管切り 四

 翌日、娃子が孝子と博美を大和川へ連れて行った。大和川までは一本道である。家の前の道を右に進めばいい。歩きながら、今までにこの川へ来たことがあるか聞いて見た。

 博美が首を振った。確かにちょっと距離はある。普通に歩いても30分くらいかかるだろう。それにしても、正男も嘉子も子供たちをここで遊ばせてやろうとは思わなかったのだろうか。ここなら、金もかからない。

 思えば、奇妙な光景だった。二人とも、サンダルを脱いで川の中に入り、パチャパチャと遊んでいるが、声は出さない。子供二人が声も出さずに、それでも楽しそうに遊んでいるのだ。


 夕方近く、洗い髪のままの嘉子が戻って来たかと思えば、折り畳みの日傘を小脇に挟んだ。その様を見た娃子は、嘉子はもう、ここに戻って来る気はないのだろうかと思ってしまった。そうでなければ、日傘など…。

 嘉子の後から、ハハオヤとアニ、アネ婿もやって来た。そして、話し合いが始まるのだが、その間、子供たちは自宅の方でテレビを見ていた。また、嘉子も取り立てて子供の様子を気にかけることもない。もっとも、家出の度に子供を置いて行くのだから、そんなものかもしれない。


「そやから、この人が家を出て行くのに、お金、みんな持って行きますねん。そしたら、子供らに何食べさせますねん」

「そら、正男さんかて、金持ってるやろ。それで、正男さん、月、どのくらいもろてんねん」


 アニが言った。 


「まあ、三万ちょっと」

「そら、すけない。そら、すけないで正男さん」

「すけないて、ちょっとオニイチャン。酒もたばこもやらん、女遊びもせえへんのに。それやったら、これでもして来い言わはるんですか」


 と、秀子は人差し指を7の字に曲げる。これは、泥棒の意味である。


「そやけど、もちっと…」

「そんなもん、どうにもなりますかいな。そのすけない金を全部持って行くて、その方がおかしんとちゃいます」

「いや、それは…」

「うちの嘉子は世間知らずですよって」


 今度はハハが言った。


「世間知らずやて、十九や二十歳のヨメさんやあるまいし」


 またも同じことを言う秀子だったが、これが実際に二十歳のヨメだったら、十やそこらの子供やあるまいしと言うだろう。

 一方の絹枝はと言えば、アネ婿に、一昨年一家でやって来た時の事を話していた。


「まあ、子供に服、うてやったんですよ。そしたらもう、握って離さんのですから。のう、娃子」


 何が、のう、娃子だ。都合のいい時だけ引き合いに出すな。


「帰りには五人分弁当買うたら高いんで、そりゃ、中の具はあり合わせのもんですけど、早ように起きて巻き寿司を作ってやったんですよ」

「私かて、この前、嘉子さんが実家へ帰った時、子供らにを作って持ってってやりましたし、昨日かて、智男にイモウトを大和川へ連れてってやり、アルバイトしいや言うて、五百円やりましたわ」

「そうかて、アルバイトは…」


 嘉子にはまだ、このアルバイトの意味がわかってないのだ。それをアネ婿が説明していた。


「そう言う時にも、アルバイトて言葉、使うんやから」


 果たして、それで嘉子がどこまで理解出来たかは置いといて、ここからが絹枝の本領発揮である。


「まあ、うちのムスメが、買い物に行きたいんやけど道がようわからんけん、正男のオジサンに付いて来てほしいぃ」


 と、例によって、体を揺すりながら言うのだ。娃子は正男に付いて来てほしいとは言ってないし、話をするのに体を揺すったりなど、一度たりともしたことはないのに、未だに娃子の「言ったこと」となれば、なぜか、絹枝は体を揺りながら話すのだ。だが、その後は背筋をのばして言ったものだ。


「そしたら、このヨメが。まあ、あんた、一緒に行って、たあんとおごってもらいなはれ。たあんと、たあんと」

「そんなこと言うてませんわ」

「なにぃ、二枚舌使うなっ。ふん、何をおごろうと私の勝手じゃ」


 それからは秀子の「おそうめんを」と絹枝の「たあんと」の連呼合戦が始まった。

 以前、茂子が店で買って来た天ぷらにしょう油をかけて食べていた。それを見た秀子が言った。


「茂子ちゃん、天ぷら言うもんは、おソースで食べるもんですよ。しょう油なんかで食べたら、人が笑いますよ」


 おソースの次は「おそうめん」と来た。ちなみに、絹枝が「たあんと」と言う言葉を使ったのは、後にも先にもこの時だけである。では、この「たあんと」はどこから持って来たかと言えば、少し前に見た時代劇ドラマで、ハハオヤが子供に「たんとおあがり」と言っていた。この時、絹枝は「たんと」と言う言葉は、いい言葉だと思ったようだ。そんないい言葉、娃子なんぞに使う気はないが、今は、まさにその使い時である。


