オヤの名は

 健君が、東京から帰って来た…。


 娃子は初めて職安に行った。次の仕事を探さなくてはならない。とは言っても、どの職業、どの業種とかではなく、漠然と探すしかなかった。

 女性用の仕事欄を見ていると、印刷屋の募集があった。また、そこは絵の会の近くだった。先のクリーニング店も近かったが、それよりも近い。別に、絵の会に近くなくてもいいが、やはり、通勤に便利なところがいい。

 詩のサークルでも半年に1回くらいは詩集を発行している。出来れば、三月みつき毎にでも発行したいが、予算の関係でそうもいかない。

 ならば、今度は書き手から刷り屋をやってみるのもいいかなと思い、緊張しつつ面接を受けに行けば、意外とすんなり採用された。そこは、従業員10数名の活版印刷所だった。

 

 活火薬、羅針盤、活版印刷は、ルネサンス期の三大発明と言われている。

 活版印刷とは、活字を組み並べた版(組版)を使った印刷であり、印刷には大きくわけると4つの種類ある。

 版の種類によって凸版、平版、凹版、孔版にわけられ、活版印刷は凸版印刷の一つであり、凸版印刷には他に、鉛版や樹脂版、写真凸版などがあり、これらを総称して活版印刷と言うこともある。


 活版印刷の作業。

 文選ぶんせん  原稿に従って活字を拾っていく。

 植字しょくじ  拾った活字を配列し版を作る。普通は版組と言っている。

 印刷  その前に、ゲラ刷り校正がある。

 解版かいはん  印刷の終わった版を分解し、活字や罫線(ケイ)などを分け、元の状態に

     戻すこと。

 返版へんぱん  活字を元のケースに戻すこと。


 娃子の最初の仕事は解版だった。印刷の事は何も知らないのだから、ここから覚えて行かなければならない。一階は事務所と数台の印刷機。その印刷機も書類など大きなもの用と、主にハガキなどの小さなもの用の機械。そして、印刷用紙を裁断する、断裁機。

 洋裁は裁断だが、紙を切るのは断裁と言う。その断裁の歯はものすごく太く、大きく、鋭い。

 一枚の紙は吹けば飛ぶし、ひらひらと軽いがこの紙が重なれば重い。その重い紙束をどのように切るのかと言えば、上からスパッと、ギロチン方式である。ちょっと恐い気もするが、切り分けられた紙の断面を見ると、気持ちいいくらいにきれいである。

 そんな工場の片隅に男子ロッカー兼、解版場があった。

 先ずは、活字に着いたインクを落とし、版を縛ってある紐を解き、活字を大きさ(号数)毎に片手に入るくらいの仕切りの付いた箱に入れていく。ケイも長さ毎にまとめておく。そして、活字の間や行間には通称「コミ」が敷き詰められている。このコミは印刷されないので活字より背は低いが、これまた、活字の号数に沿った大きさ種類がある。普通、物は使っていくとすり減って行くが、コミは逆にわずかではあるが、埃などの付着物で大きくなって行く。そこで、号数毎の計算では合わなくなる時がある。版はきっちり組まなくては崩れてしまうので、間にブリキを小さく切った様な物や、時には紙を挟み込むこともある。それを取り除かなければならない。

 コミはコミ分類機に入れ、スイッチを押せばいい。少々、音はうるさいが、きちんと仕分けしてくれる賢い機械である。だが、コミ以外の異物が混入すれば、警告音が響く。仕分けが終わると、二階へ持って行く。

 二階は奥に活字ケースが並び、文選は2人。版組が4人。この会社は活版だけかと思ったら、平版もやっていた。そのスペースがあり、一段下がったロフトのようなところが、カーテンで仕切られた女子更衣室。

 だが、解版の仕事は難しくない。すぐに慣れたし、分解する版がない時もある。その時は二階に上がり、文選ではなく返版を手伝う。使った活字は元に戻さなければならない。文選の人も文字数の多い文面が続くと、中々活字を戻せない時がある。また、文選の仕事もいきなり活字を拾っていくのではなく、最初は返版から始める。そうして、文字の位置を覚えて行くのだ。

 活字は総数4万種以上あったと言われるが、普通の印刷では6000~7000種程度である。これを活字ケースに収め、ケース台に置く。活字の配列は部首別であり、書体は明朝体、ゴシック体、楷書体。

 文選も最初は大変である。いくら、部首別に並んでいるとは言え、そう簡単にわかるものではない。立ったりしゃがんだり腰を倒したり、何より、目を酷使し涙がぽろぽろ出て来る。

 たまに「枚取り」も手伝う。枚取りとは、ハガキなどの小物印刷では刷り上がると、紙が重なっていくのではなく、飛び出して来る。それを取って行くのを枚取りと言う。小物印刷を担っているのは、娃子より少し年上の既婚女性だった。印刷物が多い時は出て来る紙を取ってほしい。

   

