猫の手

 孝子は猫である。

 必要な時は動くけど、それ以外は寝ていたい。

 秀子は出すものは舌を出すのも嫌だが、孝子はを出すのも嫌である。


 幼い頃、病弱でオヤたちはある宗教に入信し懸命に祈ったそうだ。その甲斐あってか、普通に暮らせるまでになったが、孝子が元気になればそれでいいオヤたちは、その宗教を止めてしまう。これまた、勝手なものである。

 そう言えば、正男一家が秀子と同居から離婚となった時も、彼らの口から神や宗教の話を聞いたことはない。だから、正男も絹枝と同じだと思っていたが、そんな経緯があったとは…。

 そして、孝子は病弱を隠れ蓑に惰眠をむさぼることを覚えた。妙子が言っていた。


「あの子なあ、秀子さんが居ぃへんかったら、学校休むんやで」


 秀子の楽しみは町内旅行である。最初の頃は旅行の旗振りをやっていたが、すぐに人に押し付け、常に自分は一番いい位置に陣取るようになった。今は店の経営からは手を引いているものの、町内のボス格の地位は健在である。それは、人に金を貸すからである。そんな秀子が旅行で留守となると、孝子は学校を休む。いつも妙子は二階から見ている。博美は学校へ行ったが、孝子は姿を現さない。


「何で、学校行かへんのっ」


 と、妙子は正男宅の玄関の上がり先から声を掛けるが、当然返事はない。その位置からは二段ベッドは見えないことを知っているからだ。


「そこに居てんの知ってんやで ! 何やったら、今からそこ行こか !」


 仕方なく孝子は起き出してくる。


「何で、学校行かへんのっ」

「アタマ、痛い」


 と、これまた通り一遍のウソをつく。


「そんなもん、薬買うてもろたらええやないの。それやったら、オバが帰ったら、うちが言うといてあげるさかい。今からでもええよって、早よ、学校行き !」

「今日は…」

「そんなんで、美容師なられへんで」


 孝子も博美も中学を卒業したら、美容学校へ行くことになっている。ちなみに、長男の智男は中学卒業後、正男の会社の研修生となっている。


----ホンマは、美容師なんか、なりたない。


 だからと言って、取り立てて目標や夢があると言う訳でもない。


----なりたないけど、美容学校へ行くんやから、そないに勉強せんでも。行くようになったらするけど、学校みたいにややこしいことないやろ。


「やっぱり、アタマ痛いんで」

----早よ、帰れ、このクソババ !

「そうか、それやったら今度、オバに薬買うてもろたげるよってな。ちゃんと飲みや」


 と、妙子が玄関を出るより早く、孝子はベッドに潜る。 


----ああ、バカバカしっ。もちっと、おもろいことないかなぁ。


 例えば、もっとおいしいものが食べられて、いい洋服が着られて、どこかへ遊びに連れてってくれる。それは毎日でなくてもいいが、にはそう言うことがあっても…。


----とりあえず、今日のところは寝るとするか。


 それこそ、たまの鬼の居ぬ間の息抜きである。そうやって昼間、いや、朝から寝るものだから、夜は目が冴え遅くまでテレビを見ている。秀子が居れば、こうはいかない。あのちょっと高い渋声で、それこそ毎朝毎晩言うのだ。


「早よ起きやあ ! 早よ寝えやあ ! 」


----やれやれ、うるさいババばっかり。


 と、悪態をつきながら、眠りにつく孝子だった。


 そして、秀子が旅行から帰って来た。土産は観光地によくあるいつもの「温泉饅頭」それも一つしかくれない。残りは、秀子が一人で食べるのだ。さらに、そこに、もう一つのうるさいババがやって来た。絹枝である。また、今回はバケモノまで付いて来た。

 絹枝は菓子とか買ってくれるし、服も縫って来てくれるけど、やりたくもない掃除をさせられる。孝子にはこの掃除がどうにも苦痛である。


「こんなんじゃ、病気になるわ」

----埃なんかで死ぬかいっ。 


 いや、娃子は咳き込んでいる。小さな蛍光灯一つの板間だが、掃除をし始めると目に見えない埃が舞い上がる。


----何を大げさな。お前なんか、早よ、死ね!!服縫うたくらいで、大きな顔すなっ。お前が死んだら服くらい、それこそ絹枝のババがうてくれるわ。


 これを口に出せたら、どんなに気持ちいいか。とにかく面白くもない毎日だ。

 いや、孝子は知らないのだ。絹枝の服のセンスがいいのは、自分の着るものにだけであり、孝子たちの服は柄選びから、娃子に丸投げしている。要はオバとしてメイたちにと言う満足感に浸ればいいことを。

