孝はあっても、子不幸はない。
悪気はある。
そんなことないは、そんなことある。
人のしあわせは金では買えない。人は外見ではない心だ。
そんなことを平気で言える人は、オヤも外見も持っているからである。
金などあればあったで苦労が尽きない。これはもう、
美しいと言うことは、無言の推薦状である。
生まれながらにそんな推薦状を持ちながら、不幸だと言う女はバカだからである。黙っていても男が寄って来るから、頭を使わない、努力もしない。
そんなことはない、頭も使うし努力もしている。
何も持たない女はもっと努力している。だが、その努力のすべてが報われるとは限らない。同じ努力なら、無言の推薦状を持っている方が勝つ。なぜなら、絵になるから。
美人は性格が悪いと決めつけられるが嫌 ! それを顔面火傷の女の前で言えるか。
娃子は、オヤも見た目も持ってない。
もし、娃子が普通の顔立ちなら、さっさと家を出ただろう。庄治の視姦。絹枝の罵詈雑言。こんな暮らしに見切りを付け、家出もしくは早々に結婚をしただろう。
何度も、家を出ようと思ったことはある。だが、現実は…。
例え、家出をしたとしても、やがては絹枝に連れ戻される。絹枝は決して、娃子の勝手を許さない。それこそ、地の果てまで追いかけて来ることだろう。娃子にはそこまで逃げる金はない。そして、連れ戻されれば、それこそ半殺しの目に合わされる。
それにしても、自分は毎日、何をやっているのだろうと思わずにはいられない。この暮らしに何程の意味があると言うのか…。
少しでも進歩しようとしているのに、進歩も退歩も出来ない。身動き、いや、息苦しくてならない。今夜もまた、後ろから首を絞められる錯覚に襲われる。もう、自分の臆病さが嫌になる。絹枝も庄治も
まさか、まさか、自分は首を絞められたことがあるとか…。
だから、常に息苦しい。喉の周囲にバリアーが感じられ、思うように言葉が出ない時がある。
娃子にあるのは、不安だけ。これから先も息苦しさと不安の中で生きて行くしかないのか。そんな、息苦しさと不安から逃れるために、娃子は仕事へ行き、寸暇を惜しんで詩を書き、絵を描いているが、本当のところは居場所がないからである。
ないから、あっちへふらり、こっちへふらり、ひと時の居場所をさ迷っているに過ぎない。あの、起き上がりこぼしのように。
思えば、起き上がりこぼしから、娃子の人生は始まった。それは今も続いている。家はねぐらでもない。家こそ、戦場なのだ。世の中の誰もが平和を願っているわけではない。平和など、退屈なものでしかない。
ここは戦場。狭い戦場。
吐く息、吸う息の辛さ。
やっぱり息苦しい。
夜になると、後ろから首を絞められるような錯覚に襲われる。
食料と横になることは出来るが、その眠りは痛い。眠りが痛いのだ。身と心をきしませつつ眠り、訳のわからない夢を見る。
本当は本当は眠りたくない。眠りたくなくても眠らずにはいられない。生物の細胞には眠りが組み込まれている。
絹枝は好戦的、あまりにも好戦的である。
常に争っていなければ生きて行けない。いつでもどこでも、敵を作る。いや、三親等以外はすべて敵である。
敵がいなければどうしようもならない。すべての敵にケンカを売りまくらねば、この溢れ出る怒り・憎悪の行き場、やり場がない。また、新たな力も湧いて来ない。だが、今一物足りない。相手にとって不足な奴らばかりである。
庄治は若い頃から仕事もせず飲んだくれた上、絹枝に暴力をふるった。戦後の混乱期、只でさえ後家と言うだけでバカにされ、また、そんなに丈夫でもなかった絹枝は心細かった。そこで、オジが持ってきた縁談に飛び付いた。養ってもらえるならどんな男でもよかった。当時の男は妻子を養うものだった。
だが、現実は養ってもらうどころか、反対にこっちが養ってやる羽目になろうとは…。
