忠実なる忘却 二
ああ、そうだった…。
絹枝と峰子は、三回り違いの同じ干支だったのだ。
そうなのだ。娃子の同級生の六分の五は、絹枝と同じ干支なのだ。思えば、好まざるままに、この干支に付き合わされて来たと言う訳か…。
ついでに言えば、絹枝が二年通った小学校も同じで峰子の先輩に当たる。そう、絹枝はあのガラの悪い地区のすぐ側で生まれ育ったのだ。
そこのところを少しは考えて、向かい合うべきだったのか…。
手紙の内容は、先ず、娃子に結婚のことを言わなかったのは、こだわりがあったからだそうだ。それなのに、美子には、謝っても許してくれない、娃子がいつまでもこだわっていると言っていたではないか。自分の方がこだわっておきながら、いつの間に被害者面するような人間になったのだろう。
娃子は、謝れとも謝ってほしいとも言ってはない。また、謝ってもらったこともないが、手紙には「ごめんなさい」とあった。今さら、どうでもいいことだが、これが謝ると言うことではないのか。
人間には忘却能力があるようだ。例え、ノーベル賞級に頭のいい人でも、記憶力はそれ程問われない。ほとんどのことは忘れた、覚えてないで済む。
「あの時、私は何と言ったのでしょうね」
バスの中で、娃子が峰子の結婚に触れた時の事を覚えてないだと。
「まあ、そんなあ」
と言ったことを忘れている。そして、あの心にもない言葉も、ああ、もう、みんなみんな、忘れている。
その前に、娃子の誕生日を忘れている。また、式当日、峰子の祖母が言ったらしい。
「峰ちゃん、あんたの友達は来んのんか」
峰子にしてみれば、こんな大事な時に余計なことをと言う思いでしかなかったことだろう。また、この話も祖母がそう言ったではなく、言ったような気がする。つまり、よく覚えてない…。
初めて峰子の家に行った中学生の時、祖母は庭の隅の小さな小屋のようなところで暮らしていた。その後、少し離れた場所に家を新築したのだが、その家に祖母の姿はなかった。以前の家が借家か持ち家か知らないが、どうやら、そのままそこに住んでいるらしかった。その後、峰子から祖母の話を聞くことはなかったが、さすがにマゴの結婚式に出席させないわけにはいかなかったようだ。
さらに、嘆き節は続いた。最低の嫁入り支度だったそうだが、最低の支度と言われても、どの程度が最低の支度なのか、娃子にはわからない。出来れば、もっと具体的に書いてほしかったが、あれほど焦っていたのだから、少しは貯金もしてたのでは…。
ああ、娃子が只で服を縫ってやらなかったから、思うように貯金が出来なかったと言いたいのか。
絹枝も最初の結婚の時、嫁入り道具の少なさを親戚になじられた事に、今でも文句を言っている。
「何も要りません、裸でいいです言う約束で行ったんじゃに。見てみ、娃子。わしらぁこうして苦労して来とんじゃ。うちは貧乏なんで、これしか出来ません。また、これでいいと言う約束です、言うちゃったわ」
いじめられたと言うが、負けずに言い返しているではないか。では、峰子も親族に最低の支度に文句を言われたのだろうか。特に田舎の方では、花嫁の顔と嫁入り道具の品定めは隣近所の楽しみの一つとなっている。
今まで、絹枝と峰子の共通項など考えたこともなかったが、今となってはこの二人、何か、同じようなものが感じられてならない。特に、被害者意識の強いところ。また、記憶力の悪いところ。
「わしゃ、言われたことたぁ忘りゃあせん。絶対忘れけんの」
いや、忘れている。覚えているのはその時の怒りだけ。だから、怒りのあまり「言われたこと」すら改ざんしているではないか。さらに、記憶違いを指摘しても、絶対に認めない。
峰子は「改ざん」こそしないが、忘れている。覚えてないのだから、仕方ないじゃない…。
人が生きて行く上で、記憶力などそれほど重要ではないと言うことだ。日常生活とちょっとした約束事を忘れなければ、この程度の記憶力で生きて行けるのだ。後は、都合の悪いこと、嫌なことは覚えてない忘れたで済ませられる。そして、後に「記憶にございません」と言う名言が生まれる。さらに、行きつく先は、ボケればいい。
つまり、学校の成績など、暗記力と少しの応用力があれば、テストでいい点取ることが出来るのだ。
娃子は、峰子と違って、いや、人と違って記憶力がいい。絹枝ではないが、言われたこと、されたこと、すべて覚えている。娃子は無駄に記憶力がいい。それを執念深いと言う。そうなのだ。すべてを根に持つ、持っている。
持って悪いか。ならば、忘れた覚えてないは悪くないのか。
峰子の愚痴は続いたが、それは望んだ結果の果てである。焦りまくった甲斐あって、21歳と言う若さで大手を振り、邪魔者は蹴散らし、嫁いで行ったではないか。
「女とは悲しいもの。バスで1時間半の実家にも思うように帰れない」
『家付き、カー付き、ハバ抜き』と言うのが、当時の女性の結婚条件だった。
峰子の場合、ババ抜きとはいかなかったようだ。同い年の義妹もいる。ひょっとして、ジジも…。
それは、実家の兄嫁と同じではないか。では、兄嫁は自由に振る舞っていたのだろうか。だから、同居にも抵抗なかった。いや、結婚出来るなら、そんなことは二の次三の次だった。
峰子から兄嫁のとやかくは聞いてないが、娃子は兄嫁のことを少しは気遣うようにと言ったことがあるが、それも、当然覚えてない。
だが、峰子がいくら嘆こうが、すべては上から目線でしかない。
----結婚と言っても、色々大変なのよ。あんたにはわからないだろうけど、これから先も経験することのないことだから、教えといてあげる。