「あんたは普通にやるねえ。事務のなんか、恐がってようせんのんよ」


 出て来る紙を手で受けるだけである。機械のリズムさえつかめれば、そんなに難しい作業でもない。また、製本と言うほどでないが、伝票などの糊付けは常務がやっている。こんな小さな印刷所でも、常務に部長が二人いる。 

 ある時、部長が印刷の終わった紙を二階に持って上がり、1枚ずつ10並びに重ねって行ってくれと言う。ものすごい量の紙なので、一人一回50枚ずつと割り当てられ、手の空いた者がやることなった。 

 台の上に50枚の紙が10束ずらした状態で置かれ、それを1枚ずつ取って行き、重ねて行く。みんな、面白くないだの間違えそうになるだの言いながらやっていた。娃子の番が回って来た。


「アイちゃんが、一番早かった」


 何と、版組のベテラン女性がそれぞれの時間を測っていたのだ。

 

 常務は物静かで真面目な人であるが、娃子より後に入って来たベテラン職人が即名前だけの部長になった。この業界も人の出入りが多い。その部長は常務が大人しいのをいいことに、自分の思うようにやり始める。


「わしの目の通さんもん、刷っちゃいけんぞ」


 この時には、常務もさすがに嫌な顔をしていた。常務はほとんどのものに目を通している。そして、もう一人の平版部長。まだ、30代の一見穏やかな感じの人であるが、娃子にはそれとなく嫌がらせを言って来る。

 結婚して子供がいる男たちには浮気願望がある。当時はまだ、浮気は男の甲斐性と言われていた。だからと言って、誰もが浮気をしている訳でも、出来る訳でもない。

 浮気が出来ない男は、その代わりに若いムスメたちに妄想を膨らます。このムスメらはどこまで経験があるか探りを入れて来る。その点、娃子には何もないだろうから、下ネタにならない程度のことを言い、その反応を楽しむ。

 それにしても、発想が貧困ある。もっと笑えるようなことを言えば、いや、日本の男にエスプリなど期待してはいけない。下ネタ、ダジャレがカッコいいと思っているような輩がほとんどなのだ。

 女性は年齢層も様々だが、どの女性もしっかりした自分と言うものを持っている。娃子と年の変わらない社長のムスメも版組をやっていた。そして、社長宅では、3人のムスメに毎朝、家の掃除をやらせていると言う。家を清潔にするのはいいことだが、掃除をしたからと言って精神修養になるとは限らないようだ。先ほどのベテラン女性が言っていた。


「あの娘、仕事は真面目にやるけど選り好みするし、やっぱり、一言多い」


 そして、給料日。以前のクリーニング店より、給料は良かったので期待していたが、いざ受け取ってみれば、それほど変わらなかった。上がった分だけ、何やかやで引かれてしまう。それが、この国の給与システムなのだ。


 娃子が入社して3カ月過ぎた頃、文選のベテラン女性と機械担当の男性が辞めた。この二人は実の兄妹である。そして、事務員が一人寿退社した。娃子は文選に回された。この頃には文字の場所もそこそこ覚えていたし、涙が出ることもなかった。その後、事務員も機械担当も補充されただけでなく、外回りも1人増えた。

 では、解版は誰がやっているのかと言えば、新しい機械担当の青年と常務が仕事の合間にこなし、たまに、娃子も手伝う。

 昼食は、文選場と版組台の間に簡易テーブルを出しての食事となる。食事が終われば男たちはどこかへ行き、残ったのは女ばかり5人。あれやこれやのよもやま話が始まる。その中に40代の子無し既婚女性がいた。姑も同居でさぞ大変だろうと思うが、何と、彼女の弁当は姑が作るのだと言う。


がおって、いいこと」


 と、冷やかされているが、ゆで卵がおいしいと言えば、毎日弁当に入れられると言う。


「いい加減もう、飽きたわ。うっかり、おいしいとか言われんのんよ」


 この人が一番話好きであるし、娃子のことも知っていて、やはり、黙ってはおられなかったのだろう。


「あんたぁ、貰いっ子じゃろ」

  

 と、娃子に言った。さすがに、これには他の女性たちもどん引きしていた。例え事実にせよ、こんなところで、それを言うとは…。


「そんなこと、ないよね」


 と言ったのは、文選のオバサンだった。そして、黙り込んだのは、平版の今年高校を卒業した女の子である。文選場の隅で、彼女の家族の他愛ない話を聞いた時、先ほどの話とはちょっと違うなと思った。


「うん、本当のオトウチャンはね」


 娃子はそれ以上聞かなかったし、そのことを誰にも話してない。世の中、色々な家庭があるのだ。なのに、この人はそれも人前で平気でしゃべるのだ。


「ほいでも、私はそう聞いたよ」


 なぜ、この人がそれを知っているのかと言えば、昔、庄治が隣の二号のオバサンに、娃子のことをしゃべり、一応口止めをして置いたがそんなものは空約束でしかない。オバサンは近くの花かつお工場に勤めていた。早速そのことを昼の茶のみ話にする。その頃、まだ若かったこの人がそこで働いていたと言う訳である。