こんな男、何度、殺してやろうと思ったか知れない。そんなことをすれば警察に捕まってしまう。それでは外聞が悪い。やっぱり犯罪者にはなりたくなかった。
そうなのだ。娃子と庄司は絹枝から搾り取ることしか考えてない。。せめて、庄治がまともに働いてくれていたら、今頃は家でも建てている。
短気を口実にすぐに怒り出し、暴力をふるい物に当たるくせに、自分の思いが通らなければ泣きだす。それも絞り出すような声で。
何度、別れようかと思ったか知れない。今は離婚は恥ではない。いっそ、精神病院に入れてやりたかった。
今の庄治は大酒こそ飲まなくなったものの、すっかり内向きになり、とにかく話相手を求めてすり寄って来る。それも、あれやこれやとうるさいだけでちっとも面白くない。
その点、娃子はいい。娃子はケンカを売る相手には持ってこいである。何より、この「どしぶとさ」がクセになる。だから、今夜もケンカを吹っ掛けてやる。吹っ掛けずにはいられないのだあ(笑)
娃子もその当たりのことは心得ているから、初めは受け流しているが、そんなことで満足する絹枝ではない。目的は、娃子を怒らせることである。絹枝は、娃子がムキになるのが面白くてたまらない。これが、絹枝の楽しみなのだ。
そんな絹枝もやり過ぎてしまうことがある。しまったと思った時はもう遅い。
娃子を本気で怒らせてしまった。娃子は家を出ると言う。これは絹枝の得意とするところの単なる脅しとは違う。だが、娃子に出て行かれては困る。そんなことが世間に知れ渡ったら、今までの自分の評価が一瞬で崩れ落ちてしまうのと、最高に面白いいじめ相手が居なくなってしまう。
どちらも困る。今度は慌てて、引き留めにかかるが、娃子も言ったことは翻さない。
「もう、言わんけん」
と、今度は情に訴えようとして来る。娃子が意外と情にもろいことを知っている。
またも、バカバカしい遊びケンカに付き合わされてしまった。時間の無駄でしかない。しかし、絹枝はその時間とそれに費やすエネルギーをふんだんに持っている。まるで、疲れを知らない子供の様に。
そして、娃子は逃げるように家を出る。先ずは仕事へ行くしかない。これが、手かせ足かせ首に縄の付いた者の無様な姿である。
だが、何てことだ。またも、娃子の周辺はざわつき始めた。何と、職場が移転することとなった。今度はバスで30分ほどかかるところだ。それも、単なる移転ではない。
この印刷屋の社長と言うのは大変な努力家で、会社設立当時は、自転車で市内だけでなく市外迄出向き、外交をして回った。その甲斐あり、大きな家も構え、会社には当時まだ珍しかったクーラーを一早く設置した。
市内には大きな印刷会社もあるが、今は中堅どころとして、少しは知られた会社になった、筈だった。中途入社の、娃子にはわからないが、今までにも色々あったらしい。そして、ついに、家も手放すこととなった。
話好きというより、演説好きな社長はそのことすら、以下に自分が前向きであるかを午前中つぶして、
娃子は迷っていた。絵の会や詩のサークルにも近い、立地の良さも気に入っていたのに、移転先はちょっと遠い。また、この頃には、娃子は文選だけでなく版組も出来る。そう、娃子もそこそこ仕事の出来る職人となっていた。
それで、思い切って辞めることにした。以前と違ってすぐに仕事先は見つかるだろうと思っていたが、職安での採用はなかった。だが、娃子はあるオジサンに就職先を頼んでいた。
印刷職人の中には、市内のあちこちの印刷屋を渡り歩く人がいる。少しでも条件のいいところを探しているのか、一つのところに長く務めると飽きてしまうのか知らないが、オジサンもそんな渡り職人の一人だった。これには雇い主の責任もある。職人が辞めないと思えば、いつまで経って給料を上げない。そして、辞めると言えば賃上げを提示して引き留めにかかる。町工場の経営者などこんなものである。
