不安とともに 一

 街には活気があった。戦後生まれの若者たちが闊歩かっぽしていた。世は高度成長期、ミニスカートが流行り出した。

 

 別に、今始まったことではないが、一年ほど前から絹枝の自画自賛が、さらにひどくなった。


「ああ、わしゃあ、ようやって来た。庄治を見捨てもせず、娃子に整形もしてやった。金も貯めた。わしゃ、えらいわ。ようやって来たわぁ」


 と、繰り返しのたまわった後は、娃子に向って言う。


「わしゃ、表彰されてもおかしゅうない」


 それも何度も聞いた。では、どうして表彰してくれないのか。絹枝にはそれが不思議でならない。この町で娃子のことを知らぬ者はいない。その娃子にここまでのことをしてやったのに、それも、その日暮らしの中、こうして懸命にやって来たと言うに、この世のどこに、自分の子でもない者にここまでしてやるオヤがいると言うのだ。

 小学校の時は校長室迄行ったが、なしつぶて。だが、その後もこうして善行を積み重ねて来た。それなのに、全くもって世間の目は節穴ではないか。だが、まだ諦めた訳ではない。そして今日も、やって来た銀行員に健気に熱弁を奮う絹枝だった。


「私は、この子にああもしてやりましたっ、こうもしてやりましたっ」


 銀行員も預金獲得のためには辛抱して聞くしかない。絹枝にして見れば、こんなものではない。まだまだ、語り足りないのに、金さえ受け取れば銀行員は帰って行く。

 そんなに表彰してほしければ、総理大臣とは言わないが、せめて市長のところへなりと、お得意のと言いたい。


「今の世の中は、おかしい ! 」


 なのに、突如として、見当違いのことを言う。


「髪染めるなぁ !」


 絹枝は白髪染めをしている。薬局に行き、一番安い白髪染めを買い自分で染めている。


「白髪があると、年寄りじゃ思うて人が雇わんけん、こうして染めるんじゃ」  


 それはわかる。だが、昨今は、白髪でもないのに髪染めをする若い女性もいる。おしゃれ染めとか言って、茶色にしている。それを絹枝は嫌う。そして、折に触れ、娃子に髪を染めるなと言う。

 だが、これ、おかしな話である。娃子は一度として髪を染めたいとか言ったことはない。第一、そんな金はない。この毛量の多い長い髪を染めれば、一体いくらかかると思っているのだ。なのに、どうして同じことを繰り返し言うのだ。


「言わんでも ! 」


 どうして、娃子はこうも素直でないのだろう。オヤが染めるなと言うのだから、そうね、そうするわと言えないのだろうか。絹枝が何か言えば、ああでもないこうでもないと言い返してくる。困ったものだ。それもこれも、娃子に感謝の念がないからである。これだけしてやっても何も言わないどころか、口ばっかり達者になって、子供の頃とは大違いである。

 そして、今日もまた鏡の前に座っている。それも一度座ると長い。絹枝にはこれが可笑しくてたまらない。何をその様に見とれるほどの顔か。だから、言ってやった。


「鏡ばっかり見て、お前、そんなに別嬪かあ」


 殺してやる !

 よくもよくも、そんなことが言えたものだ…。

 本当に殺してやろうと思ったが、殺さなかった。これは一重に、娃子の弱さでしかない。娃子はものすごい強さとものすごい弱さを併せ持っている。

 


 洋裁学校を3年で辞めたのは、少しは違う世界も知ってみたかったからである。今後の就職先として考えられるのは、先ずは洋裁店のお針子であるが、これは基本給もない完全歩合制なのだ。最初はそれこそ、雀の涙にも満たない。それを修業と思ってやればいいのかもしれないが、洋裁学校の生徒も近くの洋裁店や、中には住み込みで働いた女子もいたが、皆、短期間で辞めている。低賃金だけでなく、特に、住み込みはその食事のひどさ、量の少なさに耐えられなかったと言う。