 


 それにしても、呆れる程物が増えている。正男宅の上から床までモノがあふれている。そのモノと言うのが、主に文房具の類である。いわゆるファンシー文具のはしりで、なぜか細い鉛筆や野菜の形をした鉛筆、筆箱ではなくジッパー付きのペンケース等々。二人共学校に行った後なのに、ペンケースのが2・3個転がっている。こんなペンケースも決して安くはないと思う。

 そうだった。秀子が言っていた。孝子と博美の小遣いは月に500円だと。本当は千円なのだが、半分は貯めておいてやるのだと。それにしても今時、月500円とはいくら何でも少ないと思ったものだが、誰が考えても月500円でこれだけのものは買えない。その点は、秀子も大いに疑問であり、正男を問いただす。


「正男。おまえ、この子らに毎月なんぼやってんや !」

「やってへんよ」

「やってないのに、何で、こんだけモノがあるんや ! 」

「……」


 正男は都合が悪くなると黙まる。いや、正男にとって、沈黙は金である。黙ってさえいれば、周囲が何とかしてくれる。そんな正男を苦々しく思うしかない秀子だった。

 思えば、離婚した嘉子が子供を置いて出て行った時、博美はまだ幼稚園だった。気に入らない嘉子はいなくなったものの、まだ、幼い3人の子供の世話に追われた。差し当っては当時、口を利かなかった孝子を箒でどやしつけた。それで、ものを言うようになったと思ったものの、孝子は買い物が出来ない。美容院の前にある薬局で洗剤を買って来るよう言い付けたのに、買って来た様子もない。


「ない、て言うてた」


 そんな筈はないと秀子は薬局に電話する。


「孝子、あるさかい、行っといで」


 と言われ、渋々出かけていく孝子だった。 


 その話を聞いた、娃子は買い物が出来ないのではなくて、行きたくないのだと思った。とにかく、孝子は動きたくない。だから、行ったけどなかったとウソをつく。

 やがて、博美も成長し、こちらは孝子と違って身軽に動くので使い勝手がいい。秀子もつい、博美に用を言い付けるようになっていた。顔はかわいいし、愛嬌もありこの辺りではちょっとした人気者になっていた。

 だが、ある時、妙なことに気が付く。どうにも財布の中の金の減りが早いのだ。おかしいと思いながらも時は過ぎて行くが、ついに秀子は見てしまった。         

 何と博美が秀子の財布から金を抜いていたのだ。怒り心頭の秀子はお得意の箒で、今度は博美をどやしつける。


、どついたった ! 」


 それと言うのも、買い物に行く時の金を手渡すのではなく、財布の中から持って行くようにさせていたのだ。


「そんなことさせるさかい、いかんねんや」


 と、正男はムスメをかばうが、確かに財布から金を持ち出させる秀子も悪い。悪いが、ここは秀子のように、物があふれかえっていることに疑問を持たない正男もおかしい。結局、自分からは何もしないのが正男の正男たる所以である。

 娃子は秀子の財布に触ったこともないのに、そこから千円盗ったと疑われたことがある。その時も箒を手に娃子をどやしつけようとしたが、難なく逃げられてしまう。そして、その千円は恒男が秀子の財布から黙ってものだった。

 それなのに、どうして博美には財布を触らせたのか。娃子が盗らなかったから、博美も盗らないと思ったのだろうか。それとも、あの時のバツの悪さが忘れられなかった?

