第六章
日々累々 一
足が痛い。
子供の頃から痛かった足だが、ここのところ痛みが激しい。座り仕事から立ち仕事に変わったせいだろうか。
痛みに前触れなどなく、突如として痛み出す。時には錐で刺された様に、時にはズキズキと。痛くて
痛む足を騙し騙し、やっとの思いで仕事を終え、必死で絵の会のアトリエ迄行き、座り込んだこともあった。座ると痛みは治まるが、動けば痛むのでじっとしているしかない。その時は、代表もさすがに気になったようだ。
「医者、行ってみんさいや」
と、珍しく気遣いをしてくれたが、もう、とっくに行っている。それも、何軒かはしごをしている。どの病院でレントゲンを撮っても、異常なし。
「こりゃ、筋肉痛じゃ」
違う、これは筋肉痛ではない、この痛みが、どうして筋肉痛なものか藪医者と、心の中で叫んだこともあった。
しばらくして、思い切って立ち上がれば、痛みは嘘のように消えていた。消えたと言っても一時的なものでしかなく、その後も、娃子はこの足の痛みに悩まされ続ける。
足だけではない。これも子供の頃からだが、喉にバリアーが、喉の周りにじりじりとしたバリアーの様なものを感じている。だから、吃音?になってしまう。最初にタ行が来ると、発音しにくい。
そんなある日、娃子は虫歯の治療に歯医者に行く。一番行きたくないところであるが、歯だけはすぐに行くようにしている。
歯科のドアを開けた途端、頭に響くあの削り音。もう、これだけで後悔するも今さら引き返すことも出来ない。また、当時の歯の治療はものすごく痛いものだった。そして、歯のレントゲン写真を見た医師がとんでもないことを言う。
「あんたぁ、こりゃ、乳歯じゃ」
何と、虫歯の隣の歯が乳歯のままだと言う。確かに、少し色の悪い小さめの歯があったが、それが乳歯だったとは…。乳歯は抜くしかない。
肝心の健君だが、東京から1年で帰って来た。即入院。いや、入院状態で帰って来た。病名はネフローゼ。今は近くの総合病院に入院しているので、たまに見舞に行く。元看護婦のお母さんが付き添っているが、ある時の健君の顔は男物の下駄の様に腫れ上がっていた。
今日は落ち着いていたので、乳歯の話をすれば笑っていた。
その後の健君は、人工透析を受けつつ、節制をしつつ、入退院と転院を繰り返す生活となった。人工透析を受けながら社会復帰をしている人もいると聞くが、すべての透析患者が皆、同じと言う訳ではない。
そして、あの色白だった健君の肌が茶系に変わってしまった。
病気とは持って生まれた肌色すら変えてしまうものなのか…。
この夏は、同人誌では合宿の話は無く、結局、合宿は2年で終りとなった。
それとは別に、誰が発起人か知らないが、市内の色んなサークルで合同キャンプをすることとなった。
絵、詩、写真、山、映画サークル等々、民青も参加すると言う大規模なものだった。参加人数は100人を有に超えていた。バスで行けば2時間程かかる島のきれいな砂浜だった。
当時の若者はエネルギッシュである。先発隊は何度も下見をし、飲み水の手配から、炊事場にテント張り、終わった後は砂を掛ければいいだけの簡易トイレも作ってくれた。
相変わらず、食事の支度は有志の女子だが、男子は食料や器等の荷運びをやってくれた。それよりも一番後にやって来た、それぞれの団体の残り連中。着いたら即、夕食。食べた後も知らん顔。こっちは後片付けやご飯の残りをおにぎりにしているのに、手伝おうかとも言わない。人数が多いので、自分たちは関係ないとでも思っているのだろう。
それでも日が暮れると、キャンプファイアーを囲み、オクラホマミキサーで盛り上がった後は、それぞれ夜の海を楽しんだ。