「そら、私もあんたに暴力振るうた。振るうたけど、嘉子さんかて、物干し場で人さんの洗濯もん寄せて、自分とこのもん干してたて言われてんやけど」


 三戸のアパートの住人用の物干し場がある。そこに嘉子も洗濯ものを干すのだが、その時、干してある人の洗濯ものを平気で端に寄せ、自分の洗濯ものを干すと苦情が来ている。


「そやけど、正男さんにも、もちっとしっかりしてもらわな」

「しっかりて、オニイチャン。真面目にやってますやないの。それに夜は仲ええもんですわ。一緒に風呂入ってますわ。そない言うのやったら、嘉子さんかて、バカな男やったら、賢う見せてほしいっ」


 さすが秀子だ。言うことだけは知ってる。自分はやりもしない、やる気もないくせに、人にそれを要求する。

 この間にも、絹枝はアネ婿に、娃子のを物語っていた。誰もが興味を持つ、娃子の顔。いや、好奇心を抑えられない。それを行きや遅しと待っていた絹枝である。例によって、あれもしてやりましたこれもしてやりましたと、自分自慢の大安売りが始まっていた。

 そして、夜も更けて来た。そろそろと言う感じになった頃、嘉子は言った。


「やっぱり、このまま帰りますわ」

「なんやのっ、あんた。オニイチャンらに、いらん頭下げさしといてから。それこそ、何のために帰って来たんや」


 結局、嘉子はハハオたちと実家へ帰って行ったが、では、この話し合いは何だったのかと、娃子は思った。アニたちも、嘉子を子供たちの元へ戻そうとしてやって来たのではないのか。そう言えば、嘉子からもハハからも、子供を気遣う言葉は出ないままだった。


 翌日から、絹枝の正男宅の「探し」が始まった。タンスや押し入れの中を開けてみる。それより、娃子は板間に大きな木箱が置いてあるのが気になっていた。


「これが、長持ちよ」


 長持ち!!これが、あの♪箪笥長持ちの、長持ち…。

 娃子にとって長持ちなど、時代劇の中のものでしかない。それも、昭和初期ならまだしも、戦後の嫁入り道具に長持ちとは…。

 では、この長持ちに何を入れて来たのだろう。そして、洋服タンスを開ければ、下の方に娃子の三歳の時の着物が丸めて入っていた。

 孝子と博美の七五三用にやったものだが、それが洋服タンスに丸めて放り込まれていた。娃子はその着物を持って帰ることにした。

 その時、博美が少し離れた所から、例によって体をくねらせながら、こっちを見ている。遊んでほしいのだ。

 博美と綾取りをした後「ほうき」の作り方を教えていると、孝子もちゃっかり側に来て、次は自分にもやらせろと圧をかけて来る。何とか、二人ともほうき作れるようになった。そして、絹枝から、またも衝撃の話を聞く。

 

「紋付を袖畳みしとった。着物の畳み方も知らんのんか。それとのう、スカートを手縫いしとったんじゃが、まあ、チンパンジーが履くようスカートじゃった」


 チンパンジーが履くようなスカート…。

 絹枝の「例え」にはいつも驚かされる。どうやら、絹枝には独断と偏見を超えた独自の世界があるようだ。娃子はそのチンパンジーが履くようなスカートを見たかった。


「捨てたわ」


 まだ、間に合うのでは思ったが、何と、破って捨てたと言う。手縫いなので簡単に破ることが出来た。もし、嘉子が戻って来るようなことがあったとしても、スカートくらい娃子に縫わせればいい。その方が嘉子にとっても損はない。


「もう、ほんまにあんなヨメ、子供が一人くらいの時に戻しときゃ良かったのに。三人も出来てからにぃ」


 何を言ってるのだ。子供がまだ一人の頃に嘉子を追い出していれば良かったとか言うが、では、その子供はどうするのだ。嘉子が引き取れば養育費がいる。正男が引き取っても育てられないだろう。だが、絹枝は今三人の子の中で、一番かわいがっているのが、博美ではないか。


 正男の事は気になるが、絹枝もそろそろ帰らねばならない。そして、最後に正男に言って聞かせた。


「正男ぅ。もう、あのヨメ戻すな。絶対戻すな。もし、戻すんやったら、よ言うて、もう、うちに来るな」


 これには、娃子の方が驚いてしまう。そんなこと言っていいのか…。

 何かの折りには、その言葉を秀子に利用されないとも限らない。いや、真っ先にその「罪」を擦り付けることだろう。だが、今の絹枝はひたすら嘉子憎しである。


 そして、秋になった。

 秀子からまさかの、手紙が来た。ひどい、かな釘流の手紙だった。その内容とは、嘉子が離婚裁判を起こし、自分たちを悪く言っているので来てほしいとのことだった。

 今まで、絹枝が秀子宅へ行けば「何しに来たんや」しばらくすると「いつまでおるんや」では帰ると言えば「もっとおれや」と言った人間が、初めて来てくれと言ったのだ。普通なら、何を勝手なことばかり言ってと怒りそうなものだが、とにかく、正男のことが気がかりな絹枝は早速に大阪へ行く。


 絹枝が一人で大阪へ行くのは今回が初めてではない。では、その間、娃子は庄治と二人だけになってしまう。それで、何ともないのかと思うかもしれないが、いい気はしないが、庄治は既に老化が始まっていた。

 

「夫婦の力が、のうなったら、そんなに邪険にせなならのんか」


 と言っていた。娃子の前でも平気でこんな話をするのだ。また、色黒の両手首に蝶の羽根状の青紫色のアザの様なものが出来ていた。それが本当に、気味の悪い青紫色なのだ。


「何じゃ、そりぁ。気持ち悪いのう」


 娃子は図書館で調べてみた。それは「老人性紫斑」と言うものだった。この時、庄治六十歳。

 さらに、今の娃子は強い。うっかり手を出そうものなら、逆にどんな目に合わされるか知れたものではない。いや、そこは強いものには弱い庄治である。

 また、1:1とは、何かと反目しあうものである。そして、娃子は出来るだけ遅く帰えるようにした。その頃には庄治は寝ているが、布団の中から、娃子の様子を伺っている。絹枝が帰って来れば、逐一報告するためである。

 うまく行けば、娃子が絹枝から怒られる。その時、ざまあみろと快哉があげられる。だが、娃子は庄治が絹枝に何を言い付けようと構わない。娃子も負けじと言い返す。それくらいの材料は持っている。それより、やはり離婚裁判が気になる。どんな話し合いになるのだろう。


 当日、秀子絹枝正男が裁判所へ行けば、嘉子が駆け寄って来た。


「まあ、あんた、ちっとも来てくれんかったね」

「お前、実印、持ってるやろ」

「持ってるけど」

「いるねや」

「何に使うの」

「いるねや」

「そやから、何に使うの」

「いるねや」

「そやから」

「正男、取り消してもらえ」


 絹枝が言った。


「実印なんか、新しゅう作りゃえんじゃ」


 そして、調停が始まった。


「まあ、嘉子さん、よう言わはりますなあ。もう、この人が家出て行く時、子供みんな置いて行きますねん。それだけやないんです。もうお金も、みんな持って行きますねん。そんなんで、子供に何食べさせますねん」

「えっ、では、子供さんは、今どちらに」

「うちにいてますがな」

「と言いますと。正男さんとオネエサンのところにですか」

「そうですわ。この人、一遍も誰一人として、子供連れてったことありませんねん」

「はあ…」


 嘉子側の訴えの中には、子供は引き取るとあったが、ちょっと話が違う。その後もは続いたが、最終的には調停員の方が離婚を勧めた。嘉子のあまりの頑なさ、意固地さに手を焼いたようだ。

 この国の離婚に関しては、概ね女性有利に展開されていく。女性の社会進出が顕著な時代とは言え、世間はまだまだ、男上位の国である。さらに離婚となれば、女は不利益を被る。嘉子の場合は専業主婦であり、足も悪い。また、義姉から暴力を振るわれた。そんな女が子供三人引き取って離婚と言うのだから、よくよくの事だろうと思っていたが、まさか、子供を置いたまま実家へ帰っていたとは…。

 双方ともに取り立てて非はないが、子供に対する嘉子の情が感じられない。

 そして、子供は正男が引き取る。また、慰謝料ではなく、別居していた三ヶ月間の生活費10万円を嘉子に渡すと言う条件で、離婚は成立した。最後に嘉子は涙を流したと言う。

 これは、絹枝が子供は引き取れ、キョウダイは離してはダメだと力説していたことにも起因する。


「キョウダイは、離したらダメじゃ。離したら、アネみたいになってしまう。アネに情がないんは、早うに家を出たけんじゃ。絶対、離すな !」


 余談だが、家庭裁判所の女性調停員の話である。ある夫婦が離婚することになった。彼女は今後の妻の生活のためにも、少しでも有利な条件を確保すべく尽力した。だが、数か月後、この二人が並んで歩いているのを見た。どうやら、元のさやに収まった様だ。それはそれでよかったかもしれないが、では、自分のやったことは何だったのかと、虚しさに襲われてしまう…。


「秀子さん、死んだら、帰って来はるわ」


 妙子が言った。

 離婚とは、そんなものだろうか…。

 












 



 











 


 























































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