 知ってしまえば、人に話したくて仕方ないのが人間である。


 帰宅した、娃子は今日職場で言われたことを、さらっと話してみた。


「誰が、そんなこと、言うたんない」


 一瞬、絹枝に睨み付けられた庄治であるが、当の本人は自分がしゃべったことすら、すっかり忘れている。絹枝もこの時は、まさか、自分の仕事仲間がそんなことをしゃべったりはすまいと、この時だけは他人を信用した。ならば、庄治しかいない。


「わしゃ、そんなこと、言うたことないぞ」


 と、とぼけるものの、只でさえ庄治は口が軽い。それでも、知らぬと言うものはどうしようもない。いや、庄治より、娃子だ。庄治の態度から、薄々何かを感じているに違いない。そして、事実を知った時、どう言う態度に出るだろうか。


「知ったら、泣く思うの」


 と、庄治は楽観的なことを言うが、何しろ、この、どしぶとい娃子のことだ。ジツのオヤでないと知ると、手の平を返すかもしれない。絹枝は気を引き締める。


----そうは、させんぞ!!


 娃子が事実を知ったら知ったで、絹枝も手の打ちようがあると言うものだ。ことによったら、義男の事だけでなく、娃子の今までののすべてを暴露してやる。そして、自分の前にひれ伏せされてやる!!



 娃子は今まで市役所など公共機関にほとんど行ったことがない。子供や若いムスメにとって、縁のないところである。ふと、一応、戸籍謄本とやらを見て見ようと思った。ここから市役所は近い。ある日の昼休み、市役所に行った。


 やっぱり、そうだったか。

 だが、感じるのと、こうして一枚の紙で見るのとは違う。それにしても、義男だったとは…。

 

 世の中、不思議なことは何もない。所詮は人間がやったことである。原因があって、結果がある。ただ、そこに、偶然が加わるとややこしくなるだけである。

 今回は単純明瞭なことではあるが、出来れば、知らない人の名前であってほしかった。だが、それもちょっと考えればわかることである。あの絹枝が、全くの赤の他人の子など引き受ける筈もない。

 おそらく、義男が再々婚の邪魔になったので、子のない絹枝に押し付けたのだろう。

 それにしても、義男だったとは…。

 そして、ハハオヤの名はスマ子。

 別の日の昼休みに、常務にちょっと用があるので、昼休みを長めにと頼んでみた。この常務は本当にいい人だ。

 そして、調べて行けば、同じ市内に住んでいた。 

 これは、もう笑うしかない。きっと、どこかですれ違っている。その時には、娃子の顔を見て、さぞかし、自分の顔をしかめたことだろう。いや、かもしれない。

 

「まあ ! あなた ! ゲンバクですか!!」


 と、バスの中で、素っ頓狂な声を張り上げたオバサンがいた。その声が妙に耳に残っている。この町に住んでいればどうしても、ゲンバクで顔に傷を負った女と思われてしまう。彼女たちとは歳も大きく違うし、その頃には、娃子は生まれてない。また、そんな赤ん坊がゲンバクを浴びたなら生きてないと思うのだが、そんなことはどうでもいい。人は何でも、手っ取り早くを求めたがるものだ。スマ子は再婚して男の子が一人いた。

 2時間。ここまで調べるのにかかった時間である。

 あまりに、あっけない。


 現実とはこんなものである。では、娃子は絹枝や庄治がジツのオヤでないと知っていながら、どうして、今までジツのオヤのことを知りたいとは思わなかったのだろうか。

 そんな、感傷に浸っている暇はない。それが絹枝と暮らすと言うことだ。

 一瞬たりとも気は抜けない。ある時、息せき切って帰って来たかと思えば、すぐにわめき出した。何に対して怒っているのかわからないままに、とにかく怒り狂い、娃子の文庫本を続けざまに破った。


「みんな ! わしの汗と脂じゃ!!」


 何か思い込んだら、どうにも抑えられない、その怒りの沸点は、その時の絹枝の感情でしかない。その時、気になったことは気になってどうしようもない。また、気に入らないものはどうにも気に入らない。


 気随、気儘、気まぐれが、誰も知らない絹枝の三大性格である。この性格の一端でも知ろうとすれば、最低でも半月は一緒に暮らさなければわからない。何より、外面、世間の評価が一番だから、数日くらいで本性を現すものか。 

 それが、絹枝である。

 絹枝と暮らさなければならない。それが、どれだけのものか。暮らした者でなければ、にわからない。

 そんな日常で、何がジツのオヤか。また、例え、それが誰か知ったとて、それが何になる。それで、何か変わるとでも。


「あの時は仕方なかった」


 と、双方のオヤから言われるのがオチだろう。それよりも、うっかり、口でも滑らそうものなら、絹枝の怒りの海に沈められてしまい、息ができない…。







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