忠実なる忘却 三 

「和裁は手縫いじゃけど、洋裁はミシンで縫うのに、何で、あんなに仕立て代が高いんかしら」


 よく耳にする、投げかけられる言葉である。要は、和裁は丹念に一針ずつ縫って行くけど、洋裁はミシンでジャーとやればいいだけのことと、和裁に比べて洋裁はランク下の扱いをされる。


----私でもミシンくらい使えるわ。


 一つには、テレビドラマの影響もある。ドラマで洋裁のシーンと言えば、ひたすらミシンを踏んでいる。それも、真っすぐ。ある時などは延々とミシンを踏み、やっと終わったと思ったら、側の女のセリフが「いい腕してるわねえ」

 これはもう、バカとしか言いようがない。ミシンをかけただけで、腕の良し悪しがわかるなら、誰が高い金出して学校に通うか。

 これはドラマだからと言ってしまえばそれまでだが、洋裁に限らず他の職業でもそうだろうと思う。所詮は上っ面のそれも一端しか描いてないのだ。だが、多くの視聴者はそれを信じる。ミシンを踏むシーンばかり見せられていると、洋服はミシンを踏みさえすれば出来るのだと。また、ミシンとは例え、直線縫いにしてもそんなに延々とかけ続けられるものではない。かと思えば、悩みながら作業をしていて、ミシンで手を縫うとか、針で指を突く、糸きり鋏で指を切ってしまうとか、これもないから。

 

「そりゃ、若くて悩みがないからよ」


 悩みの片手間に出来る仕事など無い。いくら、悩みがあったとて、その度に手を切ったり突いたりしてはそれこそ、何も出来ない、しない方がいい。それでも、事故やケガは起きる。そのほとんどは、油断からである。 

 また、ある有名作家の小説の中の、お針子の場面の描写もすごかった。


「その部屋に近づけば、うるさいほどミシンの音がして『さあ、出来たわ』(注・要約)」

 

 おいおい、ミシンをかけ終われば、ハイ出来上がりなものなど、雑巾かカーテンくらいである。それに、数人のお針子部屋でそんなにミシンの音がうるさいとすれば、30人近い洋裁学校ではうるさくてやってられない。また、洋裁学校のミシンは一人1台とかではなく6・7台のミシンで間に合う。縫製工場ではないのだ。


 洋服の仕立てでミシンをかけるところと言えば、えり、脇、袖、背縫いなど、目に見える部分と、ボタンホールとポケットの中くらい。要は、ミシンとは、布と布を繋ぎ合わせるためのマシンであり、後はすべて、手縫い、手作業である。 

 手縫いの多くは「まつる」と言う。スカートの裾はまつるが、袖の裏地は縦まつり、上着の裾は千鳥掛け、裏地は奥まつりをする。既製服はこれらをすべてミシンでやり「どんでん返し」と言う手法で仕上げる。


 和裁の、単衣、あわせ、羽織等はほとんど決まった縫い方だが、洋裁はそれぞれに型が違う。

 ゆえに、洋裁の基本は製図である。製図の通りに縫うのだから、製図がきちんと引けなければ仕上がりもおかしなものになってしまう。また、製図の前の採寸もメジャーでただ測ればいいと言うものではない。

 単に太っていると言っても、人によって脂肪の付き方が違う。どの当りに脂肪が付いているかによって、製図の引き方も違って来る。さらに、ウエスト(腹回り)を測る時、つい、腹をへこませる人がいる。こんな時は話しかける。そして、腹が緩んだ隙に測る。これが瘦せて骨ばった人の場合は、骨が目立たないようなデザインを勧める。

 不思議なことに、太っている人は明るい柄物や、フリルが付いたりフレアースカートなど、太って見えるデザインを好む。逆に痩せている人は単色が多く、テーラーカラーのブラウスやタイトスカートなど、細さを強調するようなデザインを好む。

 なぜか…。


 製図の後は裁断である。この裁断も重要である。生地を中表に真っすぐ半分に折り、型紙を載せていく。無地の場合ならともかく、柄物、チェック、ストライプなど、また、冬物には布地に毛並みがあったりする。すべてを考慮して裁断しなければならない。

 裁断が終われば、和裁は印付けをヘラでやるが、洋裁は糸で「」をする。

 切りじつけとは、仕付け糸で型紙の周囲、ボタンやポケットの位置を大きく縫って行き、縫い目の間を切り、型紙を外し、重なった布と布の間の糸を切る。この時、気をつけなければいけないのが、特に薄物の場合、うっかり布地を切ってしまうことがある。筍の皮のようになってしまうところから「タケノコ」と言われ、さらに、上面の糸の余分な部分も切って行く。 

 そして、仮縫いの準備となるのだが、仕付け糸で抑え縫いをして行き、襟は芯で代用する。袖は袖山に「いせ込み(軽いギャザー)」を入れ、膨らんだ形を作って置く。身頃を着せてから、袖を待ち針で止めて行くが、最初から袖が付いていることもある。


