不安とともに 三
その人は、節子さんと言った。陽子さんと同年代で幾分ぽっちゃりした明るい人だった。夫は単身赴任だが、週末には帰って来る。中学生の息子が一人、成績もよく思わせぶりに自慢していた。ただ、同じ敷地内に住む姑とはソリが合わない。
陽子さんとの積もる話を聞いていたが、息子自慢の後は、やはり、姑の悪口。これは女と女の永遠のテーマである。
さらに、その後は娃子の戸籍調べ。無難に答えて置いたが、そこは陽子さんが適当に話題を逸らしてくれた。
陽子さんにはかなりのところを話している。庄治の視姦と、つい先頃、絹枝を殺そうとしたこと以外は。
先ずは絹枝の娃子に対する口撃から。
「ふんっ、茶ババ」
この家にお茶を持ち込んだのは、娃子である。それまでは、庄治は酒、絹枝は白湯、娃子は水を飲んでいた。たまには麦茶やどこかでもらった缶入りミルク、ココアとかはあったが、湯飲みと急須も揃えれば、絹枝も茶を飲んだ。やはり、白湯よりお茶の方がいいようだ。今でも茶葉は娃子が買っている。
その娃子に対して、絹枝は茶ババと言う。若い娃子が茶ババと言われても何てことはないが、その話を聞いた陽子さんは苦笑いをしていた。
また、娃子が髪を長く伸ばしているのは、このヘアスタイルが一番安上がりだからである。前髪は自分で切る。夏にはアップにする。自作のリボンにUピンを付けたのを髪の結び目に差している。このアップスタイルは珍しく人から褒められる。それでも、髪があまりに長く伸びれば絹枝に切ってもらう。
これだけの事なのに、決して黙っていられないのが絹枝である。
「ふん、昔から髪の長いのは幽霊じゃ。幽霊、おゆう」
この時の陽子さんは顔をしかめていた。また、ある時、帰宅したばかりの娃子に言った。
「娃子、ナニ持って来い。ナニよナニ。それ、ナニよう」
これで、誰が何をわかると言うのだ。娃子はそのままにして置いたが、しばらくして、絹枝はそのナニを思い出したと言う次第である。陽子さんも、あれ、それ、これ、なになどの指示代名詞は日頃から使わないようにしていると言っていたが、この話には続きがある。
そのナニを思い出した絹枝は、娃子を睨み付けながら言ったものだ。
「これくらい、カンどれや。ナニ言うたら、ああ、これね言うくらいじゃのうて、つまるかい ! ああ、娃子はダメじゃ。若いのにこれくらいのことがカンどれんようじゃ。だめじゃ」
と、自分の物忘れを棚に上げて、娃子のせいにすることは忘れない。
その他にも色々あるが、それらのことを陽子さんはすべて節子さんに話したりはしない。もし、話していれば、それこそ面白がってさらに根掘り葉掘り聞いて来ることだろう。
また、節子さんは涙もろい。それを自分で言うのだ。少し、感激しただけで涙がぽろぽろこぼれてくると言う。義妹の結婚式の時、それこそ、感極まり涙があふれて来た。
「まあ、お義母さんは、さぞかし嬉しいことじゃろうねえと思うと、もう、涙が出て来て止まらんのんよ。それじゃに見たら、お義母さんは平気な顔しとんよ」
節子さんが泣きすぎるだけではないのか。
そんなある日、仕事が一段落ついた節子さんは、早速に不満そうに言ったものだ。
「まあ、昨日ねえ。私が息子を怒りょってもお義母さん、止めてくれんのんよ。あれはオネエサンに考えがあっての事じゃ言うてから」
それはその通りではないのだろうか。節子さんとて、むやみに息子を怒ったりはしないだろう。それとも、姑が止めてくれるのを見越して怒っているのだろうか。それなら、やり切りないのは息子である。
「そんなことないわいね。どこのオバアサンでも、マゴ怒りょったら止めるもんよ」
と、またも姑嫌い話が始まった。
女は同性に対して厳しい。節子さんにも姑はこうあるべきと言う「理想像」があり、その理想像にそぐわなければ、文句の一つや二つ言わずにはおれない。だが、これが、異性となれば違って来る。
男と女には、どうしても分かり合えない部分がある。体の構造からして違う。だが、同性である女は「自分と同じ」であり、常に自分の尺度で相手を見る。だが、異性である男は、それが夫であろうと息子であろうと、やはり違う。だから、少しくらいのことは許容できる。
特に、節子さんにはその傾向が強いようだ。そして、その矛先は娃子にも向けられた。
最初はにこやかに挨拶をし、好意的に接してくれた節子さんだったが、長く一緒にいるうちに、娃子の「化けの皮」が剝がれて来た。
娃子はどこへ行っても、先ずはゲッと言う目で見られる。そして、人は戸惑う。こんな子、どう扱えばいいのだろう。きっと、ひねくれているんじゃないだろうかと警戒するが、そうでもないとわかれば、お決まりの「素直な子」だと言う。素直であるとは誉め言葉だから、そう言って置けばいいのだが、中には過大評価をする人がいる。
こんな子が外に出で来るのは、心がものすごくきれいだからに違いないと、思い込んでしまう人がいる。そんな人はやがて見えて来る、娃子のちょっとした欠点すら許せない。それだけで、娃子が嫌いになってしまう。
----なあんじゃ。この程度か。ようも、自分の期待を裏切ってくれたな。
そうなると、今度は娃子のすること成すこと、すべて気に入らない。いや、裏切った分を取り返さずにはいられない。
陽子さんは敏感な人だから、さりげなく諫めたりしてくれたが、思い込みにとらわれやすい人にはそれも通じない。
