管切り 三
この時、娃子は孝子と博美のワンピースを縫って来ていた。
「ひろみいぃぃ ! たかようぅ!」
絹枝がこれでもかと言うくらい声を張り上げる。少しくらい敷地が広いと言っても、地声が大きいところへ持って来て、この辺りは平屋の多いところで、ちょっと大きな声を出せばそれこそ、そこら中に響き渡る。
「絹枝さんが来はったら、すぐにわかりますわ」
と、近所の人に言われる。
「もう、田舎もんやさかい」
と、秀子もお手上げである。だが、当の絹枝は他人からどう思われようと知ったことではない。二人のメイに服を作って来てやったのだ。ここはいいオバ、アピールをしたくてたまらない。また、絹枝は「たかこ」が発音しにくいらしく「タカヨ」になっている。
そんなに大きな声で呼ばれたなら、行かないわけにも行かず、あの絹枝のことだ、何か土産をくれるに違いないと、この時ばかりは嘉子ともども嬉しそうな顔でやって来た。
それは
新しい服を着た博美は嬉しそうにしていたが、いつもはムスッとしている孝子も悪い気はしてないようだ。
----まあ、これで、ええとしといたる。
「博美、こっち来てみい。おお、よう
と、絹枝はご満悦だが、生地を選んだのは娃子である。絹枝のセンスが良くなったのは、自分の着るものだけででしかない。
「嘉子さん。新しい服、いつまで着せてるのや」
秀子が言った。
昔の人は、新しいものは先ずはよそ行き着にしてから、普段着に格下げにしたものだが、嘉子は夏用のワンピースなので、もう着せたままでいいと思っていた。そのために持って来てくれたのではないか。何より、絹枝は喜んでいるではないか。嘉子は黙って、二人の子供を自宅へ連れ帰った。
ここからは娃子の番である。もう、ここぞとばかりに秀子は、娃子に台所仕事から、その辺の片づけまで言いつけ、その間に、絹枝と夕飯の買い物に行く。
例によって、秀子がろくなものしか買わないから、見かねて絹枝があれこれ買えば、機嫌がいいことこの上ない。そうなのである。秀子が絹枝の家に来ても手土産はおろか、何一つ買うでもないが、絹枝がやって来れば、絹枝に買わせるのである。商店の人たちもそのことはよく知っていて、絹枝をほめそやす。
「まあ、私ら、あの人の真似はようせんわ」
「ほんまに、そうやわ」
「なあ、夕飯のおかずまで買わせるんやから」
世の中に、絹枝ほど貧乏くじを引いた者がいるだろうか。それにめげもせず、実子でもない娃子に貧乏の中、顔の手術をしてやり、洋裁学校にまで通わせているとか。どうりで近頃の絹枝は普段着でもいい服を着ている。また、絹枝にいくらか余裕が出来たからと言って、それにたかろうとする秀子のさもしさ…。
だが、近所の人たちの本当の関心は、今までの事、今の事より、娃子が真実を知った時が待ち遠しくてならない。
どこの家でも、多少のいざこざはあるものだが、秀子のところは揉め事の宝庫である。茂子の事でも、茶のみ話に事欠かなかった。だが娃子はそれ以上だろう。ましてや、ジツのオヤがすぐ側にいるのだ。さぞかし…。
それを想像すると、今から、口の中が待ち遠しくてならない。
ああ、新しい蜜が届くのはいつの日か…。
だが、娃子の蜜より先に、別のシロップが届くことになった。
娃子は最初の手術をした時から、病院の勧めでカバーマークのファンデーションを使っている。現在は顔のシミなどを隠せる化粧品となっているカバーマークだが、元は「リデイァ・オリリー」と言う顔にアザのあるアメリカ人女性が、塗り重ねると下の色が隠れてしまう油絵の具から思いつき、商品化に成功したファンデーションである。
今はカバーマークも種類があるが、日本に入って来たばかりの頃は、アザなどを隠す目的のものであり、自分の肌に合う色がなければ、混ぜ合わせて使うものだった。