 この仮縫いの時にも、早々に注文を付ける人がいる。まだ、着せてる最中なのだから、先ずは動かないでほしい。最初の頃、峰子もそれをやってくれた。動かないでと言っているのに、ここをもう少しどうのこうのと言って動くものだから、まち針で指を突いてしまったことがある。


 仮縫いが終われば、先ずは製図上で訂正をする。訂正箇所が少ない場合は楽だが、あまりに多いと最初から切りじつけをやり直すこともある。

 そして、裏地の裁断、襟、見返し、ボタンホールやポケット、スカートのベルト部分等、これらを小物裁ちと言う。ちなみに、裏地は外表で裁断する。印付けはチャコペーパーをはさみルレットで型紙のラインを引いて行く。さらに、前身頃に芯を張り、縫う部分にしつけをし、やっと、ミシンにたどり着く。また、何度もミシンの前に座るのは下手である。縫えるところは一気に縫う。


 ミシンかけが終われば、仕付け糸を取り、アイロンをかける。縫い代は割るか倒すかである。最後にボタン付け、スカートならホック付けをする。これだけの作業の結果、仕上がるのである。


 和裁も衿付けが難しいが、洋裁も、合い物ともなれば、裏襟に芯を張り「」をする。文字通り、ハの字に襟一面に、それも中心から両方向に糸を刺していく。テーラーカラーの場合は、身頃の倒れる部分にもハ刺しをする。既製服では不織芯を張り、ミシンで何周かして終わり。 


 この程度の説明ではわからない?

 とにかく、洋裁とは生地とデザインが多種多様であり、作業工程もそれぞれに異なり、ミシンにたどり着くまで、かけ終わった後の手作業の方が大変なのだ。決して、ミシンが仕上げてくれる訳ではない。だが、ここまではほんの基本に過ぎない。


 洋裁の仕立て代の高いことが頭に来て、それならばと自分も洋裁学校に通い始めた女子の話だが、覚えることのあまりの多さに驚いて言ったそうだ。


「スカート1枚縫うのが、こんなに大変だったなんて…」 


 また、これもよく耳にする言葉である。


「人のもんを縫おうとは思わんけど、自分の着るもんが縫えりゃええんよ」   


 いや、人のものも自分のものも同じである。



 さて、肝心の美子だが、何が下手かと言えば、すべて下手なのだ。特に、上着の上前の上部分が。当時はベストスーツが流行っていた。チョッキ(ベスト)とスカートだが、そのチョッキのちょうど胸元の一番目につきやすいところが同じくガタついている。別に縫い目が曲がっているとかではなく、仕上がりがおかしいのだ。当の美子はそのことを気にすることもなく、平気で着ている。また、次に縫ったものも同じくガタ付いている。

 みんな、これを不思議がっているが、当人は何ともないらしい。満子と何でだろうと話あったことがある。上前であろうと、どこであろうと、みんなきれいに仕上げようとしているのに…。


「あれねえ、アイロンがぬるいんだと思うよ。やはりねえ、ある程度の温度でジュッと言わせるくらいじゃないと」


 ある時、満子が言った。そうかもしれないと思った。生地によってアイロンの温度も違って来るが、どちらにしても、アイロンで形を整えるのだから、慎重にやるしかない。そう言えば、あの洋裁店では重いアイロンを使っていた。

 その後、アイロンかけで美子と一緒になった。ちょうど、上前の見返し部分の縫い代を倒すところだった。見れば刷毛はけで水をたっぷりつけている。これでは温度も下がる。さらに、小刻みにアイロンを動かしている。

 そこは、もっと、しっかり押さえた方がいいのにと思ったが、うっかりしたことは言えない。すでに、みんな一通り縫えるのだ。聞かれもしないことは言わない方がいい。


 ちなみに、アイロン台には、平面用と丸い形の「マンジュウ」台付きの「ウマ」袖用の「ソデマン」がある。マンジュウとは、主に襟や襟ぐりに、ウマはスカートやズボンの脇線に使用する。ちなみに、高級生地のベルベットは専用のアイロン台が必要である。それでなければ、アイロン跡がついてしまう。

 

 そして、次に美子と一緒になった時はスカートだったが、はっきり言って、ダメである。もう、全体的にアイロンかけが甘い。スカートの脇縫いですら、きちんと割れてない。

 そうなのだ。洋裁とはミシンだけでなく、アイロンかけも重要である。また、美子はミシンすら遅い。いつも、ゆっくりゆっくり踏んでいる。さらに、製図も…。


 この製図も最初はみんな四苦八苦する。ノートには縮尺分の製図を書くが、いざ、原寸大の製図となると、中々思う様には描けない。講師のように、襟ぐりや袖のカーブなど、早く一筆描き出来るようになりたいと思ったものだ。