それが感じられてならない文面だった。それでも、連絡してほしいと電話のかけ方まで書いてあった。当時は郡部への電話は交換台を経由しなければ掛けられない。電話にても愚痴りたいのか、いや、結婚早い自慢をしたいのか。また、この手紙は破って捨ててもいいとも書いてあった。
言われなくても、誰がこんな手紙を取っておくものか。すでに、峰子に関するものはみな捨てた。洋裁の型紙、端切れ、写真も年賀状も社員旅行の竹細工の置物も…。
この置物はさすがにごみと一緒に捨てるのは、忍びなかったので川へ流した。だが、これらのことは峰子の方が先にやっていたことだ。きっと、その時は鼻歌交じりで、去り行く幸せに、さぞ、笑いが止まらなかったことだろう。
男は性体験の早さを自慢する。とにかく15歳だとか、中には12歳だと言う『猛者』もいるが、実際のところはどうなのだろう。妄想かもしれない。如何せん、密室の話だから。
一方の女は、結婚は勿論のこと、出産年齢の早さも自慢する。
17歳で2歳の子供がいる。それだけで、男は評価するのだ。また、出産終わりの早さも自慢の対象となる。
「私は、26歳で生み終えたけんね」
と、胸を張って言ったオバサンもいた。
峰子の結婚は極端に早くはないが、何と言っても、自分はまさに、芳紀21歳で結婚するのだ。まだ、周囲の同級生の結婚話も聞こえてこない。幸せの先陣を切って嫁いで行くのだ。それを邪魔などされてたまるものか。娃子には黙っておく。後は「結婚しましたぁ」のハガキを出しとけば、それで終わり。
----ああ、これで、もう、あの醜い顔を見なくて済むぅ。
峰子が高校生の頃、ある所へ出す「作文」に娃子の事を書いた。娃子も読ませてもらったが、その中に「彼女は醜い」とあった。
醜い…。
「彼女は醜い」を文字として見た時は、やはりショックだった。峰子は娃子を醜いと思いながら接していたのか…。
----だって、その通りじゃない。あんたを醜いと言わんで、誰が醜いんよ。私、嘘なんか書いてないよ。
醜い、そして、恥ずかしい。
峰子から高校で仲良くなった友達の話は聞いていた。その友達と偶然市電の中で鉢合わせしたことがある。その時、娃子は紹介してくれるものとばかり思っていたが、なぜか峰子はムスッとしたままだった。
元ポン菓子屋の三女は、娃子より一学年上。娃子が小学校6年生の時は中学生。その頃、娃子と三女はケンカした。相手は3人と言っても口ケンカ程度の事だが、三女たちは「手紙」を、娃子に送りつけて来た。
中身はすべて、娃子の悪口だが、そこには三女の本音が書かれていた。
「お前なんかと、一緒に中学へ行くのが恥ずかしい」
きっと、峰子も恥ずかしかったのだ。その友達は峰子と違って華やかな感じの女子だった。それに引き換え中学時代とは言え、こんな醜いのと友達だったとは恥ずかしくて、到底口にできるものではない。また、知られたくない。きっと、娃子に彼女の話はしても、彼女に、娃子の話はしてないのだ。今後は彼女が、娃子のことを聞かない限りは何も言わない。聞かれた時には、詩のサークルで一緒の人とだけ答えて置く。
今となっては、娃子とのことは、今までの人生の汚点。もはや、娃子との8年間は黒歴史でしかないのだ。下手に、娃子に同情してしまったばかりに、せっかくの幸せにケチが付いた。もう、中学の頃の自分に言ってやりたい。娃子なんぞに関わるなと。
さらに、峰子は自分の信念を貫いた。これが「自分に忠実でありたい」と言うことなのだ。その忠実さの一つが忘却することだった。ついでに、娃子のことも忘れたいけど、あのおぞましい顔だけは忘れようとしても忘れられない。
それでも、少しは悪いとも思い、こうして長々と手紙を書いた…。
手紙を読み終えて、ふと、思った。娃子は峰子に関するものはすべて処分したけど、峰子は、娃子が縫った服はどうしただろうか。娃子の縫った服でデートをし、最低の支度の中に、それらの服も入っていたのだろうか。これが娃子なら、すべて処分する。
娃子には罪があるけど、服には罪はない?
そして、相手の男性には当然ながら、娃子のことは何ひとつ話してない。これからも、話す気などさらさらない。万に一つもないことだが、何かの噂で相手から、娃子の話が出るかもしれない。何しろ、娃子は「有名人」だから。その時は、自分のいい人アピールに使ってやる。今の娃子には、それくらいの利用価値しかない。
そんな手紙だった。
娃子は、峰子との8年間でひとつだけ、悔しいことがある。
正月の凧揚げは男の子の遊びである。娃子たち女の子は羽根突きをしていた。だから、凧揚げの経験はない。
これも、峰子は当然忘れているだろうが、ある時、峰子の家に凧があった。それを上げようと高いところまで登れば、近くに小さな墓があった。子供の墓だった。
「かわいそうに、こんなに早く死んでから…」
二人で手を合わせてから、凧揚げをした。晴れて適度な風もあり、凧は高く上がった、17歳の日。
娃子にとっては、おそらく最初で最後の凧揚げである。そのたった一度の凧揚げの経験が、峰子としかないとは…。
ああ、峰子のように、みんなみんな、忘れてしまいたい。あれもこれも、忘れた覚えてないと言ってみたい。
峰子のように、
いや、これは無理、絶対無理。娃子にそんな生き方が許される筈もない。
でも、もう、これで終わり…。
ではなかった。何と、今度は美子に服を縫ってもらっているそうだ。
それを聞いて、娃子はおかしかった。はっきり言って、美子は下手である。
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