短い、時…
東京には、空がない。
健君から、店に電話がかかって来た。ちょっと驚きもしたが、納得もした。
アトリエで久々の再会となった。
「東京は午後3時くらいになると、もう、薄暗いよ。夕方かと思った」
光化学スモックも発生している。高度経済成長と公害は並走していた。そんな暮らしぶりの話の後、健君はさらりと言った。
「芋羊羹、
買って来てよ !
実は、娃子は健君に一度手紙を出している。やはり、初めての一人暮らしは大変であり、時には寂しさを感じることもあるだろうと、同人誌や絵の会の近況など書いて出したのに、返事なし。さすがに、帰ったことくらい知らせなくてはと、電話をかけて来た…。いや、これも店の電話番号が5454と覚えやすく、覚えていたからに過ぎない。
普段の健君は、娃子が買い物袋を持っていると、すぐに中身を見たがる。
「なに、買うたん」
食べてもいいよと言えば「こっちがいい」と値段の高い方を食べる。また、去年の夏のことだが、娃子がスライスしたイチゴと練乳のサンドイッチの話をすれば、食べたいと言うので作って来ると、一口食べて健君は言った。
「生クリームなら、もっとおいしい」
あのなぁ…。
娃子が作ったのは、ケーキではなくサンドイッチだ。それでも、全部食べたから、まずくはなかったのだろう。まだ、温室栽培が普及してない頃、ショートケーキの上に載っているのは、砂糖漬けの甘ったるいイチゴでしかない。
さらに、そのイチゴサンドの話を看板職人にし、彼も食べたいと言ってる、また、作ってと来た。
そりゃ、話を聞けば食べたいと言うだろう。当時のイチゴはそんなに甘いものではなく、酸味があった。そこに甘い練乳をかければ、美味しいことこの上ない。それをサンドイッチにしたのだ。美味しさとボリュームのダブルサンドではないか。
また、出先で飲み物を買った時、小銭がないから「出しといて」とかとか。
だから、芋羊羹一つくらい買って来てくれてもいいんじゃない。
今年の同人誌の合宿は県北の民宿だった。
去年、女ばかりに炊事をやらせてとクレームがあったのか、男連中も少しは悪いと思ったのか知らないが、今年は食事作りに追われなくても済む。また、信子先生も参加するので、道中の汽車の中で、健君のあれやこれやを聞いて見た。
「大人の部分と子供の部分、両方持ってるね。お茶の温度にうるさいよ。温かったら、嫌な顔するし、お母さんが食卓に鍋のまま出すのが嫌だって」
そう言うだけあって、健君はちょっとした料理くらい作れる。だから、厳しい。そう言えば去年の合宿で娃子が食事作りをしているのを見て「ああ、出来るんだなと思った」とか言っていた。
「でも、あなたには遠慮がないみたいで、好き勝手やってるでしょ」
女二人の結論としては、この先、健君は「あなたのためなら、例え火の中水の中」なんて言わないだろうに落ち着いた。
汽車から降りて、改めて参加者を見てみれば、何と、女子高生が3人いた。同人の一人が高校教師であり、その部活の生徒だと言う。去年の女子大生も今は社会人となり二人が参加していた。
それから、川筋の道をかなり歩いて民宿にたどり着けば、川に、落ち鮎用の
川魚がメインの夕食で、鯉の刺身も出た。そして、夜になれば周囲は真っ暗。それでも、若者たちはじっとしていられない。暗い中、周辺を探索して回ったものだ。
「ハイ、オバチャン」
「ハイ、オジイチャン」
翌日の昼食時、去年の合宿先の息子が、一人の女子高生の前に皿を回しながら言えば、すかさず女子高生に一本取られてしまい、笑いが起きた。女子高生がオバチャンなら、30過ぎた男はオジイチャンでしかない。
それにしても、どうして男はすぐに女をオバチャン扱いをするのだろう。