 絹枝は博美のその話を聞いても何も言わなかった。これには孝子もがっかりした。孝子は博美が金を抜いていることを知っていた。最初その金を見せられた時から、博美をけしかけた。金があると言うことはいいことだ。欲しいものが買える。そして、バレても抜いたのは博美であり、自分ではない。さらに、そのことで秀子から箒でどやされようとも、過去に自分もやられたことだから、これでアイコ。いや、いい気味だった。

 ちょっとカワイイとおだてられ、いい気になっているイモウト。それがまた、可愛がられようと、計算しているのにそれに気づかない大人たち。

 さすがに今度ばかりは少しは絹枝からも説教されるだろうと思っていたのに、こんな時に限って絹枝は何も言わないとは…。

 孝子は忘れてない。絹枝が博美にだけランドセルを買ってやった。それも一番いいのを。孝子のランドセルはオヤに買って貰ったものだが、その時正男が言ったことを覚えている。


「そない高いもんやのうてええやろ」


 また、絹枝も代わりに何か買ってくれたわけでもない。なのにその夜、例によって孝子は掃除をさせられた。自分の方が博美より年上と言うだけで、掃除のやり方をとは全くもってひどいエコヒイキではないか。


 そして、日曜日、3人とバケモノは難波へ出かけて行った。誘っても孝子は動かない。


----誰が、行くかい ! そんなんより、寝た方がええわい。


 どうしようもなく、ものぐさ、出不精の孝子とは逆に絹枝は嬉しくてたまらない。半年に一度の楽しみである。正男と連れ立って歩ける。好物の鰻を食べさせてやれる。もう、ウキウキとことこの上ない。


「あ、そっち行くな。行ったら、危ない。もっとこっち歩け」 


 常に正男に対し心配と笑顔を絶やさない。


----のう、血を分けた、たった一人のオトウトじゃ…。


 今日はちょっと大きな食堂に入った。


「キツネでええ」


 何を食べるかと聞かれると、博美は決まって「キツネでええ」と答える。だが、これはキツネうどんが食べたいと言うのではなく、キツネうどんなら高価でもなく、控えめなムスメに見られることを計算しての事だが「キツネで」と前置きしている点で既にバレている。当然、キツネうどんである筈もなく、鰻が運ばれてきた。

 只でさえ普通でない、正男といるだけでテンション上がりまくりの絹枝は、食べながらも正男に笑顔を向ければ、正男も仕方なく笑い返していた。そして、極めつけは自分の食べかけの鰻をそれも嬉しそうに正男にやるのだった。


----気持ち、悪う…。


 これはもう、鳥肌ものである。さすがに、博美も嫌悪感をあらわにしていた。

 後で、娃子は絹枝にあんなことは止めろと言った。博美が嫌な顔をしていたと付け加えて置いた。博美が嫌がることはしない絹枝である。


 翌日、例によって則子がやって来た。例によって、娃子を睨み付ける。


----今度は付いて来やがったか。お前なんか、早よ死ね!!


 いつも、ため息交じりに義男と話す。娃子が車にでも牽かれて死んでくれないものかと。そうなったら、どれだけ嬉しいことだろうか。


----お前が死んだら、赤飯炊いて祝おたるわ!!


 そして、絹枝との共通の「笑い」も無くなる。

 この二人、秀子宅で顔を合わせると自然に湧いてくる共通の笑いがある。則子も自宅では例え、子供たちが居なくても、を控えている。やはり、家での則子はハハの顔でいたい。だが、秀子宅では、遠慮なく腹の探り合いができると言うものだ。


----則ちゃん。あんたも相当意地が悪いわ。

----絹枝さんこそ…。


 やがて、二人は声なき笑いから、段々に声を立てた笑いになって行く。これもいつものパターンである。

 この様子を、娃子は腹の中で笑っている。これはまるで、水戸黄門の悪代官と悪徳商人ではないか。


----(お互い)お主もワルよのう…。

「知ってんやろか」

「さあ、知らんで。知らんけど、うちのが言うんじゃ。わしゃあ、お前のオヤじゃないんどぉ、言うてから」


 と、また、絹枝の作り話が始まった。それも、テーブルを叩きながらの演技付きである。庄治は、娃子から感じるものもあり、匂わせることは言うが、すべてを暴露するほどの度胸はない。

 そして、また、気分の悪いことを聞いた。何と、あの義男もテレビを見て泣くのだそうだ。只でさえ、野太いダミ声でまくしたて、いつでも自分を正当化することに長けている義男だが、よその不幸話には泣くのだとか…。


「変やなあ。血ぃ繋がってないのに」


 同じく庄治もテレビを見て泣くことを知った則子が言った。


 ああ、もう、どっちも、気持ち悪いことこの上ない。

 努々ゆめゆめ、テレビを見て泣く男など信用しないことだ。 




 それにしても、絵の会の雰囲気がおかしい…。







 










 












 
















  

 




















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