「もう少しで、死によった…」


 まだ、昔の奉公人扱いをする雇い主もいた。しかし、戦後生まれの若者には、食べられるだけでいいと言う労働には耐えられない。彼女たちは洋裁学校へ舞い戻って来た。

 ちなみに、娃子より1年早く洋裁学校を辞めた美子だが、洋裁店で働こうと思い立ち、その時は満子に付いて行ってもらい、店主と話をした。


「うちはね、すぐに辞めてもろちゃあ、困るんよ」

「辞めません !」


 と言ったのはいいが、何と…。


「あの子も、私も頑張りますとか言やあええのに、自信たっぷりに辞めません言うてから、2日で辞めとんよ」


 と、満子も呆れていた。

 美子のことなどどうでもいいが、やはり、娃子も就職先を探していた。

 娃子は絵のサークルに寄った。実は、絵のサークルはすぐ近くに移っていた。いくら何でも狭すぎるのと、サークルの代表男性が離婚したので、二階建ての物置部屋の様なところを改造し、そこに、住居兼アトリエを構え、二階で子供たちに絵を教えていた。

 娃子も絵の会員とは交流があり、さらに、代表に勧められ、赤旗の日曜版を購読していた。これが結構面白いのだ。新聞は家に配達してもらうことも出来るが、このアトリエの方が何かと便利がいいので、娃子が取りに行くことにしていた。 

 この代表を皆、先生と呼んでいた。40代後半の酒好きな人だった。今日も娃子は新聞を取りにやって来た。そこで、何となく仕事を探していることを話した。


「洋裁が出来るんよのう」


 と、紹介されたのが、クリーニング店勤務の陽子さんだった。

 この陽子さんと言う女性。歳は40半ば、高校生の娘と中学生の息子がいる。夫は峰子の高校の教師。亡き父は教育長、母は元家庭裁判所の調停員と、娃子などに比べれば、それこそ立派な家の娘である。

 このクリーニング店も、戦後未亡人となった女性たちの働く場として作られたものであり、ここでは衣類の補修もやっていた。その補修ができる人が辞めたので、母親に乞われて陽子さんも働くようになったと言う次第である。

 陽子さんの他にもう一人いるが、長期に休んでいる。そこで、誰かいないかと探していた。娃子はここで働くことにした。また、一年ほど前から、中学の文芸部の顧問だった教師の所属する同人誌にも籍を置いていた。やはり、詩のサークルでは物足りない面があった。だが、この陽子さんも、別の同人誌で詩を書いている人である。

 彼女は物静かで落ち着いた感じの人だった。おそらく、今までの人生で、そんなに怒り狂うようなこともなく過ごし、これからもないだろう。それにしても、彼女とどこかで会ったような気もしていた。それは、すぐにわかった。

 彼女は菩薩のような顔立ちをしていた。このことは他の人からも言われるそうだ。神社仏閣へ行けば、陽子さんの顔が思い浮かぶと。

 世の中には、こんな顔立ちの人もいるのだ…。


 職場の半数以上は女性。男性はアイロン部が二人、プレス機が一人、運転手が二人。ほとんどがオヤコほど年の離れた人たちであり、事務に二人若いムスメがいた。

 補修作業の場所は少し離れた所にあり、陽子さんと二人だけの空間だったが、如何に、がそこに鎮座していようと、ここは俗世間の一角。色んな人間模様があった。

 先ずはアイロン部の男性の一人は妻子を捨てて、好きな女と暮らしている。これを快く思わないオバサンたちも多い。また、もう一人も不倫の現在形。それも、洗い専門の年上のオバサンと不倫している。これがどちらも至って普通のオジサンとちりちりパーマのオバサンである。さらに、このオジサン、近所からクリーニングの注文を受けて来ると、オバサンに洗ってもらい、自分でアイロン仕上げをする。これを、残業時にやるのだが、その時は残業代は付けないと言う。

 プレス機のオジサンは足が悪く、大人しい口下手の人であり、家でもムスコからバカにされているとか。

 一人、20代後半のシングルマザーがいた。年頃になり好きな人が出来、やがて、妊娠。だが、男には妻子がいた。悩んだ挙句、男とは別れ一人で子供を育てている。また、ここで働いている女性たちは、若くして未亡人になった人達だが、一口に未亡人と言っても、皆、それぞれの人生がある。

 それにしても「未亡人」とは、随分失礼な呼称である。まだ、亡くならない人と書く。夫は亡くなったのに、お前はまだ生きているのかと責められている様な言葉である。


 そんなある日、娃子はスケッチブックと4Bの鉛筆を買った。そして、急須とアイロンをスケッチした。形としては悪くないと思った。描いたからには絵のサークルの代表に見て貰おうと思った。 

  

「うーん」


 と言いながら、代表は急須に陰影を描き足してくれた。


「この方が立体感があるじゃろ」 

 

 確かにその通りである。絵は立体感が無くては…。 

 娃子も絵を描いてみようかと思った。どこまで立体感が出せるかわからないが、詩と絵には近いものがある。


 同人誌、詩のサークル、絵と、好きなことで忙しいと言えば聞こえはいいが、本当のところは不安だからである。

 何が不安。すべてが不安なのだ。だから、何かをしていなければ、誰かを好きになっていなければ、それらを言い訳にしなければ、不安で不安でたまらない。

 生まれた時から、不安だった。この体に染みついた不安をどうすることも出来ないままに生きて来た。いや、生きさせられたと言うべきか。

 そして今、さらなる不安に追い立てられている。この不安から逃れたいがために、生き急いでいると言っても過言ではない。

 この言い知れぬ、不安…。

 ならば、死ねよ。

 死ねば、死ねば、絹枝が伝説の聖母に仕立て上げられてしまう。それだけは、それだけは阻止しなければ…。



 そして、今年も、あの男がやって来た。

 例のニタニタ笑いとともに、孝子と博美を連れてやって来た。

 実は、この正男は子供の頃から絵が上手だったそうだ。絵描きになりたいとある画家のところへ行ったが、絵では生活が出来ないと言われ、それで諦めた経緯がある。その後、兵役、戦後の混乱期と思うように絵も描けなかったにしても、今こそ、好きな絵を描けばいいのにと思わずにはいられない。


「わしの顔、そっくりに描いとった」


 と、絹枝は言うが、今はスケッチ画すらない。

 正男の今の趣味は写真。関心の対象が絵から写真に移ったのはともかく、これが、どう見ても素人のスナップ写真でしかない。庭の花に手で水を散らし、それを、どアップで撮ったりと小手先のことばかりやっている。これが絵描きを目指したことのある男の写真とは。

 絵に対する情熱はいつ、失ってしまったのだろう。案外、絵では生活出来ないと言われた時からかもしれない。そんな腰砕け絵描きに、いい写真が撮れるはずもな

いが、当人は満足しているのだから、それで、ヨシと言うべきだろうが、今回だけはいい時に来てくれた。

 同人誌で夏の合宿が行われることになた。既に、娃子は参加の返事をしていたが、絹枝はそれこそ猛反対するだろう。その時は強行突破するつもりでいたが、やはり、中々言い出せないでいた。いよいよ、合宿が明日に迫った時、正男がやって来た。これを利用しない手はない。

 娃子は合宿の日程表を見せた。


「こんなんやったら、行かせたったらええんや」


 絹枝は渋い顔をしていたが、正男が言うので仕方なく了承した。正男にすれば、狭い家で、娃子の顔を見なくても済む。その方がずっと気分がいい。

 合宿先は市の外れにある同人仲間の実家。だが、バスにのって気が付いた。バスを降りてからの道順が怪しい…。

 そんな娃子の心配もすぐに消えた。市バスの中でも長距離路線である。本数も限られており、知った顔が次々とのって来た。

 その日の昼食は、少し茹で過ぎのそうめんだった。


「そうめんがこんなに増えるとは思わんかった」


 今までにもそうめんを茹でたことはあるが、今回は大量に茹でなければいけない。そこで大きな鍋を用意したが、やはりいつもと勝手が違う。暑い中、そうめんを茹でてくれた彼の奮闘ぶりが目に浮かぶようだった。そこへ、彼の弟がやって来た。


「何だ、お前、女性の前でその恰好は」


 弟は、上半身裸でそうめんを食べに来た。それにしても、昔の日本家屋風の大きな家だった。午後の便でやって来た人も合わせ10数名となり、初めて会う人もいた。


 

 


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