ちなみにオクラホマミキサーとは曲名ではなく1940年代に日本に伝わったフォークダンスの名前であり、この曲とダンスの組み合わせは日本で出来たものである。
そして、朝にはおにぎりがすべてなくなっていた。
「おにぎりにしといて、よかったね」
民青の、後に市会議員になる女子が言った。おにぎりの提案をしたのは娃子だった。翌日は恒例のスイカ割りもした。だが、数人やってもなぜか誰も割れない。
「誰か、やる人いませんかあ」
その時、映画サークルの代表が、娃子を半ば強引にスイカ割りのところまで連れて行く。ここまで来たら、やらない訳には行かない。
「そこじゃ、 そこじゃ !」
「 やれ ! やれ ! 」
その声で棒を振り下ろせば、スイカは見事に割れた。
映画サークルの代表は妻子とともに参加していた。幼稚園の娘がいる。この夫婦は、娃子に好意的である。その奥さんは言った。
「私ね、結婚する気なかったの。オヤにも結婚しないからと言っててね。これホント。それがまあ、相手がいたから結婚したようなものよ」
だから、あなたにもいつか、いい人が現れるよと言うニュアンスで、娃子に話かけてくれる。
----この顔、年取ったら見らりぁせんぞ。この顔でシワだらけになったら…。
と、遥か先の、娃子の顔を想像し片眉を吊り上げている、どこかの代表とはえらい違いである。だが、娃子の顔にシワは出来ない。焼けて縮んだ皮膚を骨の成長で無理やり伸ばしている様なものである。だから、娃子の顔にはシワは出来ない。
それにしても、後に団塊の世代と呼ばれる戦後のベビーブームに生まれた若者たちだが、とりわけ女子は、娃子だけでなくスタイルのいい
娃子は、きっと自分たちの後の世代の女性たちは、欧米並みになるだろうと思ったものだが、実際は欧米どころか、胴長短足O脚の芸もない、かわいいだけのアイドルがテレビ画面をうろつき始める。
どうして、団塊の世代の女性たちは、こんなにもスタイルが良かったのだろう…。
ここに、健君がいれば…。
今、ここに、健君がいれば、どんな話をしただろう。スイカ割りもやったかもしれない。
娃子は楽しさの中にも、やりきれなさでいっぱいだった。やはり不幸は、娃子を中心に広がって行くのか。娃子こそが不幸の根源…。
だから、みんな、娃子から離れた方がいいのかも知れない。
離れたくても離れられないのが絹枝である。
娃子は二十歳過ぎてから、ふいに熱を出すようになった。その日も朝から熱っぽかったが仕事へ行った。それでも、何とか仕事をやり終え、明日は休むかもしれないと伝え帰宅した。熱があるからと、夕食も取らず弁当箱を洗い、化粧を落として寝た。翌日も熱は下がらず、そのまま寝ていれば、その日は失業保険を貰って休みの絹枝が枕元でバタバタと音を立てる。さらに、あれやこれや話しかけて来る。生返事をしていたが、ついに、耐えきれなくなり起きあがれば、絹枝は笑っていた。
----ちょっと、熱が出たくらいで、大げさな。
起きたからと言って、何が出来ると言う訳でもない。座っているだけの、娃子を見てようやく絹枝が言う。
「寝えや」
若い娃子の熱くらい、寝てれば治まるのに、これではまた近くの病院に行って、注射でも打ってもらうしかない。日頃から、金を使うなと言うくせに、こうして無駄な金を使わせる。
娃子は化粧品代、銭湯からシャンプーリンス石鹸タオルまで、すべて自分持ちである。家には、買いだめが好きな絹枝が買ったタオルや石鹸が積まれているが、それは観賞用でしかない。
本当に絹枝とは余程の事でもない限り、それこそ、寸暇を惜しんで文句を言う。もう、言わずにはおられない。先ずは娃子である。
「休みの日ぐらい家におれや。毎日毎日、出歩きゃがって」
毎日出て行く先は職場である。働かなければ収入が得られない。それをまるで、娃子がうろつき回っているように言う。
「金貯めて、もっとええのを買ええや。縫う腕持っとるくせに」
年頃のムスメより、衣装持ちの絹枝が言う。娃子は自分の物を縫うまで手が回らないから、つい、安い既製品を買ってしまう。そして、ものすごいものを引き合いに出してくる。
「見てみぃ、テレビでも言うとるじゃないか。オヤの光は七光り、金の光は阿弥陀ほどに光る。ほれ、金のないのは首のないのも同じじゃ、言うとるじゃないか」
それはテレビの水戸黄門の悪代官と悪徳商人のセリフではないか。
とにかく金は稼いでこい。稼いだ金は使わずにを貯めろ。そしてこのボロ家を光り輝くほどに磨け、それが終わったら、肩揉め、足揉め。
----若いもんが、寝るようにゃなっとらん
絹枝は今、改めて後悔している。どうして、娃子など貰ってしまったのだろう。こんなことなら、正男の子、博美を貰うのだった。博美は本当にかわいい。顔だけでなく、心もかわいい。
娃子など、とっくに捨ててやりたかった。本当にどうしようもないガキである。わずかでも血のつながりがあると言うのに、 この体たらく。
何より、絹枝を苛立たせるのは、娃子の若さである。その若さも絹枝が与えてやったものではないか。それなのに、好き勝手ばかりして感謝の言葉すらない。
それでも、オヤに捨てられかわいそうだと思い、情けをかけてやったと言うに、やはり、オヤのコだ。あんな身勝手な義男のコでしかない。
これではいけないと思い、人の道、物の道理を教えてやったと言うのに、絹枝の思いなどさっぱり通じない。
それだけではない。娃子の若さに反比例するように、自分の体の衰えを感じる今日この頃である。だから、言うべきことは言ってやらねば、この気が治まらない。こんな、理不尽なことがあってよいものか !
「お前、誰に似たんない ! 」
誰かに似なければいけないのだろうか。
確かに、顔は誰にも似ていない異物でしかない。そして、身内の誰からもつま弾きにされている。これで、どうして、似る間があると言うのだ。
ならば、この大恩あるオカアサマを見習え?
絹枝や庄治を見習う気など、サラサラない。これがオヤフコウと言うならそれでもいい。
本当は、娃子こそ言ってやりたい。では正男は誰に似たのだと。アネ二人は押しも押されもせぬ、口達者、剛の者。それこそ、男女逆転すればよかった。だが、それを言えば絹枝の怒りに火が点く。何しろ、体中に怒りの導火線を張り巡らせているのだから。そして、娃子が一番嫌いな言葉を叫ぶ。
「びったれ ! おびぃ ! 」
この、びったれとは、不潔でだらしないと言う意味である。絹枝は、娃子を不潔と言うが、娃子に言わせれば、絹枝の清潔観念の方が少し変わっているとしか思えない。だが、自分の言うことすることは、すべて正しいと思い込んでいる絹枝に、それが通じる筈もない。
茶碗はわざわざ濡らして絞った布巾で拭き、絹枝は洗剤ではなく、固形クレンザーを使う。固形クレンザーにタワシをこすりつけるのだが、その時、クレンザーが周囲に飛び散ってもお構いなし。そして、弁当箱を洗えば、すすぎが十分ではないので昼になれば弁当箱の隅に粉が吹いている。もう、それだけで食べる気がしない。娃子はそのまま持って帰る。
「中身くらい捨てて帰れや ! 」
捨てて帰れば、中身は食べたと思われるではないか。それなら、弁当箱くらい自分で洗えばいい、ではなくて、いつもは自分で洗っている。夕食後の洗い物はほとんど、娃子がしている。絹枝も庄治も食べてしばらくすれば、寝るより楽はなかりけれと布団に入れる。たまに、布団の中から絹枝が言う。
「今日はわしが洗うけん、置いとけ」
これが、気を利かしていつもの様に洗えば、それはそれで気に入らない。
「わしが洗おう思よったのに」
ではと、そのままにして置けば。
「やっぱり、洗ろうとけ」
と、絹枝の気まぐれに付き合わされる。そして、たまに絹枝が洗えばすすぎが悪く粉が吹く。クレンザーでなくて洗剤を使えと言っても使わない。この洗剤も、娃子が買って来たものである。
これのどこが清潔で、娃子が不潔なのだろう。いや、とにかく、言わずにはおれない。
「早よ寝えよ ! 毎晩 毎晩 ! 」
と、それこそ、飽きもせず、毎晩言う。そして、こっちも忘ない。
「二十歳も二十一にもなって」
これも、娃子が二十歳過ぎてから言い出したことである。
「二十一も二もなって」
この時、娃子は二十一歳。なのに、どうしても一つ余分に歳を付ける。日頃、アレ、ソレ、ナニと咄嗟に思い出せない言葉が増えても、娃子の歳だけは忘れない。娃子が早生まれなので、きっと、正月が来れば一歳プラスするのだ。そして、文句を言う時は、さらに一歳プラスすると言う訳である。
絹枝の数少ない楽しみの一つにドラマ「水戸黄門」がある。いつも、うっとりとした顔で見ているが、ラストの黄門役者の顔がアップになると言う。
「何と、顔生地の悪い人じゃのう」
美肌自慢の絹枝からすれば、気になるところであるが、きっと、いつか、あの黄門が自分の前に現れてくれると思えば、その時は、肌のキメなどどうでもいい。
「やあ、絹枝さんや。わしはあんたのように、立派なハハオヤに会うたことがない。あんたこそ、オヤの鏡、ハハの鏡です。実に素晴らしい人です。庄治さん、娃子さん。これ以上絹枝さんを苦しめる様な事を仕出かしては、このわしが黙っておりませんぞ ! 」
と、例のバカ笑いをして去って行く。
あの黄門様なら言うであろうセリフである。ねえ、
娃子は知っている。この葉村章子とは、個人名ではなくTBS月曜8時の時代劇シリーズの数人の脚本家たちの共同ペンネームである。他に「大岡越前」「江戸を斬る」などがある。
娃子は別に時代劇が嫌いと言う訳ではない。
「三匹の侍」「眠狂四郎」「木枯し紋次郎」「必殺シリーズ」等々、見ていたが、この水戸黄門だけはどうしても好きになれない。あんな権力を笠に着たドラマのどこが面白い。印籠を使うだけのジジイの話ではないか。
それなら、見なければいいだけの事であるが、絹枝に付き合わされる。絹枝にして見れば、娃子がいつまでも好き勝手やっていると、いつか、あの黄門様がやって来て鉄槌を下すぞと言う脅しのつもりらしいが、娃子にはその脅しが通用しないので、余計でも何か言ってやりたくなる。いや、言わずにはおられない。
絹枝に一度、怒りの火が点けば一晩くらいでは消えない。寝て、目が覚めれば、早速に昨日の続きが始まる。
朝から、そんなに文句を言っていては、何より絹枝自身が面白くないだろうと思うのは、素人の浅はかさである。怒りこそ絹枝のエネルギーである。
庄治ですら朝から気分が悪い。絹枝が朝からガタガタ言った日は、指を切ったりすると言う。
娃子もそれこそ嫌な気分で仕事に行くが、職場の戸を開け、朝の挨拶をした時点で、気持ちを切り替えることが出来る。庄治にはそれが出来ない。だが、娃子は慢性的な下痢にも悩まされている。
一年のうち、体調のいい日は、数えるくらいしかない。
何だろう。
このところ、絵の会の空気がおかしい…。
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