しばらくすると、節子さんは年内で仕事を辞めると言い出した。これは別に、娃子が嫌いだからとかではなく、来年、息子は三年生になる。受験に向けての最良の環境作りをしてやりたいとのことだった。
そんなある日、節子さんは言った。
「うちの息子がねえ、陽子さんの事、案外冷たいんじゃねえ言うてから」
ハハオヤから、陽子さんの人となりを聞いていた息子にすれば、今まで仲良く仕事をして来た二人のうち、一人が辞めると言えば、どうして引き止めないのかと思ったようだ。陽子さんには、それがカチンと来たようだ。
これが、普通なら陽子さんとて引き止めただろう。だが、娃子に対する態度の変わり様をみれば、引き止める気にはならなかった。
「私も、人を見る目はあったつもりだけど…」
と、後に、陽子さんは言った。それは、節子さんだけではない。娃子は人に不快感を与えるだけでなく、その人の悪い面まで引き出してしまう。娃子さえいなければ、陽子さんも節子さんの嫌な面を見ないままに、辞める辞めないに関わらず、その後も仲良くしたことだろう。
そして、最後の日に二人からの餞別の品を渡した。少し前に傘が欲しいと言っていたので、それにした。
「まあ、派手なわいねえ」
買って来たのは、娃子だった。裾の部分が透明な赤い花模様の傘だった。
「いいじゃないの。傘だから少しくらい派手でも。若い
当然、その傘は持って帰った節子さんだったが、内心は喜んでいたと思う。これが地味で無難な感じの傘なら、素っ気なかったことだろう。
この年代の人たちは気の毒でもある。娘時代は戦争中で赤い色のものなど着たことがない。そして、世の中が落ち着いた頃にはオバサンと呼ばれ、思うようにおしゃれも出来ない。
陽子さんも娘と一緒に服を買いに行けば、どうしても母親と言うだけで、店員も地味なものを勧める。まだ、そんな時代だった。
娃子を勝手に過大評価し、当てが外れると態度を変えるのは、何も節子さんだけではない。
絵の会の代表もそうである。最初は気遣ってくれ、赤旗の日曜版を購読するくらいまでは良かった。だが、娃子も絵を描きだし、接する時間が長くなれば、ちょっとしたことでも嫌になって来る。そして、ご多分に漏れず、いや、元から皮肉屋であったのが、さらにグレードアップした。それも、娃子にだけ。それも人前ではやらない。最初は娃子が一人の時に限り、言葉の揚げ足取りの様な嫌味を言っていたのが、今ではちょっとしたことでも文句を言う。
健君の足は細い。特にジーパンではそれが強調される。あの足なら、簡単に折れそうねと、娃子が言った。
「不謹慎なことを言うもんじゃない !」
と、代表に怒られたことがある。娃子はそれ程に健君の足が細いと言う意味で言ったに過ぎないのだが、なぜか、気に障ったようだ。
ちょうどその頃、女子会員が増えた。その中に、エリと言うそこそこ美人の女子大生がいた。それから、代表の態度が変わった。
彼女はエリさんと呼ばれていた。後はすべて苗字に「さんや君付け」で呼ぶのになぜか、彼女だけはエリさんだった。おそらく、最初に代表がそう呼んだのだろう。
そのエリは、成人した「白子」だった。
色の黒い女は意地が悪い。色の白い女は身贔屓である。
娃子の同級生の白子は、その身贔屓さ故、娃子とは口も利かなかった。決して娃子には触らない、いじめたりはしない。やさしい
エリも白子と同じく、娃子とは必要以外直接、口を利かない。それをさり気なくやるのだ。本当にさり気なく。エリだけではなく、娃子を無視する女は他にもいた。いや、無視する方が多かった。
代表の一番のお気に入りと言うだけでなく、男たちのマドンナ的存在であり、それに引き換え、娃子は異物、ゴミでしかない。
そんな娃子でも、菓子などを持って行けば喜ばれる。
----そうでなくっちゃ。
とは言っても、たまに持って行く程度である。だが、少なくとも、娃子は持って行くが、誰かから何か貰ったことはない。たまたま、そういう場面に出くわさなかっただけかもしれないが、一度もない。
さらに、清楚なエリはタバコを吸う。別に、タバコを吸うのが悪いと言うつもりはないが、エリには似合わない。似合わなくても、タバコをふかす。
娃子が初めてタバコを吸ったのは、十九歳の時。サークル事務所に行くと、誰もいなかった。ふと見ると、机の上にタバコが置いてあった。好奇心で一本吸ってみた。狭い部屋に煙が太い
だが、タバコを吸う人は多い。彼らは娃子の様にムカムカしなかったのだろうか。
「やっぱり、最初はムカムカした」
と、言ったのは、毎日、絵の会にやって来る、看板職人だった。毎日来るだけあって、絵の会のあれこれをやってくれる気のいい男だが、女にもてるタイプではない。
「それでも、吸うようになったんじゃ」
では、あのエリはどうやってムカムカを克服したのだろうか。
だが、節子さんにしろ、代表にしろ、自分のいい人アピール時にはきっちり、娃子を利用する。
----それくらいしか、価値はない。
もっとも、そんな人は今までにもいたが、特に代表は辛らつだった。とは言っても絹枝に比べれば…。
誰も、娃子の不安など知る由もない。
そして、年が明けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます