子供の時間

「わあ。こんなとこに居ったら、病気になるわ」


 着替えた絹枝は、早速に片づけを始める。それにしても、ほんの数か月しか経ってないと言うのに、ひどい有様だった。

 正男の離婚を一番喜んだのは絹枝である。


----ああ、これで、他人がおらんようになった。


 血のつながったアネとオトウトが一つ屋根の下で暮らす。そこには、かわいいオイもメイもいる。こんないいことはない。出来れば自分もこの一員に加わりたいが、そうもいかない…。

 ただ、気がかりなのは、正男である。一度倒れ、まだ、体にしびれが残っているところへ持って来て、目も悪く分厚いメガネをかけている。何より、あのおとなしい性格では秀子にいじめられているのではと、気になってならないが、こう離れていては、様子を伺い知ることも出来ない。

 そこで、暖かくなったら、行ってみようと思っていた。だが、こんな時に限って、長期の建設現場の仕事が舞い込んできた。何につけても、金は必要である。それにしても、娃子は薄情である。便りのないのは無事の証拠とばかりに知らん顔をしている。


 何かあれば、言って来る。秀子がそうだ。今まで、ハガキ一本よこしたこともないくせに、正男の離婚の裁判の時には来てほしいと、かな釘流の手紙を送って来たではないか。その時は、秀子の身勝手さを怒っていたことすら忘れたのか。今、正男の心配をしていたかと思えば突如として、娃子を怒鳴りつける。


 絹枝は洋裁以外の事では、娃子のすること成すこと、すべて気に入らない。いや、娃子そのものが気に入らないのだ。娃子こそ、自分を苦しめてきた張本人。洋裁は学校に通わせてやったのだから、縫えるようになって当たり前、ああ、今は、そんなことはどうでもいい。

 正男だけではない、まだ小さい博美のことも気になる。ハハオヤのいない子供が毎日どんな思いをしていることやら。それすら、娃子には思いやれないのだ。まあ、娃子の場合は、オヤがオヤだから…。

 やっと、仕事が一段落ついた。絹枝は矢も楯もたまらず、娃子を連れて行くことにした。今度ばかりは、娃子に少しは博美や孝子の面倒を見させてやらねば、それが、人としてのあるべき姿だ。そして、逸る思いで秀子宅に着けば、そこには、思いもよらぬ惨状が広がっていた。


 大体が秀子からして、だらしない。それでも、恒男が生きていた頃は、何とか家は片付いていたが、今はその歯止めも無くなり、物は積み上げられたまま。そして、正男宅の方は、孝子が片付けることを拒否している。あれもこれも出しっぱなしで、足の踏み場もない有様である。

 博美と孝子が学校から帰って来た。博美はすぐに絹枝の側にやって来たが、孝子は物を勝手に移動させたことを喜ぶ筈もなく、ムスッとしたまま立っていた。


----いらんことしやがって !


 そして、すぐに物は散らかって行く。孝子にすれば元に戻したに過ぎない。


「タカヨォ。少しはきれいにせえよ。ホレ、オネエチャンが服縫うて来たぞ」


 服と聞いて、孝子の表情は少し緩んだ。早速に着てみる二人だった。服の柄選びは、娃子に任せている。今回もかわいい柄だった。そして、今度は絹枝の番である。

 秀子宅へやって来る時は、当然新しいスーツを着て来る。柄は自分で選ぶ。それだけではない。別にもう一着、帰り用のスーツを持って来るのだが、先ずはその柄の良さを秀子に見せびらかす。


「良かろうが」


 そこへ、妙子がやって来た。


「まあ、ええ柄やこと。この前のもの良かったけど、これもまた、ええわ」


 と言いつつ、秀子をチラ見する。物欲にかけては右に出る者のいない秀子の腹の中は、さぞ煮えくり返っていることだろう。


「二人とも、いつまでも着てんと、早よ脱ぎや ! 」 

「まあ、タカヨちゃんも博美ちゃんも、着てから。ちょっとこっち来て、見せてえな」


 妙子もたまに、孝子をタカヨと呼ぶことがある。また、絹枝が着るものに不自由していた頃、秀子は知らん顔していた。


「着るもん無いんやったら、でも、貸してあげたらええのに。貸しもせんのやから…」


 と、妙子は呆れたものだが、そのツケが今、回って来た。

 正男の子にはあれこれ服を縫ってやっているが、秀子にはスカート一枚もない。あの頃、例え、服の一枚でも貸してやっていたら、絹枝のことだ、秀子にも何か縫ってやっただろうに…。

 その後、例によって、秀子と絹枝は夕飯の買い物に出かける。いつも秀子がロクな食事を用意しないものだから、つい、絹枝が食材を買う。今は、それが当たり前になっている。その時の秀子の機嫌のいいこと。


 娃子は孝子と博美に別に小物入れを作って来た。それを渡すついでに聞いて見た。ハハオヤがいた方がいいか、どうか。


「あんなん、居らんでええ」


 と、言ったのは、博美である。


「居った方がええんか、居らん方がええんか、ようわからん」


 と、今までは何を聞いても聞かれても、だんまりだったが、秀子に箒でどやされ、完敗した孝子である。そして、肝心の孝子の声であるが、想像通りアルトなのはともかく、孝子はその声を使い分ける。

 女は同性と相対するとき、一瞬で相手が上か下か判断する。娃子はいつでも下扱いされる。女に限らず、男でも、どうしようもない下の下の下以下の扱いでしかない。

 それは、子供と言えど同じである。孝子も、娃子に対しての物言いは上から目線であり、その声すら変わる。


----何で、お前なんかに、ええ方の声でもの言うたらなあかんねん。


 無論、ここに、他の大人がいれば普通の声だが、今はいない。ならば、こっちの気だるいドスの聞いた方の声を発する。

 それにしても、小学一年生の博美が居らんでええと言い、四年生の孝子にしてみれば、居れば居たでハハとオバはいつも揉め、居なければ居ないで自分たちは秀子から怒られるので、どっちもどっち。

 その後、この家で嘉子の話が出ることはなかった。別に、避けているとかではなく、既に居ない者認定されている。 


「オバァ。オネエチャンにこれ、貰うた」


 と、博美は秀子に小物入れを見せる。正男の三人の子たちは、秀子のことを「オバ」と呼ぶ。オバチャンでもオバサンでもなく、オバと呼ぶ。


「人の前ではオバと言いなさい」


 と、秀子は言ったのだが、それがそのまま呼び名になったようだ。だが、絹枝にはこれが不満である。なぜなら、絹枝に対してもオバ呼びするからである。出来ればオバチャンと呼んでほしい。特に女の子はその方がかわいらしいと思うのに、秀子はロクなことを教えない。

 夕食が終わると、さすがに絹枝は正男に言った。


「正男、お前も少しは家ん中、きれいにせえや。こんなとこ居ったら病気になるで」


 正男も都合が悪くなると黙ってしまう。


「休みの日ぃはなぁ。テレビばっかり見てるわ。目ぇが悪いのに」


 当時はまだ、テレビを見ると目が悪くなると思っている人も少なからずいた。庄治も白黒テレビからカラーテレビに買い替える時に言った。


「お前、カラーは目が悪うなる言うぞ」


 だが、実際にカラーテレビがやって来ると、その色の良さにすっかりハマってしまっている。


「タカヨ、来てみい」


 そんなテレビの話より、絹枝は孝子を正男宅の方に連れて行き、掃除の仕方を教え始める。例によって、孝子はムスッとしたまま、やりたくもない掃除をやらされることとなった。

 娃子はすぐに咳き込んだ。小さな蛍光灯が一つの暗い部屋には見えないほこりが舞い上がっているのだ。娃子は埃には弱い。たまらず、秀子の部屋へ戻るが、こことて少し歩けば、足の裏が白くなる。それでも、埃が舞い立つほどではないが、もう、ここはゴミ屋敷、埃屋敷と化している。


 翌日、娃子と絹枝は妙子から驚くような話を聞く。

 正男の離婚後、程なくして孝子の運動会があった。何と、その運動会に行ったのは、正男ではなく妙子だと言う。

 帰宅して台所で夕飯の支度をしていた時だった。玄関の方で、何やらしわがれた声がする。出てみれば、息を切らした秀子がいた。


「妙ちゃん。孝子の運動会、行ってくれた、そやな。おおきに…」


 と、荒い息でそれだけ言うと、手すりを掴み階段を降り始めたが、そのあまりの危なっかしさに、秀子が降り切るまで見ていた妙子だった。

 

「もう、長いこと、ここに居るけど、あの人から礼言われたん、初めてやわ」


 何かあれば、すぐに呼び付けられ、使われるだけ使われ、ばら寿司の一皿すら、受け取ったこともなく、礼の言葉など皆無だったが、さすがに孝子の運動会ともなれば、黙って済ますことは出来なかったようだ。 

 では、正男はムスメの運動会になぜ行ってやらなかったのだろう。秀子が行くものと思ったのか。正男にしてみれば、今まで嘉子がやっていたことが、秀子に移った。金も全部渡してある。その秀子が行けと言わなかったから行かなかった。そんなところだろう。

 それにしても、秀子にとって、この階段を上ることがそんなに大変とは。言われてみれば、夏でもないのに少し歩けば汗をかき「しんどーしんどー」と言う。


 いつもの様に、後ろ髪引かれる思いで帰宅した絹枝は、早速に庄治に秀子の不満をぶつける。


「のっ。キュウリなら、にでもしてやりぁええのに」


 キュウリのあんかけ?

 何だ、それは。第一、絹枝があんかけなるものを作ったことは一度たりともない。

 話は、秀子がキュウリとを炒めた。キュウリは生で食べるもの思っていた娃子だが、その時、キュウリに火を通すのも悪くないと思った。絹枝にはそれが気に入らなかったようだ。

 それにしても、突如として、あんかけとは。おそらく、仕事仲間の誰かがあんかけを作った話をしたのだろう。例によって、インプットされた言葉を使いたくて仕方のない絹枝の、今度の相手は庄治だった。これまた、庄治もあんかけがどの様なものかわかってないが、話相手がいるだけでいい。


 そんな庄治がある日、ちょっとした交通事故にあう。バックしてきた車と接触し、尻もちをついてしまった。運転手はすぐに降りてきたが、庄治は自分で立ち上がった。


「いや、大丈夫じゃけん。もし、何かあったら、自分で病院に行く」


 庄治も日雇い保険証を持っている。当時は初診料さえ払えば良かった。それで、庄治は帰宅したのだが、相手方が放って置く筈もない。また、その相手とは、コカコーラ社だっだ。とりあえず社員二人がコーラを持ってやって来た。


「あの、病院へは」

「そんなこと、してもらわいでもええわい」


 と、庄治は固辞していたが、そこは有名な大企業。ハイそうですかと引き下がるわけには行かず、押し問答のような感じになるも、庄治はひたすら付けて言ったものだ。


「大っ嫌いじゃ ! 大っ嫌いじゃ! 」


 庄治にすれば、自分はそんな欲の皮の突っ張った人間ではないとアピールしたかっただけであるが、あまりに固辞するので、仕方なくその時はコーラを持ち帰った。

 その様子を見ていた近所のオバサンがわけを聞いていた。


「まったっ、オジサンも、やる言うもん貰ときゃええじゃない」

「大っ嫌いじゃ ! 」


 次にやって来た時には、ファンタグレープを持って来た。若い社員たちはどうやら、この年寄りはコーラが嫌いなのだと思ったらしく、そこで、ファンタの出番となったのだが、庄治にすればこれがビールなら、ホイホイと受け取ったことだろう。


----どうせなら、ピール会社の車に当たりゃよかった。


 また、運転手も菓子折りを持参していた。この時は絹枝もいたのでどちらも受け取り、一応病院に行き、休業補償もするとの話となり、庄治は大手を振って仕事を休むことが出来た。さらに、この運転手。その後も菓子折りを持って来てくれたりと、こっちが恐縮するくらい、至れり尽くせりだった。


「オニイチャン、もう、ええよ。大したケガでもないのに」


 そんな頃に、ニタニタ笑いの正男が三人の子を連れてやって来た。夏休みだから、来るだろうと思っていたが、例によって手ぶら。絹枝は子供たちにファンタを飲みたいだけ飲ませた。智男などは時には2本続けて飲むこともあった。

 正男は三、四日で帰り、中学生の智男も取り立てて面白いところでもないので、しばらくして一人で帰った。その後、孝子と博美は二週間程滞在した。

 ちょうどその頃、書類を持ったコカ・コーラ社の上司がやって来た。その時は大きな菓子折りを持参していた。何と、この上司は元刑事。それも交通事故で足に障害が残った。相手は無免許の少年。慰謝料が取れる筈もなく、この足では警察の仕事は出来ないとコカコーラ社に転職したと言う次第だった。


 そして、絹枝が孝子と博美を連れて大阪へ連れ帰るが、正男、智男、そして、二人のメイの帰りの汽車賃もすべて絹枝持ちである。


「智男に靴、うちゃったんじゃが」

「いや、知らん。何も聞いてへん」


 絹枝宅にやって来た時、智男は擦り切れたズック靴を履いていた。それをかわいそうに思い、絹枝は靴を買ってやった。その靴で海水浴に行き、帰る時、智男は砂の付いた足でかかとを踏み、靴を履こうとしていた。


「智男、足をきれいにしてから、ちゃんと履け」

----新しいもんを大事にせんのう。


 その時、智男が帰宅した。


「智男っ。買うて貰ろたんなら、買うて貰ろた言いや。オバかて話の仕様があるやないか」


 智男は、チラと顔を向けただけで、そのまま家に入った。


「正男も心の中じゃ思うとんかもしれんが、なんも言わんのう」


 正男が金を催促することはないが、出されたものは黙って食べ、出された金は黙って受け取る。オヤがそんなだから、子供たちも同じように黙って受け取る。


「いつも、済まんのう」

「オバチャン、ありがとう! 」


 と、絹枝はねぎらいの言葉、感謝の言葉を期待している。だが、そんな感傷もすくに吹き飛んでしまう。その夜、風呂上りに二人のメイが飲んでいたのは、冷蔵庫の水だった。


----かわいそうに、うちじゃあ、ファンタ飲ませちゃったんじゃに。


 だが、このファンタ。その後、とんでもない展開を迎える。

 現代でも食品添加物はいろいろと問題になるが、当時は野放し状態であり、ありとあらゆる食品に着色料が使われていた。その代表的なものが、たらこ、梅干し等、総菜屋や弁当の蕗の煮つけも緑色をしていた。また、肉には発色剤。そんな中、特に、テレビでコマーシャル流しているファンタはやり玉に挙げられた。

 ファンタにはオレンジとグレープがあり、そのどちらも白い毛糸がきれいに染まる程の着色料が使用されていたことが問題視され、その後、ファンタは店頭から消えたが、数か月後、色の薄くなったファンタが販売された。やはり売れなかった。そして、完全にその姿を消す。


 娃子は、洋裁学校を三年で辞めた。







 





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