娃子も二種類の色を手の甲で混ぜ合わせるよう教わったが、これが中々思うように行かない。サロンに行き、もう一度、色の調合を教わりたかった。カバーマークサロンも当時は東京、大阪と言った主要都市にしかなく、現金書留で商品を送ってもらっていた。
サロンに行ってみたいことは絹枝に伝えてあったが、地図が簡略すぎてよくわからない。そのことを知った絹枝の顔がパッと輝いた。
「そんなら、正男に付いてってもらわんかい。正男なら定期持っとるじゃろうけん、のう」
絹枝は急ぎ正男宅の玄関先で、例によって昔の方言丸出しで叫ぶ。
「正男おぉ。娃子が買いもんに行きたいんじゃが、道がようわからん言うけん、お前、定期持っとるじゃろうが。付いて来てくれえやあ」
昨日の夕食にしても、正男と一緒ではなかった。また、その後も少し話をしただけで、すぐに嘉子が連れ戻しに来た。絹枝は日頃いいものを食べてないであろう正男に好物の鰻を食べさせてやりたかった。それにしても、嘉子が正男を家から出さないのだ。イライラしていると、娃子が都合よく正男を連れ出すきっかけを作ってくれた。
そして、待っていると、嘉子に孝子、博美までぞろぞろとやって来た。みんなで行くのかと思っていると、絹枝が言った。
「正男だけで、ええのに」
「嘉子さん、薬買いに行くんやから。遊びに行くんやないし」
秀子も言った。
「子供、騙すようなことして…」
と、明らかに不満顔の嘉子だった。娃子も別に騙したつもりはない。また絹枝も、正男に付いて来てくれと言っていたではないか。
正男が近くにいれば、絹枝の関心は正男に移る。日頃、洋裁以外の娃子の行動に常に目を光らせ、あら捜しに余念のない絹枝の関心が少しでも逸れるのだ。それだけでも、娃子には随分気が楽と言うものだ。だから、深くは考えなかった。
絹枝にとって正男はジツのオトウトであるが嘉子は他人である。また、いいヨメならともかく、こんなろくでもないヨメに鰻を食べさせる気などさらさらなく、子供はすぐに歩くのを嫌う。
そして、娃子たちが駅で電車待ちをしていると、博美の手を引いた嘉子がやって来た。当時は自動改札でもなく、ちょっと言えば、駅員が通してくれることもあった。
「あのね、博美ちゃんがどうしても行きたい言うて…。ごちそう食べさせてやってな。あ、それ、持って帰ろか」
と、正男のポケットの眼鏡に手を伸ばすが、正男は目が悪く、遠近と二種類の眼鏡を使い分けている。外出時にはどちらも必要なものである。
「そやけど、落としたら…」
と、いつまでも正男から離れようとしなかったのに、次の瞬間、何を思ったか嘉子は博美の手を引き急ぎ足で帰って行った。まさに、今のは何?と言う感じだったが、その時、電車が来た。
サロンの帰り道、鰻を食べてから地下街を歩けば、正男は子供のおもちゃなどをあれこれ手に取って見ていたが、買うことはなかった。
帰宅してから、そのことをしんみりとした口調で秀子に話す。
「なぁーんも買わんかったわい。やっぱり正男は金持っとらんのんじゃのう」
おそらく、月の小遣いもわずかなのだろう。
----かわいそうに…。
確かに、金もなかったと思う。だからこそ、あれは絹枝に買ってくれと言うアピールだった。もう、必死にアピールしていたではないか。娃子ですら、それがわかったと言うのに、オトウト思いの絹枝が、それに気付かなかったとは…。
子供におもちゃの一つでも買って帰れば、少しは嘉子の機嫌も良くなるだろう。だが、あれほど粘ったのに、今日のアネは何も買ってくれなかった。帰れば、早速に嘉子に嫌味を言われた。
「何、食べたん」
「うなぎ」
「自分だけ食べてええこと」
「しゃあないやろっ」
「なんやのん、みんなで行こ言うたん、あんたやないの」
見っともないくらいに絹枝が大きな声を出して、正男を呼んでいた。正男も嘉子も、それを絹枝が自分たちをどこかに連れてってくれるものだと解釈した。
今日はどこで何をと喜んで行けば、何と、正男一人でいいと素っ気ないことこの上ない。嘉子が博美とともに駅まで行ったのは、追いかけて行けば、ひょっとして連れて行ってくれるかもしれないと思ってのことだ。孝子は外出はあまり好きではなく、この時も行かないと言った。
嘉子の当ては外れた。それに、土産もないとは…。
だが、これで終わりではなかった。翌日、早速に嘉子は呼び付けられる。
「嘉子さん、昨日のあれ、何やったん。私はまた、あんたが博美連れてその辺歩いて来るんかいな思とったんやけど」
「よう、駅までやって来たわ」
「あれは、博美ちゃんがどうしても行きたいて言うたんで」
「そこは、あんたが言うて聞かさんかいな。あんた、幾つやねん」
「四十です」
「そんななあ、十九や二十歳のヨメさんやないんやから、わかるやろ」
その後も、ぐたぐたと同じような小言が繰り返されたが、立ったままの嘉子は、なぜかくすっと笑った。
「そうそう、あんたはそれでええの」
これで一応お開きとなるのだが、嘉子にしてみれば、いつもの小言を聞かされるだけ。秀子にしても絹枝にせっつかれてちょっと言ったに過ぎない。やはり、嘉子を竹箒で叩いたと言う「弱み」もあるが、単細胞の絹枝はそれで納得したようだ。
「のう、アネが言うたじゃろうが。そしたら、あのヨメがにこぉと笑ろたじゃないか。そうそう、あんたはそれでいいの」
と、これまた、秀子の口真似をしながら、嬉しそうに話すのだ。
娃子はあれは、思い出し笑いだと思った。秀子の小言などうわの空で聞き流していた嘉子だったが、そんな時、ふいにつまらないことを思い出してしまった。また、文句を言われるかと思ったが、今回はそんな思い出し笑いが、功を奏したようだ。
だが、嘉子の気持ちはそんなことでは治まらない。昨日のことは絹枝が悪いのだ。子供に気を持たせるようなことを言っておきながら、そんなことは言ってない。また、せっかく博美を連れて行ったのに、それなら連れてってやろうとも言わなかった。
午後になると、英男一家がやって来た。娃子がいるのを知ると、すぐに顔を背ける男である。
----えらい時に来てしもたなあ。
出来れば、いや、二度と見たくない顔である。だが、来た以上はすぐに帰るわけにも行かない。今夜はここで飯を食べるつもりにしている。
絹枝も英男が嫌いである。どこか抜け目のなさがあり、いくら、英男の妻が本家の孫だからと言って、自分にとっては赤の他人である。嘉子もそうだが、久しぶりにキョウダイが集まったと言うのに、もう他人が邪魔をしないでほしい。確かに、付け足しの娃子がいるが、これは致し方ない。なのに、秀子が英男の二人の子をかわいがるのだ。
「ほら、郁男、郁美もこっち来てみ。こんなんあるで」
もう、絹枝は腹立たしくてならない。いくら英男が恒男のオイだからと言って、所詮は他人ではないか。そんな他人の子供など放っておけばいいのである。それより、ジツのオトウトの子供、本当のオイメイをかわいがってやれと言いたい。
この一家、時々、秀子の機嫌を取りにやって来る。そして、あろうことか、義男と則子もやって来た。
皆、金の匂いには敏感で、金のあるところには自然と人が集まって来る。
さすがに、この日の夕食材は秀子が買ったが、誰も酒を飲まないのに、英男のビールはすぐに酒屋に電話注文していた。
そして、人の声がすれば、博美が家から出て来る。孝子と違い、人寄りが好きなのだ。娃子が呼べば、にたっと笑いスカートを裾をつまんだり、体をくねらせたりしている。本当はすぐにも上がりたいけど、ハハオヤに怒られそうな気がするので、ためらっているのだ。
「博美、上がって来い」
絹枝が言った。その頃には正男も来ていた。食事は秀子と娃子が用意し、絹枝はお得意の腹の探り合いに参加していたが、義男と則子まで食べる気満々にはちょっと驚いた。実は、昨日の買い物の時に偶然絹枝と会っていた。今までなら、絹枝は即、義男宅へ押しかけたものだが、今は正男一家が同じ屋根の下にいる。出来れば、正男とずっと一緒にいたい。
それが、則子の方から、それも義男付きで押しかけて来るとは、何か魂胆でもあるのだろうか。だが、そこには英男もいた。そして、腹の探り合いが始まる。
娃子は博美と一緒に少し離れたテーブルで食べていた。博美は終始嬉しそうにしていたが、やはり一言も話さない。食事が終わりに近づくと娃子はわざとお茶か水、どっちかと博美に聞いた。
「おちゃ」
少し間があったが、それが、娃子が聞いた博美の初めての声、言葉だった。そして、食事が終わったのを見透かしたように、嘉子が博美を呼びに来た。
「よばれたら、帰っといでっ」
博美は面白くなさそうに帰って行く。
だが、翌朝、秀子と嘉子がまたも、何やら揉めていた。
「何遍、言うたらわかるねんっ」
嘉子は黙って秀子を睨み付け、家に入ってしまう。
「何をまたぁ」
「なんもかも、あるかいな。昨日、私がなっ」
娃子たち三人がサロンに行き、嘉子と博美が戻って来た時だった。秀子が、長男の智男に、イモウトたちを大和川へ連れてってやるように言った。
「なっ、アルバイトしぃや」
と言って、何と五百円札を握らせたのだ。秀子にしてみれば、それこそ大盤振る舞いである。
「あっ、あのね。アルバイトは学校でしたらいけないってことになってるんで」
嘉子が言った。
「そのアルバイトとは、違うやろ」
「そうかて…」
嘉子にはこの時のアルバイトの意味がわからないようだ。
----ほんま、アホやわあ…。
そんなどさくさに紛れて郁男はどこかへ行ってしまった。夜になって、智男を捉まえて秀子は言った。
「どこ、行ってたんや。行く時は行くて言わんかいな。それと、五百円、どないしたんや」
智男は本を買ったと言った。これは、娃子はウソだと思った。秀子も絹枝の手前それ以上追及しなかった。
だが、今朝、またも嘉子が言うのだ。学校でアルバイトはしてはいけないことになっていると。もう、秀子はあきれてものが言えない。だが、今日は茂子の面会に行くことになっている。
脳梅毒にかかり、精神に異常をきたした茂子が、夜の街をふらついていたところを保護され、今は精神病院に入っている。秀子は月に一度、面会に行く。その時は、正男か則子が付き添うことになっているが、今回は絹枝と娃子が一緒だった。
貝塚の精神病院まで、電車を乗り継ぎ、片道2時間。駅からも少し歩く。途中に小さな店があり、そこで、スイカを買った。
「いやあ、オバちゃん」
茂子にとっては、絹枝は今でもやさしいオバであるが、それより、早くスイカが食べたい。早速にかぶり付く。
だが、この様にして、月に一度でも面会に来てもらえるのはまだいい方で、家族から見向きもされない入院患者もいると言う。
久しぶりに会った茂子はさらに太っていた。また、茂子には悪いくせがあった。とにかく、風呂に入るのを嫌うのだ。何しろこの巨体である。とても看護婦の手に負えるものではない。体が悪臭を放っても入ろうとしない。正男が面会に来た時も看護婦が手を焼いていた。
「オトウサンはきれいにしているのに…」
「違いますよ。オジですよ」
と、必死で訂正する正男だった。
そして、帰宅すれば、またも、嘉子は実家へ帰っていた。
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