 娃子は本科生の秋頃には、きれいに製図が引けるようになっていた。今では一筆描きも出来る。美子も襟や袖のラインを描けるようになってはいるが、鉛筆を小刻みに動かしながら、やっとの状態である。まだ、満子の方がなめらかに描く。


 洋裁学校には主婦もやって来る。月謝さえ払えば誰でも、好きな時に好きなだけ通える。そんな主婦たちは、例外なく製図が引けない。

 「装苑」や「ドレスメーキング」と言ったスタイル雑誌の巻末には製図が掲載されているが、それを原寸化出来ないのだ。満子が小学生の妹のワンピースを縫った。それを見た近所の主婦から、型紙を貸してほしいと言われたそうだ。


「若い頃、習ったんだけど、今とは違うから」


 と言った、40歳前後の主婦がいた。満子と顔を見合わせながら、そんなに違うかしらと言ったものだ。


「基本は変わらないと思うよ」


 娘時代に、花嫁修業の一環として洋裁学校に通ったが、結婚後は洋裁などほとんどしなかった。本当は忘れてしまったのだが、そんなことは言えない、言いたくない。

 娃子は、いずれ美子も、ああなるのではと言った。


「ああ、そうねぇ」


 そんな美子と、娃子の違いが峰子にわかるだろうか。娃子の腕が特別いいと言う訳ではなく、美子が下手なのだ。

 分高卒をバカにされ、結婚は見合いしか考えてないことを見下されているとも知らず、すっかり峰子に「心酔」している美子のことだ、娃子と違って只で縫ってあげると言ったのかもしれない。おそらく、仮縫いも仕上がりも美子の方から出向いて行ったことだろう。 

 それなら、文句は言えない。いや、峰子にすれば、さぞ、笑いが止まらないことだろう。いつでも、自分の味方であり、何でも、自分の思うように動いてくれる貴重なパシリなのだから。ああ、それが、本校と分校の力関係…。


 と、美子の悪い点ばかり取り上げたが、誰にもミスはある。

 娃子も一度やらかした。峰子の裏無しのブレザーだったが、綿ピケのちょっと裏表がわかりにくい生地ではあったが、まさかのことが起きた。

 ボタンホールを仕上げた後で気が付いた。裏表を間違えてしまった。前身頃分の布地が残っている筈もなく、最悪の場合、その部分だけでも布を購入しなければならない。だが、白地に薄茶色のストライプ柄と、また、綿ピケであることが幸いした。

 その部分の縦じまをきちんと合わせて縫い、アイロンでピシッと縫い代を割り、下前だから、いいだろうと眺めていると、院長先生が言っ。


「それなら、上前でもわからないわ」


 また、ある女子がラグラン袖のコートを縫った。


「ちょっと見て。何か、おかしんよ」


 と、コートを羽織った。確かに、ダボッとしている。娃子は、ここにダーツがあればいいねと袖ぐりから胸に伸びるラインを指して言った。彼女はすぐに「あっ」と言った。

 何と、ダーツを縫わずに仕上げてしまったのだ。仕付け糸は主に生成りを使うが、柄や色によっては見えにくい時がある。そんな時のための青色と黄色もあるが、いつもの様に生成りを使った。もこっとした冬用の柄物だったところから、つい、見落としてしまったようだ。また、ラグラン袖なので生地が伸びやすい。そこでそのまま縫ってしまったと言う訳だ。ちなみに、裏地はダーツを縫っていた。彼女は急ぎ、縫い直しにかかった。


 また、当時は洋裁を教える塾のようなところもあり、峰子もしばらくそこに通っていた。ある時、峰子の家で仮縫いをした。仮縫いが終わり、峰子は襟の部分を見ていた。

  

「ちょっと、違うね」


 何が違うのだろうかと思っていると、自分の製図ノートを出して来た。


「ここって、こうじゃない」 


 と、開いたノートのテーラーカラーの製図を見た時、これはダメだと思った。どんなに丸い襟でも、襟の中心から先ずは直角に線を引く。そこから、丸みやカーブ線を描いて行くのだが、峰子は最初から独特のラインを引いていた。

 自分の習ったのと違う。それが正しいと思っている。いや、講師はきちんと説明した筈である。それを何となく描いてしまった。そんなところだろうが、もし、この製図の通りに原寸化すれば、妙な形の襟が出来上がってしまう。

 娃子は別に、製図の巧拙を言っているのではない。峰子の頭なら、洋裁の製図の重要さが、理解出来るだろうと思っていた。

 それが、わかってない…。


 満子が言っていた。縮尺分の製図でしっかり描いて置かなければ、自信をもって教えられない。黒板にはチョークで原寸大の製図を描くのだ。


 もっとも、この話も峰子はとっくに忘れている。


 そんな、娃子もいつの間にか、忘れていた。

 峰子の誕生日、いつだったかな。5月の末ぐらいは覚えているが、日にちが思い出せない。

 

 峰子は、娃子の誕生日そのものを忘れている。


 忽忘こつぼうの人…。





   





















 



 

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