娃子より後から入社して来たのに、オジサンはなぜか先に辞めてしまった。だが、気のいい人で、娃子に版組を教えてくれたりと親切にしてくれた。そのオジサンが辞める時に、娃子はタバコ10箱を餞別代わりに渡したが、どうやらオジサンも移転話から辞める気になったようだ。また、心機一転を図ろうとしたこの会社だが、長くは続かなかった。やがて、廃業に追い込まれてしまう。
娃子は久しぶりに家で洋裁をした。少しは自分のものも縫いたいし、絹枝もここぞとばかりに生地を買って来る。また、近所の人からも仕立てを頼まれた。
そんな頃、正男と博美がやって来た。さすがに今は夏休みに、ムスメたちを丸投げするようなことはなくなったが、もっとも、孝子は美容学校へ行っている。孝子にすれば、秀子と一緒もあの狭い絹枝の家もどちらも面白くないが、元が出不精と来ている。
博美も中学生ともなれば、友達の居ないオバ宅より自宅の方がいい。そこのところは正男もわかっているようで、やって来れば、近場のちょっとした名所のようなところへと出掛ける。この時、娃子は行かなかった。
その三人が戻って来た。そして、絹枝が開口一番何を言うか、娃子にはわかっていた。その通りのことを言った。
「何で、シュウマイ、蒸しとかんのか ! 」
当時、絹枝は冷凍のカニシュウマイにハマっていた。今日も当然夕食のメニューの一品となっている。冷凍食品と言っても、電子レンジがある訳でもなく、庄治が失対の行事で蒸し物も出来る鍋を貰って来た。その鍋で蒸すのだ。そのシュウマイが蒸してなかったと、帰るなり早速に、食卓の上をキッと睨み付け言ったものだ。正男と博美と楽しい時間を過ごした後は、娃子である。
絹枝は秀子や則子たちの前では、娃子を悪くは言わない。だが、正男の前では何かにつけて文句を言う。いや、娃子のすること成すことに、ケチをつけるのだ。今もその気満々で帰って来た。
シュウマイを早くから蒸せば冷めてしまうではないか。
「冷めてもええわ。蒸しときゃあがれ ! 」
いつの頃から、娃子に対して「がれ」言葉を使うようになった絹枝である。
では、気を利かして、蒸して置いたとする。
「早うから、蒸しゃあがって。冷めてしもうたじゃないか。お前にゃあのう、うまいもん食わしちゃろう言う気はないんか ! 」
と、言ったことだろう。いつも蒸したての熱いのを食べているくせに、例によって正男の前では、娃子を罵倒せずにはいられない。
「何で、こんなことするかあ」
この「かあ」と言うのは、正男用の、娃子怒鳴り言葉である。
狭い家の中、ちょっと物を動かしただけでも言うのだ。これにはさすがの正男も驚いていた。人の行動にケチを付けようと思えばいくらでも付けられるが、これはもう、難癖でしかない。
「この前この前。そこは臨機応変にやれ」
出た、お得意の臨機応変が。だが、これらはすべて正男に対するアピールである。
----わしゃ、決して、娃子を甘やかしとらんど。
いつの頃からか絹枝は、娃子と正男を天秤にかけるようになっていた。娃子には恩を返してもらわねばならないが、何と言ってもあの義男の子である。いつ、手の平を返すやら知れたものではない。それに引き換え、正男はジツのオトウトである。やはり、最後に頼りになるのは…。
そして、今夜も始まる、息の戦争。
ああ、息、苦しい
息 返せ 私の息、返せ
もう 出ない もう 出ない
何も 出ない 何も 出ない
だから 息 返せ
息 返せ
せめて 一息 返せ
この世は、息苦しく、生き苦しい。
いつまで続く…。
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