楽しい時は短く、皆と別れて帰宅すれば、いつもの陰鬱な現実に引き戻される。それを振り払うかのように仕事に行き、陽子さんに合宿中の話をすれば、笑いながら聞いていた。
しばらくして、絵の会でも夏の水遊びに行くことになった。バスを降りて川沿いの道を登って行けば、途中に流れが滝状になったところがある。そこで、泳ぐことが出来る。
しばらくすると、飛び入り参加もやって来たが、彼らは水着を持ってなく、服のまま水に飛び込む者もいた。そして、娃子は気が付いた。一人の男が娃子のバスタオルを濡れたジーパンの上に巻いていた。
娃子はすぐに取り返そうとしたが、彼は気が付かないのか、そのまま岩に座り込んだり、また、水の中へ入ったりしていた。
当時のジーパンは濡れると色が出る。洗濯も他の物とは一緒に洗えない。きっと、バスタオルにもその色が付いてしまう。今年の夏のために買った黄色の水玉模様のバスタオルであるが、娃子の元に戻って来た時には、やはり、青い色が付いていた。これは落ちない。
バスタオルくらいと思うかもしれないが、娃子の給料のほとんどは絹枝に取り上げられている。
「わしゃ、使やあせん。貯めといてやるんじゃ」
と言われても、使えない金はないに等しい。
世には「独身貴族」と言う言葉が
呉服屋のムスメが、オヤから月にいくらもらっているのか知らないが、ある時、ちょっと洒落たワンピースを着ていた。
「それ、ハナエ・モリ?」
と、キム女が言った。
「違うよ。そんな高いもんじゃないよ」
その言葉は本当にしても、いい物には違いない。また、エリは給料の半分は貯金で後は使うと言っていた。
「これ、安かったんよ」
と、キム女と話していたのは、今着ているTシャツだった。その安い値段とは1980円。これで安いと言えるのだ。娃子などは980円のTシャツがやっとだと言うのに…。
キム女はパチンコ屋のムスメであり、大病院勤務の看護婦は男並みの給料をもらっている。
娃子も給料すべてを自分のものにしたい訳ではないが、もう少し欲しい。だから、夏のリクレーションのために日頃は節約している。バスタオル一枚でも、値段の割に見栄えのいいものを慎重に選んで買ったのに、青い色が付いてしまっては、もう、どこへも持って行けない。この次はまた、買わなければならない…。
余談だが、この年8月、ドラマ「水戸黄門」が始まった。
また、春や秋には弁当持ってスケッチに行く。娃子は食後にお茶を飲みたいから、携帯用の魔法瓶にお茶を入れて持って行くが、これが結構重い。
「あ、飲まして」
娃子がお茶を飲もうとした時、エリが言った。エリに魔法瓶を渡せば、次々と人に渡り、娃子の元に戻ってきた頃にはほんの少ししか残っていない。魔法瓶は重いから誰も持って来ない。誰か持って来るだろうから、それを飲めばいい。都合よく娃子が持って来た。
----おお、よう、持って来たのう。それで、えんじゃ。
代表の目がそう言っていた。また、ある時は
「まだまだ、じゃの」
確かに手際がいいとは言えないかもしれないが、みんな普通にやっているではないか。では、自分はどのくらい手際がいいのだろう。それなら手本を示してくれればいいものを、やりもしないで腕自慢をするかなあ。
これが、詩のサークルとなると違って来る。
「自然の中に来れば、人間なんてちっぽけなもんだよなあ」
と、必ず男子の誰かが同じようなことを言う。
そのちっぽけな人間がどれだけ自然を破壊してると思ってるんだ。自分はやってないとは言わさない。この時代に生きている者は一蓮托生なのだ。
四方を海に囲まれ風光明媚な国の筈なのに、今の状況はどうだろう。海際のほとんどは工場が占領し、天然の浜辺などわずかしか残ってない。
市内中心部から10キロほど離れた先にちょっと大きな川がある。その川を渡ると、そこからは別世界である。異様な臭いが充満し、気分が悪い。だが、その町に住んでいる人たちには、それがわからない。
「何が臭いんね」
その臭いに麻痺しているのだ。
公害列島日本。
なのに、みんな「ふるさと」の歌を好む。
今、この国のどこに、兎を追いかけたり、
また、この歌は
正男が毎年夏になると、子供を丸投げにするのも、この男に言わせれば「情操教育」なのだ。
「故郷て、あった方がええやろ」
それは違う。ここは正男にとって、故郷かもしれないが、子供たちにとっては単なるシンセキの家でしかない。それも、オヤの生家ならともかく、狭いだけの暗い家。それを故郷と思えるだろうか。また、他県の大学に行き、夏休みで帰って来れば、自分の散歩コースの途中の空き地に家が建っていた、それが面白くない。
自分は変わるが、故郷は変わってくれるなとは、勝手すぎないか。
今日も誰かがその歌を口ずさめば、連鎖的にみんなが歌いだす。歌わないのは娃子だけである。また、信じられないかもしれないが、忘年会ともなれば、たまに「軍歌」を歌う者がいる。それも、若者が歌うのだ。
娃子は、軍歌と「ヤットン節」は殺されても歌わない。
ヤットン節とは、酔っぱらった庄治が歌っていた「酒飲むな酒飲むなのご意見なれど…」の歌である。
秋になると、社員旅行で九州へ行った。陽子さんも一緒の楽しい旅だった。絹枝に日本手ぬぐいと饅頭の土産を買った。黙って受け取ったので、それでいいのだと思っていたが、またしてもやってくれた。娃子が買った民芸品にケチをつける。
「なあに、こんなもん、詰まるかい。もちっと、ええもん買うてこいや」
いつもの事である。いつもいつでも、娃子のすること成すことすべてに、ケチを付けずにはいらない絹枝である。
そうなのだ。楽しい時間はいつも、短い。
どうして、娃子はいつもこうなのだろう…。
何てこと。この店が閉鎖されることとなった。その予感がなかったわけではない。何より、仕事の効率が悪い。だが、今までそれでやって来た人達には、切り替えが出来ないのだ。
そして、最後のお別れ会が開かれた。その時、大きな風呂敷を持って来るように言われた。最後の記念品が、鎌倉彫の四段引き出しの小物入れ。だから、大きな風呂敷が必要だった。
給料は安いが仕事は楽であり、何より、陽子さんと一緒であることが大きかった
のに…。
峰子とのことがあって以来、娃子は同年代の女性とはうまく付き合えない。中には、仲良くなれそうな人もいたが、どうしても、娃子の方が「線」を引いてしまう。
ここまで、これ以上は…。
何と言っても、あの、あの峰子がそうだったのだ。だから、ここまで。そして、同年代の同性に悩みなど相談するものではない。それは自らの弱みをさらけ出すようなものである。その結果、峰子も、娃子をなめた。なめた結果が、アレ…。
だからと言って、歳の離れた女性なら誰でもいいと言う訳ではない。だが、陽子さんは、彼女は、娃子のよき理解者であった。
「意外と、大人ね」
とも、言ってくれたし、千円もらったこともある。何より、彼女は気づいた。
後に、電話で話した時に言った。
「あれ、本当のオカアサン?」
違うと言った。
「そうよね。いくら何でも、私ら、あんなことはよう言わんわ…」
実際は、もっとひどいのだが、少しでもわかってくれる人がいる。それだけでも、娃子は救われる思いだった。その後も、陽子さんは同人誌を買ってくれたり、詩のサークルの会合に参加してくれたりと、何かと、娃子を気遣ってくれた。
だが、現実は厳しい。次の仕事を探さなければならない。
そして、健君が帰って来た…。
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